constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

ミアシャイマーをめぐる知性/地政文化

2005年08月08日 | nazor
今月号の『諸君』に、ジョン・ミアシャイマーの論考「20XX年、中国はアメリカと激突する」が掲載。

日本では、鴨武彦『世界政治をどう見るか』(岩波新書, 1993年)で、冷戦の終焉(の意味)を直視できないリアリストの典型例として言及されたことで、一部の間では名の知れた学者である。

しかも「ドイツはいずれ核武装する/せざるをえない」という予測は、その後の展開からも明らかなように、外れてしまったこともあって、「常識的」研究者にとっては、真剣に論じるに値しない、あるいは批判対象にしかなりえない「キワ物」扱いされる傾向が強い。

そんな彼の著書からの抜粋が『諸君』に掲載されたわけだが、ミアシャイマーが日本の学界で見向きもされない理由は、訳者が指摘する「核アレルギー」や「平和主義的思考」よりもむしろ、ミアシャイマーのようなアメリカ知識人が前提とする理論観、すなわち変数をできるだけ少なくし、簡素であること(parsimonious)に重きを置くアメリカの知的傾向に対する違和感があるように思われる(平和主義的とされる日本の学界がどれを指すか不明だが、日本平和学会だとすれば、あまりにその影響力を過大視しているといわざるをえない)。

たしかに変数が少ないほど、概念の操作が容易になり、仮説から結論に至る論理が洗練されたものになるだろうが、このような「条件つきの」理論に基づいた分析や「予測」が、どれだけの意味があるのか、複雑な世界における国家の行動を、ミアシャイマーに典型的に見られるように、パワーの分布/大小という単一の変数だけで分析する行為や発想に知的傲慢さを嗅ぎ取っているからだろう。しかもそこから導かれる「予測」が当たらないとなると、ますます信用度の低下に拍車がかかる。

こうした理論観の背景には、アメリカ社会に根深い反知性主義、あるいは「予測」という発想に見られる「科学フェティシズム」などがあり、「知」をめぐるアメリカと日本の知性(地政)文化の違いと捉えることもできるだろう。さらに、ミアシャイマーなどリアリストが自説を支える根拠として引く歴史の事例にしても、その用い方や配置に関しては、いわゆる道具主義的(instrumental)歴史認識に基づくため、きわめて底の浅い歴史でしかない。そのため、歴史の循環性が強調され、偶発性の次元は捨象される。すなわち歴史に根ざした分析という触れ込みにもかかわらず、そこに見出せるのは非/反歴史的な現在中心主義(a-/anti-historical presentism)に過ぎないといえる。

いずれにせよ、ミアシャイマーの著作は、『諸君』がいうように、日本にとって「衝撃」だとすれば、それは、その分析力の高さではなく、あまりに「アメリカ的」な世界観を垣間見せてくれる点にある。こうした議論に対して懐疑的な目を向けることは、「平和ボケ」の証左というよりも、知的成熟度の高さを示唆するものだろう。