カニエの母のニュースが流れてから約1週間、その後の展開を熱心に追いかけているわけではないが、まだカニエが公の場に姿を現したとか、コメントを発表したとかいうニュースは目にも耳にもしていない。
(追記:この日記をアップしてから数時間後、パリ公演中「Hey Mama」のパフォーマンス中に泣き崩れ演奏を続けられなくなるカニエの様子がYouTubeにアップされた。パリのオーディエンスは携帯の液晶やライターで追悼の灯を点し声援するもののカニエは遂に曲に戻ることは出来ず。映像には映っていないものの報道によると一旦ステージを降りたカニエは次の「Stronger」で復活、パフォーマンスを続行したという…。)
オプラ・ウィンフリーが絶賛する整形外科医による脂肪吸引手術が原因とか、カニエの母が親しくしていたパティ・ラベルに勧められた、とか色々な情報が流れているが全ては後の祭り、だろう。そのどれが真実だとしても腑に落ちない、「しこり」が残る話だと思う。
今、VH1で「Life and Rhymes of Kanye West」という番組の再放送を見ているところ。MTVの「Unplugged」のようなインティメイトさで、カニエ自身が自分のリリックの背景を解説したり、スキットを織り交ぜたりしながら進める独り舞台みたいな番組。セットにはセピア色の、カニエの小さい頃の写真が何枚も使われ、観客席に息子のレーベルGood LifeのTシャツを着てオーディエンスと一緒に息子の曲を口ずさむ母の姿も何度も映る。
ちょうどこれを書いている間に「Hey Mama」のパフォーマンスが。途中で母をステージに上げ、一緒に踊ったり母の元にひざまずいたり、母にマイクを渡してライムさせたり。カメラは観客席の男性オーディエンスをアップで映したりしているが、その多くがえも言われぬ表情でステージの上の母と息子を見つめている。
私は男じゃないから、俗に言われる「母と息子の特別な結びつき」の実のところを計り知ることは出来ない。想像することしか。
さらに母系社会(と敢えて言い切ろう)であるアフリカン・アメリカンの大衆文化を知れば知るほど、この「マイ・ママ」という言葉の持つ特別な感情やセンティメントの底知れぬ奥深さに感じ入る。一生かかっても理解出来ないだろうし、そう試みようと思うことじたいがおこがましく、傍観するより他にない、という感じ。
でも私には息子がいる。厳密に言えばアフリカン・アメリカンじゃないし、いくらバイ・レイシャルでバイ・カルチュアルであろうと、そういう「細かい」個人の人種的、文化的背景を逐一気にかけ、尊重してくれるのは社会のほんの一部であり、この国の大雑把なカテゴライズではブラック・アメリカンとして「まとめ」られ、本人も最初はとまどいながらもいずれはそれを受け入れていくことになるはずだ。その過程できっと彼も「マイ・ママ」観を意識し、彼なりの意見と感情を持つことになるんだろう…。
そう思うと責任の大きさに目眩がしそうだ。カニエのリリックを聞いていてもそうだが、母としてはごく当たり前と思うことにも息子は大きく感じ入り歌にしている。
今回のカニエの母のことで私が最も強く感じたことは、カニエに同情するというよりも、こんな風にして息子を後にしなければならなかった母の無念さ、だ。こんな時は一番自分が側にいて励ましてやりたいのに、その自分が逝ってしまうというやるせなさ。これは母になってみないと持ち得ない感情だろう。事実自分もこのニュースを知って初めて抱いた感想がこれで、自分でも正直とまどってしまったのだが。でもこれが本音。
でもこればかりはどうしようも出来ないこと。運命。寿命。定め。
だから今は、いつか後悔しないために、息子に精一杯の愛情を注ぎ続ける。それしか出来ないから。
(追記:この日記をアップしてから数時間後、パリ公演中「Hey Mama」のパフォーマンス中に泣き崩れ演奏を続けられなくなるカニエの様子がYouTubeにアップされた。パリのオーディエンスは携帯の液晶やライターで追悼の灯を点し声援するもののカニエは遂に曲に戻ることは出来ず。映像には映っていないものの報道によると一旦ステージを降りたカニエは次の「Stronger」で復活、パフォーマンスを続行したという…。)
オプラ・ウィンフリーが絶賛する整形外科医による脂肪吸引手術が原因とか、カニエの母が親しくしていたパティ・ラベルに勧められた、とか色々な情報が流れているが全ては後の祭り、だろう。そのどれが真実だとしても腑に落ちない、「しこり」が残る話だと思う。
今、VH1で「Life and Rhymes of Kanye West」という番組の再放送を見ているところ。MTVの「Unplugged」のようなインティメイトさで、カニエ自身が自分のリリックの背景を解説したり、スキットを織り交ぜたりしながら進める独り舞台みたいな番組。セットにはセピア色の、カニエの小さい頃の写真が何枚も使われ、観客席に息子のレーベルGood LifeのTシャツを着てオーディエンスと一緒に息子の曲を口ずさむ母の姿も何度も映る。
ちょうどこれを書いている間に「Hey Mama」のパフォーマンスが。途中で母をステージに上げ、一緒に踊ったり母の元にひざまずいたり、母にマイクを渡してライムさせたり。カメラは観客席の男性オーディエンスをアップで映したりしているが、その多くがえも言われぬ表情でステージの上の母と息子を見つめている。
私は男じゃないから、俗に言われる「母と息子の特別な結びつき」の実のところを計り知ることは出来ない。想像することしか。
さらに母系社会(と敢えて言い切ろう)であるアフリカン・アメリカンの大衆文化を知れば知るほど、この「マイ・ママ」という言葉の持つ特別な感情やセンティメントの底知れぬ奥深さに感じ入る。一生かかっても理解出来ないだろうし、そう試みようと思うことじたいがおこがましく、傍観するより他にない、という感じ。
でも私には息子がいる。厳密に言えばアフリカン・アメリカンじゃないし、いくらバイ・レイシャルでバイ・カルチュアルであろうと、そういう「細かい」個人の人種的、文化的背景を逐一気にかけ、尊重してくれるのは社会のほんの一部であり、この国の大雑把なカテゴライズではブラック・アメリカンとして「まとめ」られ、本人も最初はとまどいながらもいずれはそれを受け入れていくことになるはずだ。その過程できっと彼も「マイ・ママ」観を意識し、彼なりの意見と感情を持つことになるんだろう…。
そう思うと責任の大きさに目眩がしそうだ。カニエのリリックを聞いていてもそうだが、母としてはごく当たり前と思うことにも息子は大きく感じ入り歌にしている。
今回のカニエの母のことで私が最も強く感じたことは、カニエに同情するというよりも、こんな風にして息子を後にしなければならなかった母の無念さ、だ。こんな時は一番自分が側にいて励ましてやりたいのに、その自分が逝ってしまうというやるせなさ。これは母になってみないと持ち得ない感情だろう。事実自分もこのニュースを知って初めて抱いた感想がこれで、自分でも正直とまどってしまったのだが。でもこれが本音。
でもこればかりはどうしようも出来ないこと。運命。寿命。定め。
だから今は、いつか後悔しないために、息子に精一杯の愛情を注ぎ続ける。それしか出来ないから。