ヘアって書くと何か卑猥だな。そろそろ3作目が発売になるインディア・アリーに取材しますた。っていうかデビューしてからまだ2枚しかアルバム出てなかったのか。10枚くらい出てても違和感ないくらいの貫禄と安定感。それを本人に言ったら「よく言われる」だって。さてアルバムからの先行シングルはDJナオミもお気に入りの「I Am Not My Hair」。オリジナルとAkonをフィーチャーしたリミックスと(さらにプロデューサー違いであと2バージョンくらいあるけど)がありますが、オリジナルの冒頭ではゴシップ系の会話的な設定で「何で彼女は髪を切ったのか?」みたいなことをチキンヘッズがあーだーこーだ喋ってる下りが録音されている。ここのブログでも前にチラリと触れたが最近ドレッド散髪率高くない?とか思ってましたがそういやインディア・アリーもそうだったねぇ。
この曲で彼女は、「髪の毛(を始めとする見かけ)がそのヒトを定義づけるものじゃない、そのヒトをそのヒトたらしめるものはそのヒトの持つ魂(ソウル)だけ。私はアナタの期待通りの人間なんかじゃない(I am not your expectation)」と繰り返し言っているワケですが。
アフリカン・アメリカンの頭髪に対する思い入れ、というか、その髪型や髪質に対するこだわり&固定観念には凄まじいものを感じるワケである。傍目から見ると「たかが髪型じゃんか」とか思うのだが、彼らの多くにとっては髪型はライフスタイルやポリシー等を表す表現ツールの一つ、なのだ。…とここまではまぁ多くのオタク黒人文化論者が好きそうなありがちなネタなんだけどさ、まぁそれは置いといて確かに彼らは「本人がそう思っているよりも周りが髪型にその人の人となりをつなげてあーだこーだゴシップするのが好きな人種」、ではあるね。やれ縮れ毛を矯正してさらさらのストレートにすると「セルアウト!お前は白人になりたいのか!」と言われ、ドレッドを切り落とせば「それほどまでに簡単に捨てられるようなポリシーだったのかお前のドレッドは!」と糾弾され、人工付け毛をなびかせりゃ「アンチ自然派!彼女は自分に嘘をついている」とやいのやいの…。とかいって私も婦女子のつけ毛や縮毛矯正はどうでもいいと思うが、洒落っ気だけのバニティ・ドレッドは苦手です。個人的に。しかもさらに細かく言えば「そこに思想がある」と思わせぶりな身振り素振りの自称アーティーなドレッド野郎共…ブツブツ…(以下長くなるので省略。別に特に過去にそういうタイプに苦労させられたとかいうワケではありません。先入観のみ。)ちなみに男子の縮毛矯正orジェリーカールは大歓迎。多分全くワタシの生活範疇とクロスすることは無いと予想されるウェッサイなピンプ・カルチャー発、ということで。見てる分にはオモロいじゃん。
とはいえ彼らの中には、そういう髪型と本人の人間性を重ねて考えるという極めてプリミティブな思考回路を持ちがちである同胞を笑い飛ばしつつ自虐ネタとして楽しんでいるフシもあると思うのだが(セドリック・ジ・エンターテイナーとかスティーヴ・ハーヴェイみたいなコメディアンの持ちネタにありがち)、私の直毛と旦那の緩めの縮れ毛が相まって、電話コードのように(コードレス世代の人々には通じないネタだったりして!ドキッ!)クルクルしている太陽の髪の毛を見た友人(黒人の妻を持つプエルトリカン)はいきなり声色とアクセントを南部っぽくレイジーな感じに切り替えて「オー、お前の息子は”グッドヘア”(良い髪質、直訳ですが)でよかったのぅ」と一言。もちろん「イマドキそんな保守的でステレオティピカルでイグノラントな発言をしちゃったりしてるオレ」、みたいな風刺ネタなワケなのだが。”グッドヘア”といえば、タリブ・クウェリ&モスデフ=ブラックスターの「Brown Skin Lady」の冒頭のスキットで、「ライトスキンでグッドヘアを好む」風潮について揶揄してましたな。このスキット、割と知的な物腰の男性二人の会話なのだが、「オレはグッドヘアで肌の色の薄いオンナが好みだ」と主張する男が、「我れ先にダシキ(アフリカの民族衣装=アフロセントリックな人々にはお約束。つのだ★ひろも愛用)を着るお前が低能なことを言いやがる」と呆れる相手への弁解として「過去400年間(つまり奴隷としてアメリカに連れて来られてから今までの間)の(白人優位主義的価値観の)刷り込み、洗脳の結果さ」とこともなげに言ってのけてみせるというモノなのだが。
