「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

1.28 補足事項(p277~)

2012-10-30 20:42:47 | 理想の西洋世界
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 シンド地方へのジハードとイスラム化
 現パキスタンのシンド地方には、シリア州のムハンマド・ビン・カシム・アル・タカーフィーが8世紀に侵攻し、インダス川沿いにパンジャブ地方まで制圧した。シンド州は今も南アジアのイスラム史を開いた場所として「バーブ・エ・イスラム」(イスラムへの扉)という雅称がついている。

 共産主義者の犯罪に関する膨大なデータ集
 スペイン語のalerta360を参照

 テンプル騎士団について
 テンプル騎士団や十字軍に関する書籍は実に多い。アマゾンの他フリーメーソンの情報網も参考にしてほしい。彼らは基本的に慈善組織だが、真摯な歴史研究も行っている。
 ジャスティシア・ナイトへの志願者は皆、マルタ島のバレッタやエルサレム、それにテンプル騎士団関連の史跡をすべて巡礼して欲しい。フランスや英国、ポルトガル、スペインなどには騎士団の建物も残っている。

 第一部・終わり

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1.27 まとめ――西欧諸国の重大なる背信行為集(p275~)

2012-10-30 20:37:04 | リスト型の記事
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 近視眼的な国益を追い求めた西欧諸国は、歴史的大局観を忘れ、反ジハードで共闘することに失敗してきた。

 歴史的事例
 ・中東のジンミー達を援助しなかった件

 ・ジハーディに蹂躙されるビザンツ帝国を救援しなかった件

 ・ヴェネチアがオスマンの侵略に苦しむセルビア人の側に立たなかった件

 ・ナポレオンが1798年エジプトを攻め、マルタ島とパレスチナを光復した時、英国がオスマンの側で参戦し、マルタ島と引き換えにエジプトを明け渡した件

 ・1854年のクリミア戦争で英仏がオスマン帝国の側で参戦し、ロシアに苛烈なパリ条約を強いた件

 ・苛斂誅求に苦しむボスニア人とブルガリア人が1876年起義した時、英国がオスマン帝国の側についた件。結局のところ、ロシアが100年前のキュチュク・カイナルジャ条約を根拠に参戦し、バルカン半島やカフカスで大捷した。

 ・上の露土戦争の後ブルガリアの自治領を大幅に認めるサン・ステファノ条約が締結された。その時、英国のディズレイリとハプスブルクが介入してベルリン条約を新たに結ばせ、ブルガリアの領域を大きく削った件。およびビスマルクがアルメニア人の待遇改善要求を議題にしなかった件。この時大英帝国はロシアへの防衛責任と引き換えにキプロス島を獲得したが。

 ・ベルリン条約の後、アルメニア人の多く住む2州が外国人の保護者無しにオスマン帝国内に返還され、「紅世のスルタン」アブドゥルメジト2世の「庇護」下に置かれた件。アルメニア人問題はその後国際化したが、事態は益々悪化し、ジェノサイドにつながった。

 ・ブルガリアが1915年オスマン帝国と条約を締結して、キリスト教徒の迫害に協力した件
 
 ・第二次大戦後、ソ連がカール条約を無効化して、北西アルメニアをトルコに返還しようとした件。
 
 ・ドイツが、第一次大戦中にトルコをムスリム単一国家化するのに大きく貢献した件。この過程で、多くのギリシア人とアルメニア人が討滅された。
 
 ・フランスが16~17世紀オスマン帝国と友好関係を結んだ件。「赫髭海寇」ケイル・アッディーン・バルバロッサはマルセイユを自分の港とし、1683年のヴィーン大捷の時太陽王ルイ14世はドイツを火事場泥棒した。
 

 より近年の背信行為
 ・フランス等がレバノンのキリスト教徒を中東のジハーディから軍事的に防衛しなかった件
 ・スーダンやナイジェリアなどのキリスト教徒へのジハードに対し、軍事支援を行わなかった件
 ・EUでのユーラビア計画
 ・NATOによる1999年のセルビア空爆
 ・パレスチナの全球グローバルウンマへの支援
 ・中東、アジア、アフリカのキリスト教徒を救援することへの消極的姿勢
 ・南アフリカでの黒人による白人掃討作戦への無関心。旧体制崩壊後殺戮された白人は3500名に上る
 ・米国がトルコのEU加盟に圧力をかける件
 ・アルバニアを2009年NATOに加盟させた件
 ・欧米諸国がイスラム諸国に現代兵器を輸出している件

