実際どのぐらいからこのイベントに向けて動いていたんだろ?
なんて思って、主催者と会話する時は取り続けてきた
主催者の名前を冠した「うちゅうノート」を
パラパラとめくっていたら(紙のノートですからw)
昨年11月の記録から始まっていて、
1年前からずっとうっすらと始まっていて
今年の1月には形が整ってきて
3月には人がゾロゾロと集まり出して動いていたのだな
なんてことがわかり、ノートの偉大さに気づくなどしていた
ただいま絶賛お疲れのsachiakiです。
月のものと重なってしまったせいで
体力がいつもの3/2ぐらいなんですよ。
で、ぼんやりとここまでのことを考えながら
たくさんもらった記録写真や動画を見てたんです。
「障がいを持っている人も持っていない人も云々」
そう言い続けていたものの
今までガッツリと障がいを持っている子たちと
なにかをするってことがなかったんですが
今年はファッションショーもあったので
けっこうしっかりと会う機会があり
改めて彼らの言動の突拍子のなさに
驚いたり感動したりしてました。
高校時代にトリイ・ヘイデン著作の
「シーラという子」に出会って、
次に「幽霊のような子」「タイガーと呼ばれた子」と
続々と読んできて、その時は発達障害という言葉を
ほとんど気にせずこういう子がいるってことを
認識しながら読んでいた感じで
大きく気にも止めてなかったのです。
それでもずっと心のどこかで気になっていて
30過ぎで放送大学と出会い、
そこで発達障害についての教科を取ったりして。
でさ。
いつも思うのは、そういった子がいるっていうのは
注目されて保護もそれなりに手厚いんだけど、
彼らが18歳を過ぎて成人になってから
というものがあまり資料にないんですよね。
発達っていうのは進行していくので
10歳でできることが5歳で出来る人もいれば
20歳でできる人もいるし、生涯できない人もいる。
その振り幅の中で少しでもできることを増やしていくこと
子供の自立を目指すのが社会の役割であり
彼らに対しても自立を促すのが福祉だと思っているんだけど、
そうはいうても我慢がほぼできなかったり、
表情と感情がずれていたり、
体の動きが神経とうまく連動できてないのか
うまくいかないこととか、そういうのを見ると、
自立とはどこまでのことを言うのだろう?
なんてことを考えてしまうのでした。
「岬の兄弟」で障がい者を巡る性のことに触れていましたが
実際彼らにも本能はあるわけで
性のことは絶対に大きな壁となるんだと思うんです。
実際、職員の方が大変なことになったものもあれば
職員の方がひどいことをしていることもあります。
人間が理性を持っているのであれば
少なくとも職員の方(権力のある側)から
ひどいことは起こらないと思いたいけれど
そうはいかないのが人間模様ってやつで
彼らの無邪気さっていうのは
理性でガンジガラメにされている社会人からすると
なにかの琴線に触れるものがあり
たまらなく愛しいものにさせる力があるんですよね。
子供に対して可愛いと思う本能に近いものなのかもしれません。
ただその愛おしさと性欲が絡むことがあり、
それが恋愛と呼ばれるものに発展できるぐらい
力が均衡していれば良いんですが
そうはいかないことは想像に難くなく
この辺について日本は3周くらい遅れてる国だと思うので
どうしたら良いんだろうなぁ
なんてことをボンヤリと考えていました。
と思っていたらちょうど
そんな重度知的障害を抱えるお母様のブログがヒットしまして
なんて貴重な記録があるんだ!となっていました。
と、イベントは終わったけれど
まだまだしばらく心はそっち側にありそうです。
私たちは私たちの世界で生きているので
自分以外のことってほとんど無知に近いんですけれど
知ろうとする努力はできるんですよね。
というわけで、知識強化頑張ってきます!
そんじゃまた。モイモイ
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