ああ、話が全然違うところに飛んじゃったよ。無理矢理本題に戻すと、まぁつまり「ブラウンスキン万歳!」「ナッピーヘアですが、何か?」系最右翼のインディア・アリーとの濃密な25分の間に主にシングル「I Am Not My Hair」を中心に色々と興味深いアフリカン・アメリカンの頭髪に関する見解及び今後の展望と課題について、じっくりと話が聞けたので興味深かったよーん、ということでした。ヘアと言えば一時期彼女も度々比較されてきたエリカ・バドゥの偽ドレッド発覚事件の衝撃を振り返って検証、ということでしっかりその辺も突っ込んでみました。あ、ちゃんと音楽の話も聞けてますんでご安心ください(→DJMさん宛)。そのうちタワレコのbounceにて記事になるので興味のある方はぜし。
この曲で彼女は、「髪の毛(を始めとする見かけ)がそのヒトを定義づけるものじゃない、そのヒトをそのヒトたらしめるものはそのヒトの持つ魂(ソウル)だけ。私はアナタの期待通りの人間なんかじゃない(I am not your expectation)」と繰り返し言っているワケですが。
アフリカン・アメリカンの頭髪に対する思い入れ、というか、その髪型や髪質に対するこだわり&固定観念には凄まじいものを感じるワケである。傍目から見ると「たかが髪型じゃんか」とか思うのだが、彼らの多くにとっては髪型はライフスタイルやポリシー等を表す表現ツールの一つ、なのだ。…とここまではまぁ多くのオタク黒人文化論者が好きそうなありがちなネタなんだけどさ、まぁそれは置いといて確かに彼らは「本人がそう思っているよりも周りが髪型にその人の人となりをつなげてあーだこーだゴシップするのが好きな人種」、ではあるね。やれ縮れ毛を矯正してさらさらのストレートにすると「セルアウト!お前は白人になりたいのか!」と言われ、ドレッドを切り落とせば「それほどまでに簡単に捨てられるようなポリシーだったのかお前のドレッドは!」と糾弾され、人工付け毛をなびかせりゃ「アンチ自然派!彼女は自分に嘘をついている」とやいのやいの…。とかいって私も婦女子のつけ毛や縮毛矯正はどうでもいいと思うが、洒落っ気だけのバニティ・ドレッドは苦手です。個人的に。しかもさらに細かく言えば「そこに思想がある」と思わせぶりな身振り素振りの自称アーティーなドレッド野郎共…ブツブツ…(以下長くなるので省略。別に特に過去にそういうタイプに苦労させられたとかいうワケではありません。先入観のみ。)ちなみに男子の縮毛矯正orジェリーカールは大歓迎。多分全くワタシの生活範疇とクロスすることは無いと予想されるウェッサイなピンプ・カルチャー発、ということで。見てる分にはオモロいじゃん。
とはいえ彼らの中には、そういう髪型と本人の人間性を重ねて考えるという極めてプリミティブな思考回路を持ちがちである同胞を笑い飛ばしつつ自虐ネタとして楽しんでいるフシもあると思うのだが(セドリック・ジ・エンターテイナーとかスティーヴ・ハーヴェイみたいなコメディアンの持ちネタにありがち)、私の直毛と旦那の緩めの縮れ毛が相まって、電話コードのように(コードレス世代の人々には通じないネタだったりして!ドキッ!)クルクルしている太陽の髪の毛を見た友人(黒人の妻を持つプエルトリカン)はいきなり声色とアクセントを南部っぽくレイジーな感じに切り替えて「オー、お前の息子は”グッドヘア”(良い髪質、直訳ですが)でよかったのぅ」と一言。もちろん「イマドキそんな保守的でステレオティピカルでイグノラントな発言をしちゃったりしてるオレ」、みたいな風刺ネタなワケなのだが。”グッドヘア”といえば、タリブ・クウェリ&モスデフ=ブラックスターの「Brown Skin Lady」の冒頭のスキットで、「ライトスキンでグッドヘアを好む」風潮について揶揄してましたな。このスキット、割と知的な物腰の男性二人の会話なのだが、「オレはグッドヘアで肌の色の薄いオンナが好みだ」と主張する男が、「我れ先にダシキ(アフリカの民族衣装=アフロセントリックな人々にはお約束。つのだ★ひろも愛用)を着るお前が低能なことを言いやがる」と呆れる相手への弁解として「過去400年間(つまり奴隷としてアメリカに連れて来られてから今までの間)の(白人優位主義的価値観の)刷り込み、洗脳の結果さ」とこともなげに言ってのけてみせるというモノなのだが。
ああ、話が全然違うところに飛んじゃったよ。無理矢理本題に戻すと、まぁつまり「ブラウンスキン万歳!」「ナッピーヘアですが、何か?」系最右翼のインディア・アリーとの濃密な25分の間に主にシングル「I Am Not My Hair」を中心に色々と興味深いアフリカン・アメリカンの頭髪に関する見解及び今後の展望と課題について、じっくりと話が聞けたので興味深かったよーん、ということでした。ヘアと言えば一時期彼女も度々比較されてきたエリカ・バドゥの偽ドレッド発覚事件の衝撃を振り返って検証、ということでしっかりその辺も突っ込んでみました。あ、ちゃんと音楽の話も聞けてますんでご安心ください(→DJMさん宛)。そのうちタワレコのbounceにて記事になるので興味のある方はぜし。