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1.26 シリア人のためのパレスチナ?(p274~)

2012-10-30 20:30:49 | 中東
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ダニエル・パイプス


 出典

(1986年12月執筆)
 パレスチナ(人)という単語はイスラム帝国主義の創作物にすぎない。1948年まで、パレスチナの民はシリア人としか呼ばれていなかった。パレスチナ人という言葉はジハードを正当化するために生まれた。
 シリアのハーフェズ・アサド大統領(バッシャールの父)は1976年、PLOの領導者たちと会見した席でパレスチナを南シリアと呼び、民衆にこう言った。「私は君達以上にパレスチナを代表している。これだけは忘れるな!パレスチナ人もパレスチナ領も存在しない。あるのはただシリアだけだ!君達はシリアの不可分の一部だ。シリア当局こそが君達パレスチナの真の代表なのだ」
 この叫びは、最近ますます重要性を帯びてきている。アサド政権はパレスチナの権利をアラブ世界代表として守護していると宣言した。イスラエルの支配下にある土地をだ。つまりアサドにとって、現在のシリア共和国は大シリアの一部に過ぎず、中央政府は何としてもパレスチナを含む全シリアを奪還する責務があると感じているのだ。
 シリア軍は最近増強されている。シリアの「南シリア」への領土権主張は、宿敵イスラエルからは無論、PLOからも大いに敵視されている。
 歴史的地理区分としての大シリアの面積は実に広い。今日の南東部トルコやイラク、イスラエル、ガザ地区、レバノン、ヨルダンがその領域だ。1920年まで西欧人もこの領域こそがシリアと認識していた。19世紀初めのエジプトの歴史家アブドラフマーン・アル・ジャバルティもシナイ半島のエル・アリシュの民をシリア人と表記している。ムハンマド・アリーの問題を処理した1840年のロンドン条約では、アッコ周辺を「シリア南部」とした。こうした事例は実に多い。
 分離国家パレスチナをつくるのは、コソボという国をつくる以上に滑稽なことだ。コソボにはセルビア人とアルバニア人という正統な主権者がいるが、パレスチナの場合はイスラエルとシリアが主権を争うことだろう。

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コソボ――20世紀以降のイスラム人口攻勢(p271~)

2012-10-30 20:15:07 | 東欧
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 2008年コソボの独立宣言は世界中の無数の国に悪影響を与えることになるだろう。ここでは20世紀以降の歴史をアルバニア人とセルビア人の人口戦争という面から眺めていく。
 1913年コソボとメトヒヤがセルビアの州になった時、キリスト教徒の数は過半数を超えていた。しかし、第二次大戦でアルバニア系のファシスト政権により17万人のセルビア人が戦死、追放されると、アルバニア人の方が両地域で多数派になった。戦後「紅の包摂」ティトーは1949年までアルバニアとの国境を開放して15万の不法移民を意図的に受け入れ、コソボの人口構成を人為的に改変した。クロアチア生まれのティトーの信念は「大ユーゴのためには小セルビアを」だった。
 1961年アルバニア人の数は65%程だったが、そこから不自然なほど急速な人口爆発が起きた。セルビア人の出生率は2.5だったが、アルバニアの出生率は6.5もあった。アルバニア人のコソボ収奪作戦が実質的に始まっていた。
 1981年、ティトーが亡くなった。これを契機に、人口を20年間で倍の120万に増加させていたアルバニア人は州都プリシュティナで反乱を起こし、セルビア人に掠光行為を働いた。キリスト教徒はやむなく大量脱北した。
 コソボ戦争の終結した1999年6月13日以降、35万人ものセルビア人やロマ、ゴーラ人が追放された。ユネスコ指定の80余りのキリスト教系の史跡が4万のコソボ治安維持部隊(KFOR)の面前で爆光された。これはオスマン帝国も行わなかった蛮行である。アルバニア人はセルビア人から8万の住居を召し上げ、3万の家を焼光した。首都プリスティナの現状は興味深い。1999年までセルビア人が2割を占めていたが、今日では0.1%に過ぎない。2004年には21世紀欧州史上最大級のムスリムによる討滅行為が行われた。2日間で7つのセルビア人集落と27の教会が燼光され、40人が死亡、4000人がセルビアへ逃れた。
 この他、セルビア正教の揺籃せしメトヒヤ地方等で150の教会が5年の内に破壊されたという。

