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2-1 高野山六地蔵(第1~2)

2023年11月19日 10時44分56秒 | ドライブ

11月16日 木曜日 快晴
京大坂道に高野山六地蔵第1~6まであるのでやはり行かなければと走りました。
(2-1)7:50発k13~R370・九度山町~京大坂道・学文路~かむろ地蔵~高野山六地蔵第二~第一~三軒茶屋大常夜燈~五條市・柿博物館~(2-2)R371~道~k102~丹生神社~玉川峡~旧可根宿本陣中屋旅館~二里道標石~第五の手前の急な坂で車が溝に落ち通行不可。~引き返し~第四~フルーツライン~13:50帰宅。
走行:141㎞。
(Google参照)学文路三叉~柿博物館

快晴 気温7度 着込むこんでいますので寒くありません。

学文路三叉道標石 左に入り高野山六地蔵第一に向かいます。

北紀高野 曼陀羅宣言記念碑

見返し 正面の道を登ると学文路刈萱堂

この石柱が道標石 手前の石柱には、南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)南無=帰依する。釈迦牟尼仏=お釈迦さま。
右 慈尊院みち 是より里、左 高野みち 女人堂迄 三里。と他の文献に有りました。

古い家が続きます。Xに100均で買ってもらった時計を落としたので接着剤で固定をしました。Xには言えません。

再びR370に出て横断。

大きな石碑 大畑才蔵生誕地学文路

説明板

紀の川流域の新田開発に貢献した大畑才蔵(未校正)
江戸時代、ここ橋本市学文路は高野山の宿場町として賑わって いました。
この地に生を受けた才蔵は少年時代から算術に興味を 持ち、のちに土木技術者として多くの業績を残しています。
才蔵の業績のなかでも、ひときわ大きいものが「小田井用水路」です。
当時の紀の川の北側地域は、 「月夜でも乾く」 と言われたほど水不足に悩んていました。
このため、紀州藩第5代藩主となった徳川吉宗公は、 紀の川の水を利用した大規模なかんがい用水路を作ることによって周辺の水不足を解消し、米の生産高を増やそうと考えました。
その土木事業の陣頭指揮に抜擢されたのが大畑才蔵です。
この石碑は、才蔵の偉業を末永く顕彰するとともに、地域の 活性化を図り、文化と歴史の里たる認識を定着させることを目的に建立されました。

かむろ地蔵 予定にありませんでしたがちょっとだけ寄りました。

説明文を現場で読んでいませんのでお地蔵様の写真がありません。

かむろ地蔵
弘法大師が高野山を開かれた時代のがもろ」は、 梅の名所として名高く「香室」(かむろ)と書きました。
この香室の里に、自らを物狂道士と称する高徳の士が隠棲しておりました。
この方が謡曲高 野物狂」の主人公高師四郎で、その善行美徳は遠 くまで感化を及ぼしていました。
殊に学問の道の教導に力を尽くされたために、 この地方では字の読めない者が一人も居なかっ という事で、当時としては誠に珍らしいこと でした。
こうしたことから「香室」を「学文路」と書く ようになったのです。
弘法大師も深く道士をめでて居られましたの で、道士がこの地で大往生を遂げられた時、そ の死を憐れみ拾い菩提の為読経されたのです。
 その時、弘法大師が腰かけられた石がこの垣内 正面に安置せる石で、その後これをお大師さんの 腰かけ」と呼んであがめ祀るようになり、 更に後世、お地蔵さん三基が次々と寄進され、 或いは垣内の改修なども行われ現在のかむろ地 蔵となりました。
このためこの地蔵尊は、子供達の守護のお地 蔵さんであるとともに、特に学問のお地蔵さん として信仰されています。
とりあえずの写真。

高野街道三里道標石 ブロックに隠れて見落とすところでした。
正面から来ました。

石柱の文字が読めました。

こちらは、かむろ大師



本殿

雨が降って衣を乾かしたとかいろいろお大師様は大変です。

高野六地蔵第二





橋本市指定文化財 (第30号)
高野街道 六地蔵第二
昭和56年8月28日指定
ここ橋本市南馬場の地蔵堂は 『紀伊続風土記』に「境内周二十二間丁田(ちょうだ)にあり、六地蔵の第二なり」 とみえ、紀 の川から南の高野街道に6か所の 「高野街道六地蔵」 が あり、当地はその第2番目であったことが記されている。
 これは、江戸時代の後半に高野参詣の旅人の安全を祈念して置かれたものといわれ、清水を第一とし、当地が第二、 第三と第四が伊都郡九度山町河根の繁野と河根峠に、第五と第六が伊都郡高野町西郷の作水と桜茶屋と伝えられている。
それぞれが当時どのような規模で、どのような地蔵が 安置されていたか明らかでないが、 旅人が一つ一つ手を合わせながら旅の安全を願い、また、その度に近づく高野山 に思いを馳せたことが想像される。
こうした信仰の道に残 された跡は、かつての高野山信仰を今日に伝える文化遺産 であり、高野山への登山口として発展してきた橋本市においても、高野信仰と参詣道の関わりを示す貴重な文化遺産の一つである。
なお、平成26年11月、国道370号の拡幅により、約 7m 西北西へ移設された。
橋本市教育委員会 南馬場区

