そしてRZ250と引き換えに手に入れたのがXL250Rというオフローダーだった。HONDAのバイクは初めてである。4サイクルシングルエンジンは馬力こそ少ないものの低速から力強く加速する特性で、ピーキーな2サイクルエンジンを積んだバイクを2台乗り継いできた私には新鮮な驚きを与えてくれた。そして次の休みにさっそく前回撤退した関屋山之内林道を走りにいくのである。この頃から少しづつ林道を走る楽しみも覚えてくるのだが、現在のように、林道を求めて彷徨うというほどではなく、近場の広っぱで走らせて遊んでいた。当時、私の街にもバイクで遊べるような広っぱはいくらでもあった。話は前後するかもしれないが、その頃、行きつけのバイク屋で、ナイトツーリングの誘いが度々あり、そのためのバイクをもう一台所有していた。このバイクは80ccのエンジンを積んだ軽いバイクで、現在もっているXTZ125と同じくらいの車格とパワーを持ち、山で遊ぶのには絶好のバイクだった。
いろいろなところへ連れて行ってくれたRG250Eも走行距離が3万kmを越え、ついに買い換えることになった。相変わらず貧乏だったのですでに型遅れになっていたRZ250を新車で購入するのである。デビュー当時には何かと注目された車種だったが、すでにRZ250Rが出ていたので比較的安く買うことができた。そしてこのバイクでプロダクションレースデビューするのである。当時バイクブーム絶頂のときで、250ccクラスだけでエントリー60台という激戦だったが、何とか予選を通過し本番に臨む。が、押しがけをミスって最後尾からスタート、ようやく1台か2台抜いただけで初レースは終わってしまった。
レースだけでなく、このバイクもいろいろなところへ連れて行ってくれた。気まぐれ日記にあるゼロ泊二日の旅の相棒もこのバイクだった。が、サーキットで酷使したためか、もともとデリケートなエンジンの調子が思わしくなく、また、車体がエンジンに負けているという評判の通り、一度もこけてないにもかかわらず、ついには真っ直ぐ走らなくなってしまった。フル加速、フルブレーキングの繰り返しでフレームがよじれてしまったようだ。そんな時、休みで帰っていた故郷の道を走っていてガレガレのダートに迷い込んでしまい、やむなく撤退するという悔しい思いをした私は休みが明けて山口へ帰ってくるなり次の愛車を求めていきつけのバイク屋へ足を運ぶのである。
レースだけでなく、このバイクもいろいろなところへ連れて行ってくれた。気まぐれ日記にあるゼロ泊二日の旅の相棒もこのバイクだった。が、サーキットで酷使したためか、もともとデリケートなエンジンの調子が思わしくなく、また、車体がエンジンに負けているという評判の通り、一度もこけてないにもかかわらず、ついには真っ直ぐ走らなくなってしまった。フル加速、フルブレーキングの繰り返しでフレームがよじれてしまったようだ。そんな時、休みで帰っていた故郷の道を走っていてガレガレのダートに迷い込んでしまい、やむなく撤退するという悔しい思いをした私は休みが明けて山口へ帰ってくるなり次の愛車を求めていきつけのバイク屋へ足を運ぶのである。
RG250Eという相棒を得て、ますます行動範囲が広がっていったわけだが、レギュラーガソリンが155円ぐらいの時代だったので、当然、学生の身には厳しく、それでもバイクで走りたくてガソリン代を捻出するためにいつも腹を減らしているような状況だった。前にも書いたように、この頃、興味はいかに速くコーナーを駆け抜けるかということに変化していった。仲間たちと競うように峠を攻める日々が始まったのである。そして峠道に飽き足らずサーキットを走るようになるのだ。幸か不幸か山口には当時西日本サーキットという本格的なコースがあった。このサーキットがあったおかげで貴重な経験をさせてもらったわけだが、今思えば、少なからず人生が狂ったかもしれない。時代はアメリカンブームが翳りを見せ始め、やがてレーサーレプリカブームが到来する頃だ。次々と各メーカーから新型車が発表され、ゼロヨン何秒、最高速何kmという雑誌の文字ばかり追っていたような気がする。しかし、学生の身分でおいそれと買い換えるわけにもいかず、最後には熱ダレしてスピードダウンするような愛車に鞭打って走り続けた。サーキットを走れば高価なタイヤが2~3時間で磨り減ってしまうのだが、それでも走ることが楽しくてしかたがなかった。
