Bravo! オペラ & クラシック音楽

オペラとクラシック音楽に関する肩の凝らない芸術的な鑑賞の記録

2/25(金)東京二期会『サロメ』狂気と頽廃のコンヴィチュニー演出にBravo! 林正子と高橋淳も熱演

2011年02月27日 00時29分16秒 | 劇場でオペラ鑑賞
東京二期会オペラ劇場『サロメ』リヒャルト・シュトラウス作曲
ネザーランド・オペラ(オランダ)とエーテボリ・オペラ(スウェーデン)との共同制作
(2011都民芸術フェルティバル参加公演)

2011年2月25日(金)19:00~ 東京文化会館・大ホール E席 5階 R1列 16番 2,000円
指 揮: シュテファン・ゾルテス
管弦楽: 東京都交響楽団
演  出: ペーター・コンヴィチュニー
美術・衣装: ヨハネス・ライアカー
照 明: マンフレット・フォス
舞台監督: 幸泉浩司
【出演】
サロメ: 林 正子(ソプラノ)
ヘロデ王: 高橋 淳(テノール)
ヘロディアス: 板波利加(メゾ・ソプラノ)
ヨカナーン: 大沼 徹(バリトン)
ナラボート: 水船桂太郎(テノール)
ヘロディアスの小姓: 栗林朋子(メゾ・ソプラノ)
その他、ユダヤ人5名、ナザレ人2名、兵士2名、カッパドキア人1名。

 東京二期会のオペラ公演は何かが起こって嬉しい。せっかく会員になっているのに、またまた割引のない安い席で見ることになってしまった。それでも2,000円で、東京文化会館の5階R1列なら、最高のコストパフォーマンスだ。今回の『サロメ』は、ペーター・コンヴィチュニーさんの演出ということなので、行く前から何かが起こりそうなのがわかっているようなもの。しかも最近、進境著しい林正子さんのタイトルロール、ピットに入るのが東京都交響楽団と、役者が揃っている。ところがどういうわけか、今日の会場はガラ空き。半分くらいしか入っていなかった。こんなに空いている東京二期会のオペラ公演も珍しい。

 オスカー・ワイルドが戯曲『サロメ』を発表したのが1891年のことで、フランス語で書かれていた。その後、ドイツ語に翻訳され、上演された『サロメ』を見たリヒャルト・シュトラウスは大いに触発され、そのままオペラ化することを思いついた。1905年にドレスデンで初演。その反道徳的な内容から世間で物議を醸したことは想像に難くないが、多くの音楽家や聴衆からは様々な意味で支持された結果、20世紀初頭を代表するオペラの傑作となった。今から100年も前のことである。
 物語は、イエス・キリスト以前のユダヤの地が舞台。ヘロデ王は自分の兄であった前王を殺して王になり、兄の妃だったヘロディアスを奪い取った。ヘロディアス自身もかなり淫蕩な女。そしてその娘である美しい王女サロメに、ヘロデ王は淫らな関心を抱いている。ローマ帝国の支配下にあるユダヤには、未来への展望がない閉塞感が満ちていて、人々はいがみ合う。

 そんな中、退屈な宴会を抜け出したサロメは、井戸の中に幽閉されている預言者ヨカナーン(洗礼者ヨハネ/イエスの弟子とは別人)の声に魅せられてしまう。サロメに夢中になっているナラボートに頼み込み、ヨカナーンを井戸から出させるが、彼はヘロディアスの淫蕩さとサロメの忌まわしい生い立ちを軽蔑し、サロメの愛を拒絶する。ヘロデ王はサロメに踊りを踊ってくれたら何でも望みを叶えてやろうと約束したので、サロメは「七つのヴェールの踊り」を踊って、王に約束の履行を迫る。その望みとはヨカナーンの生首を銀の皿に乗せてもってくること。初めは断っていたヘロデ王だが、最後には約束に従って、ヨカナーンの首を切ることを命令する。やがて奴隷がヨカナーンの生首を持って井戸から出てくると、サロメはその首に口づけするのだった。あまりのおぞましさに、ついにヘロデ王は「あの女を殺せ!」と叫ぶ。
【右の画像はオーブリー・ビアズリーのイラスト(1894)】

 何故、長々とあらすじまで書いたのかというと、実は今日の『サロメ』の演出がこの物語をどのように解釈して舞台上に翻案するかが、最大のテーマになるからなのである。そして結論を言ってしまえば、ペーター・コンヴィチュニーさんの演出は、過激な現代演出の中でも異色な、驚くべき結末を用意した、画期的なものだったといえるだろう。
 まず第一の要素は場面設定だ。もともと、『サロメ』は1幕のみのオペラなので、舞台装置はひとつだけ。宴会が催されている王宮の井戸のある庭が舞台である。コンヴィチュニー演出は、いきなり時間と空間を超越した現代(あるいは近未来)に、『サロメ』の時代と似たような閉塞感を描き出す。四角いコンクリートの壁に囲まれた核シェルターの中に暮らす人々。いがみ合い、自暴自棄で、刹那的。抜け出すことのできない狭い世界が今日の『サロメ』の舞台だ。晩餐用の長いテーブルに白いクロスがかけられて、部屋の中央に置いてある。白い布製のトートバッグを頭にかぶった男が真ん中の席に着いている。その右にはヘッドフォンで音楽を聴いているヘロデ王がいる。左右の壁際にはソファや椅子などがあり、パーティ用に正装した男たちが散らばっている…。そう、閉鎖された核シェルターの中だから、登場人物全員が、すでにこの部屋にいるのだ。トートバッグの男が実はヨカナーンで、バリトンの声を聴いて分かった。左側の大勢の人の中にはサロメもまじっている。この空間は最後まで基本的には変わらないのだが、ヨカナーンの首が切られるあたりから舞台後方に空間全体が後退していく。つまり手前に、何もないが新しい空間が生まれるのだ。そこに飛び出して来られるのはサロメとヨカナーンのふたりだけである(この意味は後で述べる)。