紀の川沿い

社皇王神社((Googleでは社皇神社)



右側のお宅も貫禄のある塀と門。

由緒書き 社皇王神社

社皇王神社
御由緒
大同二年(西暦八0七年)
平城天皇御代奉奉勧浮納済
神祭神
伊弉諾尊
伊弉冉尊
天照大神
熊野夫須毘命
尾船豊受姫神尾船天夫化智神
手置帆負命 (たおきほおいのみこと) 彦狭知神
熊野夫須昆布は熊野忍踏命と同神にして神代記上に依る天照大神素戔嗚尊の御誓約に依って他生し給える古神也
見返し

本殿。鎌不動は弘法大師が鎌で作ったという不動尊がまつられている。





力強い根っこ。

立派な石碑



くぎにの郷 地域の集会所。

高野六地蔵第一 西行庵

橋本市指定文化財(第29号)(未校正)
高野街道
六地藏第1
ここ橋本市清水の地蔵堂は「紀伊続風土記』に「村の東端にあう高野 山街道六地蔵第一といふ」 とみえ、当地から高野山までの6か所に地蔵があって、「高野街道六地蔵」 と呼ばれていたことが知れる。
これば 江戸時代の後半頃に高野参詣の旅人の安全を祈念して置かれたものとい われ、当地を第一とし、 第二が橋本市南馬場、 第三と第四が伊都郡九度 山町河根の繁野と河根峠に、第五と第六が伊都郡高野町西郷の作水と 茶屋と伝えられている
それぞれが当時どのような規模で、 どのような地蔵 が安置されていたか明らかでないが、 旅人が一つ一つ 手を合わせながら旅の安全を願い、 また、 その度に近 づく高野山に思いを馳せたことが想像される。
こうした信仰の道に残された跡は、かつての高野山信仰を今 日に伝える文化遺産であり、 高野山への登山口として 発展してきた橋本市においても高野信仰と参詣道の関 わりを示す貴重な文化遺産の一つである。
また、当地は平安末期の歌人西行が一時止住したと 伝えられ西行像とされる像が堂内に残されており 西行ゆかりの地として 「西行庵」とも呼ばれている。
平成18年2月
橋本市教育委員会 清水区



改築前もこの様な造りの様です。

平成25年1月に再建。

西行庵再建(寄進された方の厚い信仰心へ)
寄進者
那賀郡粉河町 井提高枝
橋本市清水  豊澤トクエ
橋本市清水  厚母文子
平成二十五年一月吉 祥日

旧高野街道六地蔵尊第一

こちらが高野街道六地蔵第一! 立札があります。

高野街道 三軒茶屋 大常夜燈籠





橋本市指定文化財 (第25号)(一部未校正)
旧高野街道 三軒茶屋大常夜燈籠
昭和56年8月28日指定 高野街道は京都(東高野街道)・大阪(平野区・中高野街道、天王寺区・下高野街道)・堺(西高野街道)から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して谷内 川 (橋本川) 河口付近から紀の川を渡って当地に至り、 学文路から高野山へ 登っていく道がひらかれた。
 この道は町石道に比べ距離も短くなったことか室町時代後期には高野参詣はもっぱらこの道が用いられるようになった。
天正15年(1587) 応其上人は紀の川に橋本の地名の由来となる長さ130間(130×約1.818=236.364m)の橋を架けたが、紀の川増水により3年後に流失し、橋に代わって舟によ る横渡が行われるようになった。
この紀の川南岸渡場に建つのがこの大常夜燈籠で、後に北岸にも同様のものが建ち、この間で長く 「無銭渡」が行われた。 元は石燈籠2基が相対して建てられていた が、近年の周辺土地区画整理に伴う道路拡幅のため東側の1基が北へ約5メートル移 された。
この石燈籠には宝暦2年(1752) の建立銘とともに「高野山興山寺領」の銘 が刻まれ、紀の川を渡って高野山領に踏み入れた旅人たちの感慨が偲ばれる。
江戸時代の東橋本と紀の川渡 (『紀伊国名所図会』から)
平成14年3月
橋本市教育委員会
賢  堂  区
「北岸にも同様のものが建ち」とありますので行かねばなりません。
「高野山興山寺領」の銘

橋本橋方向

見返し

Xから柿を買ってくるように13㎞先の五條の柿の博物館へ。

10月26日に正岡子規が「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠まれたので「柿の日」

富有柿4個100円 一家族人パック。5パックしか残っていませんでした。

湯冷めをして風邪を引き現在寝込んでいます。
3日目。文章などの点検がいつもより不十分と思います。
柿を食ったら治る!!!

終わり