山口へ来て二度目の夏休み。私はまた前の年に働かせてもらったスーパーでアルバイトをした。そして念願の250ccのバイクを中古で手に入れた。そしてルンルン気分で山口へ帰ってくるのである。今度は2号線を走るのも怖くなかった。そして仲間達が創っていたツーリングクラブ?に入れてもらい、念願の初ツーリングに出かけるのだ。試験休みのツーリング、行き先は阿蘇である。この頃、峠道を先鋭的な走りをしていた友人がいたので、例に漏れず徐々に感化されていき、日に日に吉敷の峠に出没し始めるのである。まさに若さと馬鹿さは紙一重。その頃の自分と同年輩の息子がいてもおかしくない年になって思うことは、よく無事に生きていたなという事だ。無事これ名馬というわけではない。運が良かっただけなのだと思う。
今、思えば、本当に当時はむちゃくちゃな走り方をしていた。後にサーキットを走るようになって、公道ではそれほど無茶をしないようになったが、いかに早くコーナーを駆け抜けるかということに興味は移っていった。
今も時々、若い人たちが飛ばしているのを見かけることがあるが、危ないなと思うよりも先に、無事に大人になれよと祈ってしまう。これは大きなお世話だろうか?
今の私?スピード狂などと時折言われることがあるが・・・。
他のおじさんもあまり変わらないんじゃ???(^。^;)
今、思えば、本当に当時はむちゃくちゃな走り方をしていた。後にサーキットを走るようになって、公道ではそれほど無茶をしないようになったが、いかに早くコーナーを駆け抜けるかということに興味は移っていった。
今も時々、若い人たちが飛ばしているのを見かけることがあるが、危ないなと思うよりも先に、無事に大人になれよと祈ってしまう。これは大きなお世話だろうか?
今の私?スピード狂などと時折言われることがあるが・・・。
他のおじさんもあまり変わらないんじゃ???(^。^;)
現在所有の2台を含めて、今までにかれこれ20台くらいのバイクを乗り継いできたのだが、一番最初に所有したバイクがこのYAMAHA GT50というバイクだった。通称ミニトレというかわいい奴である。2サイクル50CCのエンジンでパワーは5馬力だったと思う。
実はこのバイクを買うために大学の長い夏休みをすべてアルバイトに費やし、10万円也で新車を買ったのだった。故郷で買ったので松山市ナンバーだった。夏休みが終わり、山口へ乗って帰るのに2号線を走るのがとても怖かったのを憶えている。
このバイクでは50ccであるにもかかわらず、実にいろんなところへ行った。関門トンネルの人道を押して九州へ渡り、そのまま阿蘇まで走ったこともある。1年で2万kmほど走って、次の250ccに乗り換えたのだが、一番最初の自分のバイクということもあり、いろんな思い出が詰まっている。小さい車体だが、きびきびと走る良いバイクだったので、この後、同じ型のバイクを2台所有した。同車種を3台乗り継いだのはこのバイクだけである。
私には若いときから軽度の放浪癖があり、小学生も高学年になった頃には自転車で県境を越えたりして、けっこう遠出をしたものだ。峠道をぶっ飛ばしたり、ダートを飛ばしたりという、バイクを操ることを楽しむことを覚えたのは、ずっと後のことであり、私がバイクに乗るという行動の原点は、自転車よりも遥かに早く楽に遠くに行ける、どこへでも自分の気の向くままに行くことができるということに魅せられたからであった。最近オフロードバイクにしか乗らないのは、目の前に道が続いているのに走れないのは嫌だ、という単純な理由から来ている。もちろんオフロードバイクにしても限界、もしくは走るべきではない道というものがあり、それを無理やりに走破したいというわけではないのだが、この道はどこへ続いているのかな?という単純な興味を満たすための道具が、私にとっては「バイク」という乗り物なのである。人間の欲というものはキリがないもので、一年間この小さなバイクで走り回った後、思ったことは、より遠くへ行ってみたいということだった。運転免許試験場へ通って自動二輪中型限定の免許を手に入れ、その次の夏休みには250ccのバイクを所有することになるのである・・・。つづく。