 コソボでのワッハーブ・クール
 2002年アルバニアのテロ集団がマケドニアに侵攻した時作成された政府档案によると、アルバニア人とアルカイダは提携関係にある。戦争以降、コソボにはワッハーブ系のモスクや孤児院、小学校ができた。アルバニアでも宗教上の領導者はワッハーブ・クールの弟子だという。

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1.25 ユーゴスラビア――過去と現在(p266~)

2012-10-29 22:59:20 | 東欧
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バット・イェオル女史


 出典

 今晩の主題は「神話と政治――「寛容なるイスラム多元社会」神話の起源」です。寛容という言葉によく注目しておいて下さい。
 10年前、『ジンミー』という本を米国で出版するために渡米した時、ワシントン公文書館の「過去こそ始まり」という標語に感銘を受けました。『ジンミー』を書き始めた時は遠い過去を研究しているだけと思っていたのですが、最近の動きをみると、本に書いた過去の出来事が当世にどんどん蘇っていると霊感したからです。イスラム諸国では、西欧諸国の導入した世俗法に代えてシャリーアやイスラム的文化を導入する流れが広がっていました。今回(1995年)『イスラム統治下での東方正教会の衰退――ジハードからディミテュードへ』の英訳版を出す時、その印象はますます深まりました。
 この新著で私は、豊饒なるキリスト教文明がイスラム化されて以降、いかにして周縁的少数派に追い込まれ、消滅の危機にまで追い込まれたかを論じました。地中海の両側で起きた出来事を一言で纏めますと、それは「ディミテュード文明」です。この土地は本来、カトリックや東方正教会系統のキリスト教徒の土地でした。征服者のイスラム文明は彼らを「啓典の民」(ジンミー)と呼び、イスラムのジハードとシャリーアの支配に従う範囲内で生存を許可しました。今晩の主題となるセルビア人も500年間このディミテュード文明を経験しました。テロルを含む討滅作戦の標的とされてきたのです。
 今マスコミから流れてくるニュースを聞いておりますと、ディミテュードへと潮流が逆流しているのを実感せずにはいられません。当世の政治家も学者も鬘や首章をつけたかのように、数百年前と同じ腐敗無窮の偉そうな議論を繰り返し、夷教徒のイスラム化工作に貢献しています。
 「過去こそ始まり」なのでしょうか?ジハードとディミテュードを根本原理とするイスラムのラーヤ抹殺作戦という無限劫火の工程を語ることは今や禁忌とされています。現代西洋人の国益と商益のために修悪されたのです。
 ボスニアでの「ムスリムは寛容」神話は19世紀に始まりました。ロシアの進出を食い止めたかった西欧列強が、オスマン帝国と手を組むためにバルカン半島でのラーヤ支配を「多民族と多宗教社会の罔極です」と称賛したのです。実際にはアラブ人の時からずっと続いてきたイスラム至上主義の支配体制だったにも関わらず。
 確かに様々な側面はあります。1830年代、欧州列強の圧力を受けてオスマン帝国はラーヤへの圧迫政策を改善すると宣言しました。しかし、ボスニアなどセルビア人居住地域のムスリム(ボスニアーク)たちはこれに大いに反発し、「ラーヤ達はむしろ恵まれているんだ」と火病的なほど宣言しました。新生ボスニア初代大統領のアリヤ・イゼトベゴヴィッチは今もこうした主張を行っています。
 史実を明かしましょう。英国のジェームズ・ゾーラブ領事は1860年、ボスナ・セライ(サラエボ)から長文の調査報告を送り、ボスニアーク達が400年間あらゆる封建的特権を握っていると告発しました。しかし、大英帝国はロシアとのグレートゲームのためにこれを黙殺したのです。
 デヴシルメのことはよくご存じでしょう。14世紀のオルハン帝の代から300年間続いた強制徴用制度です。定期的に徴用された14~20歳までのラーヤ達はイスラムに改宗させられ、逃亡しないよう遠隔地に駐留させられ、上官から奴隷としてあしらわれました。6~10歳までのラーヤの子供を対象にしたイチョグラニという制度もありました。これは彼らを去勢し、14年間皇宮で宦官として仕えさせる制度です。スーダンではこの制度が現在まで続いており、国連から人権侵害問題として告発されました。1850年代、ボスニアークはスルタンに対し「ラーヤ特権許すまじ」と叛乱しましたが、西欧諸国に援助されたスルタンにより鎮圧されました。そしてラーヤへの待遇改善令が出されたのですが、ボスニアで実質的に施行されることはなかったのです。
 ゾーラブ領事の報告の翌年、今度はヘルツェゴビナで教会の地位を高める改革策が出されました。しかし、ウィリアム・ホルムズ領事はサラエボでその措置が有形的に実施されることはほとんどなかったとしています。最大の原因は法廷で、ラーヤとムスリムとの間に証言などの面で制度的な不平等が蔓延っていたからでしょう。これは1875年、イスタンブールのマフムード・パシャ大宰相が英国のヘンリー・エリオット大使に認めたことです。大使いわく