 第二の要素は、性的な描写がふんだんに盛り込まれていること。『サロメ』自体は物語の背景に不道徳な性関係が描かれているものの、本編には直接的な描写はない。だからこそ「七つのヴェールの踊り」が話題になるのである(性的というよりは裸を見せるから?)。ところがコンヴィチュニー演出では、肌の露出などはまったくない代わりに、さまざまな形の性行為が描かれている。テーブルの下では、ヘロディアスがヘロデ王以外の男と励んでいたり、ナラボートは小姓に口で奉仕させたり、サロメやヘロディアスを皆で触りまくったり、ヨカナーンを椅子に縛り付けて、サロメの見ている前でヘロディアスが上に乗ってむりやり行為に及んだり、挙げ句の果てには、死んだナラボートの尻を男たちが順番に犯していったり…。それらの行為には笑顔がなく、皆暗い表情で行為に及んでいる。醜く、おぞましい性のカタチが、物語と直接的には関係なく飛び出してくる(公演チラシにも書かれていた「セクシャルかつ常軌を逸したアヴァンギャルドな表現」)。
 いずれも閉ざされた空間の、行き場がなくやるせない、愛のない、無情な性行為として、現代の文明国にもありがちなこととして描かれているようだ。そして最後に、サロメとヨカナーンのふたりの間に、愛が芽ばえた時、ふたりの爽やかな笑顔が演出のテーマを具現しているのだった(この意味も後述)。

 今回の『サロメ』では、コンヴィチュニー演出による「物語の解釈」にも特筆すべき点が多々ある。
 まず『サロメ』が上演されることになると必ず取り沙汰されるのが、「七つのヴェールの踊り」をどう表現するかだ。オペラの演出に刺激が求められるようになった20世紀末頃からは、実際にサロメを歌うソプラノ歌手が、踊りながらヴェールを脱ぎ、全裸になってしまうというような演出もあった(ソプラノ歌手の方も大変ですね)。最近では、むしろ裸にはならずに、観念的なエロスを表現するような演出的工夫がなされることが多くなっている。今回のコンヴィチュニー演出も、サロメの踊りそのものが少ししか出てこない。サロメ役の林正子さんは、オペラの冒頭からかなり演劇的に舞台を動き回っている。「七つのヴェールの踊り」になると、初めは現代的なダンスを始めるのだが、やがてそれが全員の混沌とした動きに波及して行き、踊りは完成しないどころか、消滅してしまう。エロティックな要素もない。最後には、サロメがコンクリートの壁に扉の絵を描く。しかしその扉は押しても引いても開くことはなく、閉塞された心情の発露と取れる。サロメに倣って他の人々も同様に壁に扉を書き、壁を叩くが問題は解決しないのだ。「七つのヴェールの踊り」は人々の行き場のない感情の発露に置き換えられてしまうのである。

