別所沼だより

詩人で建築家 立原道造の夢・ヒアシンスハウスと別所沼の四季。
     

牡丹焚火

2008-04-20 | イーゼルのうた
  牡丹の木について  さらに調べていくと
  眼を病んでいた北原白秋のもとに、東北の人から福島県須賀川の牡丹の木ボクが贈られた。

  須賀川の 牡丹の木(ボク)のめでたきを 炉にくべよちふ 雪ふる夜半に  白秋

  雪の夜などこれを焚いて温めてください と言う、 その閑寂の心づかいが白秋を喜ばせた 、とある。 
 どんな薫りがするのだろう。 
 答えは 送られてきたエッセイのなかにあった。
 
  須賀川のボタン園では11月中旬頃になると、 ボタンの枯れ枝を焚き、花供養をする。 …火力が強く、焔は黄金色でことのほか美しく、かすかだが佳香を漂わせる。(青柳志解樹著『百花逍遙』)

  試してみたいと思う。   (ルピナスさん コピーをありがとうございました)

                 -☆-

    ぼうたんの 咲くときゝ はや散るときゝ     星野立子

 
咲いたと思ったら  もう散り始めている。  ようやく 6Fのつづきを描いた。



   

 
  おととし、 枕辺で描きはじめたこの絵は、 それっきり手をつけずにいた。
  その日、 途中の絵を見せると  「ああ 牡丹らしくなった…」 
  母は、 まさに、 いのちの散り際に呟いたのだった。 
  
            火の奥に 牡丹崩るるさまを見つ     加藤楸邨

   
  ここで、楸邨がみたのは焚き火ではない。  秋櫻子から贈られた牡丹を庭に植えていたが、 太平洋戦争末期の1945年5月23日。  東京の自宅は、 はげしい空襲に見舞われた。 
  
  軒下をしずかに匍うように流れはじめた煙が、ぱっと火になった刹那、 庭が真昼のように明るくなって、その中に牡丹が一輪みごとに開いていた。 弟や知世子と共に、 燃えあがる家から、かろうじて脱出してふりかえると、 牡丹は、火の中に崩れてゆくところであった。

  鮮烈に思い出される、 極限の牡丹花を詠まれた。 楸邨先生の手許の私信を読み返せば  亡くしたお子さんを 「詩の上に永遠に生かしたい…」 と。 
  牡丹も 「有終の美-ボタン」 として永久に咲き続ける。

   牡丹焚火ボタンタキビのころ   須賀川も訪ねたい。

 

 

コメント (4)
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