「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

バット・イェオル女史の主張は正当か、成立しうるか?(p284~)

2012-11-06 22:32:10 | 現代欧州
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 歴史家たちの総意によれば、中東の近代史は1798年、皇帝就任前のナポレオン・ボナパルトがエジプトを容易く制圧した時に始まった。この活動は結局失敗するのだが、制圧のためにアレクサンドリアでナポレオンはこう宣言し、イスラムを讃えた。「エジプトの民よ、諸君らは私がイスラムを殺しに来たと思っているのだろう。しかし、それは違う。君達の侵攻を妨げる搾取者たちを膺懲しに来たのだ!私は、マムルークよりもアッラー、預言者、コーランを尊敬している」(バーナード・ルイスより)
 演説の締めは、「神は偉大なり、ムハンマドは神の使徒なり」だったため、現地のムスリムはこれを入信文句「ラー・イラーハ・イッラッラー・ムハンマド・ラスールッラー」(シャハーダ)と受け止め、ナポレオンがイスラムに改宗したと判断した。事実、部下のジャック・メノーが改宗している。
 ナポレオンは結局ネルソン英提督の攻撃を受け撤収したが、この戦役はイスラム世界に対する西欧諸国の優越を証明する大事件となった。西洋の夷教徒たちはいつでもイスラムの家のど真ん中に侵入できる。この危機感が当時エジプトを支配していたオスマン帝国の危機感を煽り、最初のイスラム改革に踏み切らせた。
 エジプト膺懲の過程でロゼッタ・ストーンが発見され、古代エジプト学の基盤が整えられた。しかし、この遠征はやがてフランスなどの全欧州に恒久的影響を与えていく。
 フランスは後に現在のアルジェリア、チュニジア、モロッコを植民地化し、第一次大戦後はシリアやレバノンも手に入れた。第二次大戦後、1962年のアルジェリア独立を最高潮に、フランスは中東から撤退する。だが、この植民地支配の過去がエリゼ宮に「自分たちはアラブ・イスラム世界の理解者だ」という感覚を植え付け、新たな外交政策の基盤を用意した。
 転機となったのは1967年、ドゴール大統領が6日間戦争でイスラエルがヨルダン川西岸とガザ地区を占領したことを非難した時に訪れた。それまでは、スエズ運河国有化での共同介入にみられるように、フランスはイスラエルの同盟国だった。しかし、これを境にフランスは親アラブ国となる。
 ナポレオンは「当代のタレーラン」たるドビルパン首相にとっても英雄だ。2005年、結局は否決された欧州憲法草案について、「欧州の大法」が確立するとフランスの政治家たちは語った。ドミニック・ペルベン法相いわく「待望のフランス的欧州が顕現する。本憲法条約の真名は大フランスだ。欧州をフランス語で記録するのだから」
 欧州統合の推進役はずっとフランスだった。イラク戦争の時、フランスが欧州支配の夢を放棄していないことが顕現した。米国を支持するポーランド、ハンガリー、チェコについて、シラク大統領は2003年こう述べた。「米国を黙らせる千載一遇の好機を3国は逸した。態度の悪い3国は米国に追随することへの危険を分かっていないようだ」
 また、漸進的な欧州統合の理論を整えた「欧州統合の父」ジャン・モネもフランス人だった。『超絶なる詐欺――EUは生き残れるか?』の共著者リチャード・ノースによると、モネは1920年代から主権国家としての「欧州合衆国」の誕生を夢想していたが、「もう一つの政府間機構をつくる構想にみえるよう意図的に中性的な用語を選択した。国家主権の超克を恐れる国家政府に対処するためだ」
 同書によると、通説とは異なり、EUの構想は第二次大戦の1世代前から存在した。1950年5月9日の「欧州の日」、シューマン宣言が出された。同宣言には「欧州連邦創設への第一歩が記された。やがて、この連邦構想は具体化されていくだろう」。同宣言がEU創設への黎明とされているわけだが、宣言文のこの部分は通常無視(スルー)されている。つまり、

