「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

「尾形乾山と光琳の芸術」

2009年02月09日 | 絵とやきもの
 門司港レトロ地区の外れにある出光美術館では、年明けから尾形乾山と光琳の展覧会を開催中です。
 1昨年東京出光美術館で開催された展覧会の縮小版です。出品数も40点に満たない小規模のものです。

 大がつく好きな乾山ですが、昨年「大琳派展」や、大和文華館などでかなりの数を見ていることだし、暖かくなってからと、延び延びになっていたのですが、やっと「出不精はデブ症に通じるぞ。」とそそのかされて腰を上げました。
 夫は「数が多けりゃいいというもんでもあるまい。一つか二つこれはと思うものに出逢えれば十分だ。」といっています。
 確かにその通りで、いくら多数の展示があっても、その中で惹かれるものは数点とはいえ、欲張りな私は、せめてこの倍くらいの数は見たいものと思っていました。

 思いかけない収穫だったのは、大琳派展でも展示替えで見逃した伝・尾形光琳の「紅白梅図屏風」六曲一双に逢えたことです。予期していなかっただけにしばらく立ち尽くしました。
 以前、画像の遊びで美術館風に額に入れて楽しんでいたものです。
 伝尾形光琳とあるように、岩石などの表現は色使いをはじめ、光琳とは納得しがたいものを感じました。水流の表現も見慣れた光琳手法とは異なり、小さな切箔をあしらった珍しいものでした。光琳の手が入っているのは確かかもしれませんが、光琳にしてはモダン過ぎで、スキのない完成度と素人目にはみえました。
 左隻の紅白の梅の複雑な枝振りの絡み合いに対して、右隻は、幹はほんの少し覗かせただけで、斜めに大きく延びる細い枝を1本だけにし、先端を折り返して剪定の跡を見せ、そこにだけ花を描いて、大きな空間を残しています。屏風は本来のありようで立ててありました。

 会場入り口には乾山に影響を与えた仁清や、木米の京焼きが展示され、色絵百仙人図輪花鉢は赤絵で内外にびっしり描き込まれた羅漢のエキゾチックに驚きました。
 道八の色絵桜楓図鉢の、魯山人も本歌取りした雲錦手にも初お目見えでした。
 宗入の(乾山の従兄弟)黒樂、銘「老いの友」の展示も嬉しい予想外でした。
 小ぶりの光沢を抑えたカセ釉の穏やかな樂茶碗は腰にかすかなくぼみが巻き、手にしたときの心地よさをうかがわせ、いかにもその銘に相応しいたたずまいでした。



上の、実物で見るのははじめての茶碗のための絵手本(深省茶碗絵手本・尾形光琳)も、ヒントになる図柄がしっかり描き込まれていました。

 チラシにも使われている色絵反り鉢の波の透かし 銹絵薄蝶文平鉢の線の走りののびやかさ、光琳が絵付けした竹図角皿、そして大琳派展でも眼を引いた乾山代表作の蓋物・銹絵金銀白彩松波文(重文)が、その作陶のヒントになったといわれる雁金屋所蔵の蒔絵硯、銘「山路」とともに展示されていました。






 東京展で出ていた銹絵百合文向付けや、色絵竜田川の絵変り皿は出ていませんでした。
 色絵定家詠十二ヶ月花鳥図角皿、色絵能長角皿の、裏に書かれた和歌や、謡の一節などを見るにつけ、使われる「用のみやび」として、高尚な趣味人に愛好され、宴の座が盛り上がる情景を偲びました。

 光琳描く竹図角皿に乾山が漢詩の賛を入れたのが夫のお気に入りの一点でした。

 出品目録も、図録もありません。先年雪月花さんが送ってくださった東京展の折の図録でおさらいできましたことを、感謝しています。

 先年の展覧会の折の蛙さんのブログもご参照ください。

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2 コメント

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文人ネット ()
2009-02-12 09:49:25
boa!さん わがことのように…おかげさまで。ありがとうございます。出不精…も 覚えがあります。
 リンクにビックリ! 薄い中味で失礼します。知らないことばかりで蒟蒻問答になりますが、よろしくご教示ください。

「高尚な趣味人に愛好され、宴の座が盛り上がる情景を偲びました」
 創るひとと、愛でるひと。室礼や料理や器、めまぐるしく派生する楽しい語らい、興奮します。boa!さんでしたらすぐ仲間に入れそうですね。記事にされた逸品を図録で確かめて、あらためて味わいます。

 お好きな銹絵竹図角皿、四辺を貼り合わせただけで、崩れないのも見事で。熱で歪まないか、実際に創作される方の深い鑑賞とともに、お福分けをいただきました。ありがとうございました。
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交響する集い (boa !)
2009-02-12 20:30:08
事前のお許しも得ずに、勝手にリンクを貼ってしまい、お詫び申し上げます。

皿の裏に書き込まれた和歌や謡の句、食べ終わった後の食器に現れるみやびの絵。そこに託された情感を解する同席の人々にとって、会話は次から次へと拡がっていったことでしょうね。「日本料理は器が半分」に、もっと別の意味もあったのですね。
乾山は「寛三郎」を名乗った演技者ですから、その研鑽のほども反映しています。謡の文言を見ずに曲目を当てるのは9枚中5枚まででした。

奔放に生きた兄光琳とは違った生き方をした教養人だけに画賛の漢詩も味わい深いものがあります。
タタラによる成形を低温焼成した角皿は、想っていた以上に薄いといっていました。

展示数が少なく、平日で入場者もまばらな会場は、ゆっくり我儘な鑑賞を受け入れてくれました。
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