はじめから百花の王たる牡丹を絵にすることは、私の手に余ることなのに、美しい姿にはつい食指が動いてしまいます。
東洋的な風情を、古くから中国や日本の画家たちがこぞって絵にしてきました。
蛙さんが見事に咲かせた白牡丹の写真「咲きいでぬ」に続いて、「牡丹焚火」に、油絵で表現されていたのに触発されて、取り組んでみましたがやはり失敗でした。来年の花までの一年のお預けとなります。
自分のための記録に、模索の跡を記録しておくことにしました。批評には、「石橋」の牡丹。東照宮の眠り猫を思い出す。と散々でしたが、まさしくそれらが頭にありました。
当然ながら落款は押せません。道の途中ですので。
閻王の牡丹にも、紅ほのか、にもなれない悲しい牡丹です。大きさが出ないのです。まして豊麗な妖しさは勿論です。
途中をお目にかけるのは初めてのことで、一興かと、あえて厚かましくも見苦しい道中姿です。
閻王の口や牡丹を吐かんとす 蕪村
牡丹散って打かさなりぬ二三片 蕪村
白牡丹といふといへども紅ほのか 虚子
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/b0/dbd9624a205a3f34c4056599382a3c9f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/ff/0f32ba043735000026c9a6dd48d48c91.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/d2/3778dcb588e7f1f8481613fe1fe3f44f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/0f/ae759d09bee71cc921d7ac0148569984.jpg)
東洋的な風情を、古くから中国や日本の画家たちがこぞって絵にしてきました。
蛙さんが見事に咲かせた白牡丹の写真「咲きいでぬ」に続いて、「牡丹焚火」に、油絵で表現されていたのに触発されて、取り組んでみましたがやはり失敗でした。来年の花までの一年のお預けとなります。
自分のための記録に、模索の跡を記録しておくことにしました。批評には、「石橋」の牡丹。東照宮の眠り猫を思い出す。と散々でしたが、まさしくそれらが頭にありました。
当然ながら落款は押せません。道の途中ですので。
閻王の牡丹にも、紅ほのか、にもなれない悲しい牡丹です。大きさが出ないのです。まして豊麗な妖しさは勿論です。
途中をお目にかけるのは初めてのことで、一興かと、あえて厚かましくも見苦しい道中姿です。
閻王の口や牡丹を吐かんとす 蕪村
牡丹散って打かさなりぬ二三片 蕪村
白牡丹といふといへども紅ほのか 虚子
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/b0/dbd9624a205a3f34c4056599382a3c9f.jpg)
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花の大きさ、 よく観て描かれた重なる花びら。 その輪郭も美しいです。 塗り残しの工夫も。 いい絵を拝見して、墨彩も描いてみたくなりました。
とくに2番, 4番目が好きです。 的皪とかがやく大輪の花はboa!さん ご自身に重なります。 繊細さと大らかさ、 どちらも素敵。
3番目は新境地! 現代アートですね。 グラデーションに惹かれます。
リンクありがとうございました。
模索し、苦闘した??痕跡を、自分でも記録しておこうと思ってのことです。
描いた順番に並べてみました。現代アートと観てくださった1枚は、花が、どうしても大きくならないのに焦れて、たらしこみ風に色を置いてゆくうちに、面白くなったのでそのまま捨てずに残しました。
まだ他に、没になった哀れな花の3ポーズがありますが、あまりに極端な試行なので外しました。バックがブルーです。
蛙さんの油絵には到底かないませんが、迷い道をうろうろ彷徨うのをお目にかけました。時には面白いでしょう。
描いてる当人は、思い入れが強すぎて昇華できないのを、むしろ楽しんでいるのですから、始末が悪いですね。
プロではないのですから、こういう態度ででいいと思っています。
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
木下利玄(1922年)、病床にて詠んだ歌で、数年後に40才で亡くなった。この歌は何か動かしがたい覚悟とでも言いたいものが表れており、幽明の界にほのかに浮かんだ牡丹の花に、永遠の生命を託した静かな喜びを思い出す。もともと花とはそういうもので、一日かぎりの儚い命であるから、咲き定まって器に入れたその瞬間が花なので、自然のままで眺めたら良いだろうと思うのは美を解さぬものの言であって、自然の花が美しいのは当たり前の事だが、人間が関わることによって一つの思想となると思う。
遊び心で、これと思う一枝を剪って、牡丹だけ一輪を青銅の花入れに入れるのが私の毎年の定番です。
楚々とした草の花が好みですが、豊艶の花木,牡丹と櫻は例外です。
毎年画題にしますが、描きたい牡丹にはなりません。
画家たちだけでなく、詩歌にも詠まれ続けている牡丹ですが、和歌では、木下利玄の”花の占めたる位置のたしかさ”を捉えたのが最高でしょう。
すぐれた作品に思想を読み取り、「咲き定まる」姿を最高の姿で静止させ、1日限りの命をいとおしむ静かな空間の美の世界、想像するだけでも羨まし限りです。
木下利玄は白樺派に、歌人として参加した方ですが、この代表歌をはじめ、歌の風格は、生まれのよさを反映して、ゆったりと気品がありますね。
”散りぬべき とき知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ”=細川ガラシア
道端の歌壇の花をちぎってしまう輩の続出報道を聞くと、今度は白鳥惨殺・・、情けない世の中になりました。
動物愛護法に加え、植物愛護法も必要かな?
ところで、
牡丹のお絵かきに苦労をされているご様子は可愛いですね。
お絵描きにこれほどまでに取り組んでおられると、不躾な作品論評はあきませんよね。
一つ言葉を誤ると、encourageのつもりがdiscourageとなってしまう危険。
いずれにせよ、百合や芍薬と違って、牡丹はそのフクヨカサが特徴でしょう。
それが表現されていればenoughかな?
こうしたウィルスはすぐ拡がるようです。地元のチューリップ祭りの会場でも、夜、車を乗り入れて敷き倒したのがいました。美しいものへの妬みからの劣等感にしても酷すぎます。
美しいものといえば、今回の牡丹ですが、描きたい情感があると、思い入れが強くて、プロでない身は、技と表現がバランスを欠くのです。今回だけではありません。いつも、模索はこういう状態で繰り返されています。表面には出しませんが。
好きな道です。決して苦痛ではなく、面白がっていますので、ご心配なく。
仰せのように、たとえshortageを認めても、教育法の基本は褒めて育てるのが一番の近道なのです。