 連邦とはもちろんEU全体を超越する主権国家のことなのだが、この事実は注意深く隠蔽された。しかし、EUはEECからの発展の歴史のなかで、固有の旗、歌、議会、最高裁、通貨、法律を整備してきた。統治機構の整備に当たり、EUの父たちは欧州市民にその長所のみを語った。統合を阻止しようとする勢力が十分な力を持たないよう留意しながら、彼らはこの大いなる計画を漸進させていった。EUの真名を一言で述べると、「史上最大の壮麗なる漸進クーデター」に尽きる。

 まこと、EUは民主主義の手続きを空洞化し、真名を明かさず従来の国家を隷属させる戒禁である。
 皮肉なことに、今やフランスが自らの政策が齎した成果に呑みこまれようとしている。2005年にムスリム移民が起こしたジハード(暴動)は、ユーラビア構想が今やフランスの内政問題に発展したことを示した。アラブへの媚態政策を続ける限り、フランスは益々紅世化していくだろう。
 イスラムの人口爆発は脅威的だ。フランスの新生児は今や、3人に1人がムスリムという。ムスリムの蕃城(ゲットー)は事実上シャリーアに支配されている。近未来の大騒擾を予言する者もいるくらいだ。
 ユーラビア計画を始めたフランスを怪物に呑まれたフランケンシュタイン博士に喩えて、詩情に耽っている場合ではない。フランスの陥落は、西欧にとって紅世焔劫なる災厄だ。フランスの財産や核弾道がジハーディの手に渡るのだから。
メデア(欧喰協力地中海研究機構)は、欧州委員会の支援を受けて欧州・アラブ対話を推進する機関だが、そのホームページには、

「欧州・アラブ対話は神無月戦争や石油禁輸から間もない1973年、フランス主導の下コペンハーゲンで第1回の会合を開きました。欧州側は経済問題を話し合う場と捉えましたが、アラブ側は政治問題の方をより重視しました。メデアは対話の促進を通して、政治、経済、外交、記者、学術の交流を進めていきます。

 メデアは公式サイトで、研究成果を英仏語で公開している。イェオル女史がユーラビアの本性が確信犯的に顕現している論文を探してくれた。論文は多いが、2000年6月19日付で出された「欧州評議会の共通戦略――EUの地中海地域への展望」には、「交流促進のために、マスコミや大学に特段の注意を払う」とある。
 同論文には、「文化と文明の対話を進めつつ、不寛容や人種主義と戦う」ことも謳われた。これはパレスチナのインティファーダが活発化する前に出されたものだ。法律についても「相異なる双方の法制度に配慮する」ことが謳われた。婉曲なので一般国民は気づかないだろうが、これは「ムスリム移民のシャリーアに合わせて、欧州の世俗法を改正していきましょう」という意味だ。
2003年12月には、ハビエル・ソラナ元NATO事務局長とプロディ、パッテンの三者が「EUとアラブ世界の提携強化を目指して」という計画書が発表し、自由貿易地帯の創設と共に汎文化的な欧喰交流の推進が謳われた。つまり、

 アラブの移民は欧州の発展に大きく貢献してきた。我々はあらゆる人種主義と差別に立ち向かう所存だ。移民の人権は欧州全域で守られねばならない。

 「EUの僚犬」ロマーノ・プロディは自由貿易のための犠牲の対価として、「人民の自由な渡航」を含む4つの自由をアラブ諸国に与えた。人口爆発するアラブ諸国の移民を自由に欧州内部へ移動させることに伴う問題は、マスゴミ内で完全スルーされた。欧州の終焉の前兆がだ。前月の第6次EU地中海閣僚級協議でも同趣旨の声明が出された。2006年6月、イタリアの首相となったプロディが出した声明も同じだ。
 イェオル女史がユーラビア主義の筆頭に挙げたプロディの言葉の中に、欧州人民の期待感が少しでも入っていただろうか?実際に「欧州・地中海自由貿易地域」が発足すれば、アラブ諸国やトルコから移民が押し掛けてくることへの。
 2004年5月のダブリン宣言では、モーリタニアからイランまでを「地中海の隣人」とし、単一市場実現のための4つの自由(移動、資本、財、奉善[サービス])を政治状況に応じてイスラム諸国に開放していくことが宣言された。しかし、ここでいうエジプトやシリア、アルジェリアとの「正義や内政事項での協調」とは何を意味するのだろう。
 1995年のバルセロナ宣言では、「地中海諸国」との議員対話の強化が謳われた。その措置は後年さらに強化され、2004年にはエンパ(環地中海議員議会)となって結実した。エンパは各120名の議員で構成する議会のことだ。
 僕を含め、エンパの存在を知る者は皆無に近い。しかし、このエンパが欧州の命運を握っているのだ。イスラムの協力相手にはシリアなどの非民主国家もある。そのような勢力がEUに大きな意見力を持っている。既に我らの国会議員もまた欧州議員の「下請け機関」と化しているわけだが。
 2006年のアルジェ宣言はより大きく踏み込んだ。「普遍的価値に基づく環地中海関係の構築」と題して「将来への共有展望」が綴られたのだ。そこでは以下のようなことが提唱された。