 この区別がある限り、ラーヤとムスリムの平等など絵空事に過ぎない。今の法廷はラーヤの文書による証言をも認めぬのだから。

 フランシス総領事もまた、「東洋的正義とは、平等宣言を出すことではなく、提訴者に慈悲をもって譲歩することにあるようだ」と諦念しました。1860年7月、ブラント領事はマケドニアの状況を以下のように報告しました。

 ユスジュプ州(スコピエ周辺)は長年アルバニアの牧民によって三光を受け、あらゆる教会は10年前と同じく焼光された。ラーヤたちは武器の携帯を許されず、抵抗することができなかった。夷教徒とムスリムとの間には証言能力に列記とした差があった。これでもトルコ人の前で喫煙もできなかった10年前よりはましになった方らしい。

 ところが、1875年付のボスニアークによるスルタンへの上奏文をみると、「改革以前、我らとラーヤは兄弟関係だった」とあります。時のフリーマン領事はこれを見て、「彼らはラーヤを元の農奴的地位に引き戻そうとしている」と記しました。ここで、当時の文学に顕現されているセルビア人やギリシア人などのラーヤが独立運動で直面した2つの主張を見てみましょう。

 1、ジンミー達は独立できる状態になく、イスラムの下にいた方が望ましい
 2、オスマン帝国の統治は多宗教、多民族社会の罔極なる模範だ
 
 イスラム世界史には常に、夷教徒は邪なる法律に生きているから政治的に独立してはいけないという動機が底流に流れています。ハマスの1988年憲章にもそうした空気があります。

 共謀
 オスマン帝国が崩壊すると、アラブ民族主義運動がジンミーとムスリムの共存する社会を唱えました。これも西欧諸国の捏造的議論に基づいたものでした。オスマン帝国の「共存社会」神話がバルカン半島の民の独立を妨げたのと同じように、アラブの多宗教的な美辞麗句の陰で、中東の非アラブ人(クルド人、アルメニア人、アッシリア人、シオニスト、マロン派)は独立への願いを封絶されました。
 トルコ東部でジンミーに対するジェノサイドの灼嵐が吹き荒れても、アラブ人たちはイスラム寛容神話を説き続けました。イスラエルがジハードとディミテュードの文明から光復されると、パレスチナ人は多文化的なパレスチナという神話をまた創り出しました。アラファト議長の1975年の国連演説が代表的です。西洋が惑わされている内に、キリスト教国家のレバノンは陥落してしまいました。ここで神話が終わればいいと誰もが思いました。
 しかし、このたびのユーゴ危機で多宗教社会ボスニアという神話が蘇生してしまったのです。欧州のど真ん中にまたイスラム国家が!神話蘇生の過程で起きた彼らの討滅活動については皆さんご存知でしょう。
 最後に一言申しますと、このディミテュード文明は長期間かけて和平演変的に浸透してくるものです。史実が児童書的な装いで美化され、やがて史実と虚構の混淆した共存の「歴史」が形成されていくのです。
 
 日刊紙ポリティカとのインタビューを抜粋
 Q:イェオルさん、貴方はエジプト出身のユダヤ人ですが、ディミテュードに関する経験をお聞かせ下さい。
 A:私は8万5000人規模のユダヤ人追放劇を目撃しました。これは1948~56年にかけて巻き起こったユダヤ人への嫌悪主義、テロル、掠光行為に伴うものです。当時アラブ世界には100万人近くのユダヤ人がいましたが、今では1万人ほどしかいません。アラブ系のキリスト教徒に本書の執筆を少し助けてもらえましたが…

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