実はこのバイクを買うために大学の長い夏休みをすべてアルバイトに費やし、10万円也で新車を買ったのだった。故郷で買ったので松山市ナンバーだった。夏休みが終わり、山口へ乗って帰るのに2号線を走るのがとても怖かったのを憶えている。
このバイクでは50ccであるにもかかわらず、実にいろんなところへ行った。関門トンネルの人道を押して九州へ渡り、そのまま阿蘇まで走ったこともある。1年で2万kmほど走って、次の250ccに乗り換えたのだが、一番最初の自分のバイクということもあり、いろんな思い出が詰まっている。小さい車体だが、きびきびと走る良いバイクだったので、この後、同じ型のバイクを2台所有した。同車種を3台乗り継いだのはこのバイクだけである。
私には若いときから軽度の放浪癖があり、小学生も高学年になった頃には自転車で県境を越えたりして、けっこう遠出をしたものだ。峠道をぶっ飛ばしたり、ダートを飛ばしたりという、バイクを操ることを楽しむことを覚えたのは、ずっと後のことであり、私がバイクに乗るという行動の原点は、自転車よりも遥かに早く楽に遠くに行ける、どこへでも自分の気の向くままに行くことができるということに魅せられたからであった。最近オフロードバイクにしか乗らないのは、目の前に道が続いているのに走れないのは嫌だ、という単純な理由から来ている。もちろんオフロードバイクにしても限界、もしくは走るべきではない道というものがあり、それを無理やりに走破したいというわけではないのだが、この道はどこへ続いているのかな?という単純な興味を満たすための道具が、私にとっては「バイク」という乗り物なのである。人間の欲というものはキリがないもので、一年間この小さなバイクで走り回った後、思ったことは、より遠くへ行ってみたいということだった。運転免許試験場へ通って自動二輪中型限定の免許を手に入れ、その次の夏休みには250ccのバイクを所有することになるのである・・・。つづく。
日曜日も夕方になり、そろそろ休みも終わりだなと思う頃、突然、携帯がなった。(まぁ携帯などというものはいつも突然鳴るものなのだが・・・。)出てみると四国の両親からである。何事かと思って聞いてみると「今、山口の○○の駐車場にいる」と言うのである。「へっ?」一瞬、耳を疑ってしまったのだが、どうも嘘ではないらしいのでとりあえず行ってみると、本当に二人そろってニコニコと手を振っているのである。まだ状況が理解できず、「どしたん?」と聞くと、「急に思いついてしまなみ海道を渡ってみたら、そのまま行ってみるかということになって来てみた。」と言うのである。「急に思いついて来る距離かね?」と半ばあきれて「で、今日はどこに泊まるん?」と聞くと、「まぁ、一緒に飯でも食ったら帰るけん!」と言うのである。
ぶはは!まったく・・・。今から帰ったら着くのは夜中ぜよ。
あきれながらも一緒に飯を食って道が判る所まで送っていく。「気をつけて帰るんよ!」と見送り、家に帰って大河ドラマを見終わった頃、また電話が鳴った。無事、港に着いたらしい。今頃は船に揺られていることだろう。
まったくもって人騒がせなことだ。いったい誰に似たのやら・・・。
へっ?俺・・・?
ぶはは!まったく・・・。今から帰ったら着くのは夜中ぜよ。
あきれながらも一緒に飯を食って道が判る所まで送っていく。「気をつけて帰るんよ!」と見送り、家に帰って大河ドラマを見終わった頃、また電話が鳴った。無事、港に着いたらしい。今頃は船に揺られていることだろう。
まったくもって人騒がせなことだ。いったい誰に似たのやら・・・。
へっ?俺・・・?