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2-1 丹生川上神社上社に行きました。

2023年11月11日 10時39分51秒 | ドライブ

11月8日 水曜日 快晴
丹生川上神社上社を行けば、丹生川上神社の三社巡りは終わりです。
吉野山周りであちこちで止まりますので今回も、VOXで行きます。
(2-1)8:10発~k13~紀の川南道路川沿い道路~k39~k37・如意輪寺~奥の千本~(2-2)吉野大峯林道~丹生川上神社上社・道の駅 杉の湯川上~吉野川遊歩道・昼食~k39・吉野葛購入~太子町~~R26~17:10帰宅。
走行:221㎞。
(Google参照)コース:吉野から丹生川上神社上社

シーズンを外れていますのでガラガラ。上までゆっくり走ります。Uターン停車。

案内板があったので立ち寄り。車があまり通らないので駐車?できます。太閤秀吉が五千人の共を従えて花見の会を催した。と

どんなにきれいかを見に行きました。貧血気味で足元フラフラ。

「豊太閤花見塚」の石柱と杉の木が立っているだけ。重たい石を持ってこられた・・・ご苦労様!昭和58年5月建之(40年前)奇麗に磨いておられます。

歩いて2分程度の道。いい運動になりました。二度と来ません。

今度は歩かなくて直ぐ前。

小判井戸

小判井戸(文字お越し未校正)
こんこんと湧き出る清水があります。
延元の昔、後醍醐天皇が吉野の行宮で歌を詠みなるときの御料水になっと伝えられ、また、文禄三年 豊太閤秀吉が吉野山で花見のぎりには、茶の湯として用いられたという名水です。
今でこその道路の片ほとりに、 忘れ去られたような存在ですが、吉野山には、こんな所にも昔語りにゆかりの深い史跡が伝わっているのです。
吉野町観光課

小判井戸 水が溜まっていること、流れ出さないことが不思議です。

如意輪寺 菊祭りの旗を見て立ち寄りました。

奥の参道から境内へ

本堂 鈴緒がありません。

本堂を取り巻く祠

説明板

如意輪寺(文字お起こし未校正)
専横の北条幕府を倒し、建武中興を成しとげた後醍醐天皇は、足利氏との争いのため京都を逃れ、吉野山へ行幸以来四年間、吉野の行宮に過ごされました。
延元四年(一三三 九) 病床に就かれ「身は仮へ南山のに埋まるとも魂は常北 (京都)の天を望まん」と都をあこがれ、遂に崩御さ れました。
皇の遺骸をそのまま北向きに葬ったのが、塔尾 陵です。
次帝後村上天皇の正平二年 (一三四七) 十二月楠木 正行公の一族郎党百四十三人が、四条畷(大阪府)の決戦(足利の武将高師直との戦)に向うにあたり、吉野の皇居に天 皇と今生の別れを告げ、先帝の御陵に参拝の後、如意輪堂に詣で髻(もとどり)を切って仏前に奉納、過去帳に姓名を記し最後正行公は、
鏃をもって御堂の扉に
  かへらじとかねておもへば梓弓(あずさゆみ)
      なきかずにいる名をぞとどむる
辞世の句を残して四条畷に向いましたが衆?敵せず、弟 正時と共に最期をとげました。
現在の建物は、約三百五十年前の再建で、正行公の歌を とどめた扉は寺宝として、宝物殿に保存されています。
吉野町
如意輪寺境内案内図

難切(なんきり)不動尊

大聖不動明王(だいしょうふどうみょうおう)お護摩によって、煩悩を焼き浄め、大厄を消除。家内安全、商売繁昌、病気平癒、心願成就など、開運の祈願。
何でも来い!

「難切=なんきり」から転じ「ナンキン」をお供えするようになった。日本酒はありますが南瓜(かぼちゃ)はありませんでした。不動おみくじ。500円

谷側(k37の反対側)の山門 厄除けの菊玉。奇麗です。

門を出て見返し くぐって厄除け。

菊の展示

盆栽菊 値打ちがあるものです。ほかの菊も奇麗です。色、花びら、バランスがいいです。

寺務所

後醍醐天皇御陵殿

御陵殿

宮内庁の看板がありますので本物です。

階段を上がり境内を見返す。

さらに上がり・・・手すりがあるので何とか上がれます。

後醍醐天皇塔尾陵(とうのおのみささぎ~御陵名)





長慶天皇皇子 世泰親王墓(よやすしんのう)



奥の千本方向へ。 一方通行が解除されていますので近道で行きます。

金峯山寺が一番見れる場所 「覚範の首塚」

説明文

横川の覚範の首塚(文字お起こし未校正)
この辺の上下が上の千本で、俗に滝ざくらといわれている ところです。
花の盛りに下の方から見上げると、あたかも花 の滝がたぎり落ちるように望まれるので、こう名づけられ たものでしょう。
さて、この小さな丘が横川の覚範の首塚という伝承をもつ ています。
文治元年(一八五)十二月、兄頼朝の怒りに触れた源義経武蔵坊弁慶をはじめ、佐藤忠信、伊勢の三郎、常陸坊海尊、鷲尾の七郎、片岡の八郎といった一騎当千のつわものとと もに、愛妾静御前を連れて雪の吉野山に潜入し、吉水院(吉水神社)に身を隠していましたが、金峯山寺衆徒の味方を得ることができず、途中で静とも別れ、この上の子守の社水 分神社まで逃げのびてきましたが、豪僧横川の覚範が追い すがってきたので、家来の一人佐藤忠信が義経の身代りと なって、中院谷(首塚の後ろの谷)で戦い、この少し上の花矢倉から矢を浴びせ、覚範を討ち取りそのすきに義経一行を 落ちのびさせたのでした。
そして討たれた覚範の首を埋め ところが、この塚だといわれています。
このことは「義経記」という本にくわしく描かれていま す。
吉野町

金峯山寺と大淀町方面

金峯山寺 仁王門はまだ工事中(作業の屋根囲い)

いかつい顔の不動明王 不動明王はみんないかつい顔です。

閼伽井(あかい)というのは・・・・
井戸のことで 閼伽というのは 仏教では仏前に供養されるお水をさします。と

小判井戸と同じように見えます。同じ山でした。水汲み用のポンプがあります。

今回も写真の量が多く作成で疲れますので前半はここまで。
ボケ防止にやってますので・・・ボチボチ。

終わり