 そして結末の驚き。『サロメ』という物語で最も象徴的な出来事は、サロメが愛を拒絶されたヨカナーンの生首に口づけして、自己中心的な愛を成就することだ。テキストでは、井戸の中で首切り役人によって首を刎ねられるから観客からは見えない。シュトラウスの音楽は、首を切るシーンをリアルな「音」で描いている。したがって普通のオペラでは、ヨカナーンの首(人形の首)だけが舞台に登場することになっている。ここからがオペラでは、サロメの狂気と官能に満ちた歌唱と演技が続くクライマックスだ。
 今回のコンヴィチュニー演出では、驚くべき結末が用意されていた。舞台が暗転し、気が付くと部屋全体が奥の方に移動しており、手前に生じた空間にヨカナーンの首が置かれていた(首と言っても胸から上を切断したもので、両肩が残っている)。だが、部屋にはまだヨカナーンが生きているのである。部屋の中の人々はサロメ以外は死んだように動かない。やがて首は空中に舞い上がり、天空へと消えていく。原理主義者のヨカナーン(人形の方)が架空の死を迎えたことにより、魂が解放されたヨカナーン(生きている方)は、サロメの愛を受け入れるのである。ここで一旦幕が左右から閉まる。カーテンコールのように、センターの隙間から顔を出したサロメは衣服が少し着崩れていて白い肩を見せている。はにかんだように身繕いをする。そしてヨカナーンを呼び、手に手を取って舞台下手(しもて)へ走り去ってしまう。つまり二人は愛し合って、閉塞された世界から抜け出すことができたのである。それに対して、抜け出せなかった人々は…。突然、舞台ではなく1階客席の中央にスポットライトが当たり、立ち上がった男が「あの女を殺せ!」と叫ぶ(ここだけ日本語なのがコンヴィチュニー演出らしいところ)。最後の有名な台詞の意味が見事に逆転している。おぞましい狂気に陥ったサロメを殺してしまえというのではなく、閉塞された社会から解放されたサロメへの妬みになっている(ようである)。まったく同じテキストと音楽を使いながら、演出上の結末を逆転させることによって、なんと、『サロメ』がハッピー・エンドになってしまった!!
 今回のコンヴィチュニー演出は、あくまで私見だが、テキストにはこだわらずに、むしろ歌詞を除いた音楽(オーケストラ)を入念に聴き込んだコンヴィチュニーさんが、その音楽の持つイメージを視覚化した演出を創り上げたように感じられた。ある意味でテキストとは乖離した状態の演技・演出は、実は純粋な音楽の持つ、退廃的な空気感、あきらめの境地、軽蔑や怒り、甘美な恋情、官能的な隠微な世界など、シュトラウスの描き出す天才的な写実音楽を視覚化しているといえる。つまり『サロメ』の物語を知らなかったとしたら、音楽と舞台は見事なまでにイメージが一致している。こんな離れ業ができるのは、コンヴィチュニーさんただ一人だろう。極めてクオリティの高い、素晴らしい演出であった。余談だが、後ろの席にいた学生さんらしい若い女性の方が「必死になってずっと字幕を追いかけていた」と言っていたが、もし『サロメ』の物語を知らずに観たとしたら、字幕(テキスト)と舞台(演出)は一致していたのだろうか。

 さて、長々と演出についてレビューを試みたが、何しろ初めて、一度観ただけであるから、どこまで感じ取ることができただろうか。おそらくコンヴィチュニーさんのことだから、舞台の隅々まで、人物の一挙手一投足まで、細かく計算された演出・演技になっていたのだろうと思う。全体としては60~70%の理解しかできなかったと思う。とはいえ、過激でありながら洗練された演劇的な世界と、爛熟したシュトラウスの音楽という、極上の芸術作品に心を奪われた、至福の100分間であった。

 今回は演出があまりにも強烈に印象に残ったため、音楽について触れることができなかった。出演者の皆さんには大変申し訳ないが、最後に簡単に触れておこう。今日のように斬新な演出に目を奪われてしまったが、それが可能になったのは、実は音楽の構成が非常にしっかりと支えていたからに他ならない。シュテファン・ゾルテスさんは歴戦の強者。ドイツ系の歌劇場中心の経歴が物語るように、どっしりとした構造感の中に華やかではないが燻し銀のような渋い輝きを放つ。リヒャルト・シュトラウスの豊潤で爛熟した音楽を、節度を持った艶やかさで描いていく。ピットに入ったのが東京都交響楽団だったのも幸いだった。艶めかしく響くホルンを中心とした金管、時折挑戦的に神経を逆なでするようなフルート(もちろん良い意味で)、苛立ちや愛情や怒りの激情などを情感豊かに描く見事な弦楽アンサンブル。ささやくようなpppから爆発的なfffまで、バランスを崩さずに素晴らしい演奏だった。
 タイトルロールの林正子さんは、100分間止まることなく続く演技と踊りがある中で、張りのあるドラマティック・ソプラノを聴かせてくれた。5階では声が届いてこないという一面もあったが、フィナーレに向けての劇的な歌唱はお見事。新しいサロメ歌いの誕生である。
 ヘロデ王の高橋淳さんは、この役を楽しんでおられたのではなかろうか。三枚目的なふざけた役柄にうまく合わせた軽めの声質で、いかにもヘロデ王という、最高の歌唱だったと思う。
 ヨカナーンの大沼徹さんはまじめくさった役柄に徹していたが、歌の方はヨカナーンのイメージ通り。地の底から這い上がってくるように響くバリトンは、堂々として自信に溢れていた。
 ヘロディアスの板波利加さんは厚化粧のスナックのママさんのようで、退廃的な色気があって演技的に存在感を主張していた。
 音楽面だけを目を閉じて聴いていたとしても、今日の公演は一流の演奏だったと断言することができる。この素晴らしい音楽があればこそ、自由な発想の演出が乗せられるわけで、もし音楽が下手くそだったら、過激な演出などブーイングの嵐だったに違いない。

 今日の『サロメ』は、久しぶりにオペラの凄味を味わった気がする。本来のテキストとスコアを忠実に演奏しているにもかかわらず、その表現上の解釈を演出によりまったく違うものに変えてしまう。それでいて、かなり高度な次元で整合性が保たれているのだ。現代における「オペラの社会化」に取り組み、完成度の高い素晴らしい作品を発表し続けるコンヴィチュニーさんに最大級のBravo!!を送ろう。またこのようなオペラの上演を実現した東京二期会にも感謝したい。一昨日観た、新国立劇場の『椿姫』とは大違いだ。

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