・既存メディアによる環地中海ジャーナリズム・センターの開設
・「調和的な教育体制」の整備(欧喰間で何をするのか)
・ノウハウ移転の効率化と「人員循環の活性化」
・「文化の担い手」たる学生、知識人、芸術家、実業家の交流推進
・環地中海関連の省庁間を北南横断的(欧州とアラブ諸国のことを指す新語)に連結する
・青年クラブや教員の交流強化
・嫌悪主義の謀宣を封絶するために、インターネットも用いて「市民の番犬」機関を設置する

 こうした合意は、欧州の歴史教科書を親イスラム的に全面修悪し、「人種主義的要素」を「嫌イスラム流」として抹殺する形として現在も大いに顕現している。
 オーストリアのワルター・シュヴィマー欧州評議会事務総長は2004年、イスタンブールでの外相会合で、「イスラムは多様なる欧州の一部」と述べた。総長はまた、「嫌イスラム流」をはじめとするあらゆる不寛容と戦う決意も述べた。
 評議会は同年、欧州の歴史教科書におけるアラブ・イスラム文化の表象を巡る協議会にも関与した。欧州・アラブ対話の一環で開かれた同協議会では、イスラム文化に不都合な烙刻的描写が槍玉に挙げられ、この悪い烙印をどう克服していくかが話し合われた。
 ドイツのキリスト教民主党のハンス・ゲルト・ピョテリング欧州議員は、教科書内のイスラムに関する烙刻的描写をEUとイスラム世界の代表団で「修正」することを提起した。他宗教への偏見を煽らない範囲で欧州の身份を護ろうと訴えたのだ。イスラム諸国会議機構(OIC)と共同で「教科書修正委員会」をつくることも提案した。
2005年6月には、モロッコのラバトでユネスコやOIC協賛の下、「文化と文明の対話促進」という名の会議が開催された。これは、デンマークでの預言者戯画騒擾の前に開かれたものだ。
 協賛者の一つデンマーク文化開発センター(DCCD)のオラフ・ハンセン局長は具体的提案として、「欧喰間の理解を促進するための教材開発や教科書の修正」を訴えた。名言はされなかったが、1300年間欧州に対して行われてきたジハードの歴史に関する不都合な描写を「烙刻」として除去したいことは明白だ。この趣旨に基づき、ラバト宣言が採択された。
 セルジュ・トリフコビッチによれば、

 現在、欧州は全面的に優勢だが、倫理面と人口面で弱点を抱えている。EUの拡大に伴い、故郷と歴史への疎外感も拡大している。この超国家的幻惑が多くを、イスラムの異人たちによる人口拡大の受容へと導いている。これは欧州議会によって拡大されている。欧州議会は1991年から、欧州社会へのムスリムの貢献を評価し、イスラムを脅威とする烙刻に反対する決議を出し続けている。

 ECRI(人種主義と不寛容に反対する欧州委員会)は加盟国に対し、イスラムに関する真摯な議論を違法化し、親イスラム的な「アファーマティブ・アクション」を採るよう求めた。トリフコビッチいわく、「皮肉敗北主義者にして腐偽なる自分の階級にしか通用しない言葉を操るEUの官僚は、差し詰めジハーディの伴侶だ」。

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