8月27日 日曜日 快晴
中の橋のトロッコ道を見に行く前に寄りました。
中門 右手の蓮池に「善女龍王社」(R370沿いの龍王渓の名前の由来になった。)
中門
高野山の総門である大門に対して、 壇上伽藍の門は中門と呼ばれている。
創建は高野山開創期にさかのぼる。
当初は結界の 意味が強い鳥居状のものであったが、焼失と再建を繰り返しながら五間二階の楼門となった。
江戸時代には3回焼失したこと が知られており、地中には焼失前の礎石が埋まっている。
天保14年(1843) 焼失後は再建されず、礎石だけが露出した中門跡としてその痕跡を残していたが、 平成27年に厳修された 高野山開創 1200 年記念大法会の特別事業として172年ぶりに再建された。
なお、正面に配置されている持国・多聞の二天像は 文政3年(1820) 再建時のものである。
案内板の説明:写真から文字お越しができました。ボーッと生きてるんじゃないよ💢
蓮池の中に善女龍王社
お大師様が、長安から帰朝の折、一緒に日本に来られた。1771年に祠が建てられた。
善女龍王社由来
善女龍王は昔中国の都、お大師様の師匠である恵果和尚のお寺 長安 青龍寺の鎮守として祀られておりま した。
(又の名を清瀧権現と言います)お大師様がご帰朝の折、一緒に日本へ来られ密教を護る善神お大師様の守護神として親しまれております。
「紀伊続風土記」によりますと、当初は高野山開創の頃は 水沢であったと言われており、江戸時代の中頃に日照りが 続くことがあり、人々が大変困っておりました。
当時、瑞相院に慈光という僧が居り、雨乞いの為に蓮池に 善女龍王をお祀りしたいという願いを発すと、山上は皆喜ん で賛同しました。
慈光は自身の持念していた龍王像と仏舎利を寄進し、明和八 年に祠が建てられたと記されております。
以来、多くの人々の信仰を集め毎年十月十九日には善女龍王祭が催されています。
現在奉祀されております龍王像は、平成八年に東京支所下龍照院 鴻野弘有住職により寄進され、現社殿は同住職のご寄進により新築され令和元年十月十七日に遷宮されたも のです。
ー七七一年(明和八年の添え書き部分が最後に来ています。)
金剛峯寺境内
大会堂(だいえどう)鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王が、父帝の追福のため建立。
後、長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂として壇上に移し、現在では法会執行の際の集会所的役割。
不動堂 四方から見た建物や屋根の形態がそれぞれ異なる
内部に護摩を焚いたことによる煤や薫香等の付着が無い。
運慶作の八大童子像と本尊不動明王が祀られていたことから、「不動堂」と呼ばれている。
国宝不動堂
指定 昭和27年3月29日
言い伝えによれば建久八年(1197) 鳥羽天皇の皇女院の御願により行勝上人がこの堂を建てたということである。
鎌倉時代の和様建築であって、 それ以前の住宅建築の 様式を仏堂建築に応用したものである。
正確な建築年代は不明であるが、仏壇の勾欄や羽 目板の格狭間の形などから、鎌倉時代後期と考えられる。
内陣の後に仏壇があり、 来迎柱の間に板壁をつける。 屋根の勾配のゆるい桧皮葺で、平安 時代の寝殿造の面影をのこす。
愛染堂 本尊は恋愛を司る仏として知られている愛染明王。
愛情に満ちた幸せな生活をもたらす。
1334年に後醍醐天皇の命令によって建立。火災にあったため、現在の建物は1843年に再建。
国史跡
愛染堂
指定昭和52年7月14日 大。本尊の愛染
後醍醐天皇の御願二上建武元年(1334)二(に)建設(された。)(本尊の愛染) 明王は天に向かって矢を射る姿から天弓愛染明王と呼ばれる。
現在の堂は、天保十四年(1843)の大火後の再建飞与百(である)。
()内が説明文です。それでも便利に文字おこしをしてくれます。
根本大塔 高野山一山の 総称として、金剛峯寺と命名。
根本大塔
根本大塔は高野山内の建造物としては最大級の高さを誇る。
弘仁七年 (816) 嵯峨天皇より高野山を下賜された弘法大師は、 金堂の後方東西に二基の巨大な宝塔を配置する世界最初の本格的密教伽藍建立を決意された。
しかし、高さ十六丈 (約 48.5m) という巨大な根本大塔の建設であったため、完成したのは弘法大師御入定後40年あまりを経た貞観十八年(876)頃とされ ている。
その後、落雷などの火災により5回の焼失を余儀なくされ、天保十四年(1843)の大火以降は礎石だけを残して いた。
現在の根本大塔は昭和十二年(1937)に再建されたものである。
構造的には初期の多宝塔に分類される。 円筒形の塔身 に方形屋根を有する一重塔に、裳階(もこし)と呼ばれる庇(ひさし) と壁が施されている。
創建当時と変わらない根本 大塔の偉容は高野山のシンボルとしてひろく知られている。
大塔は胎蔵界を象徴する塔とされた。
内部は一六本の柱で内陣と外陣に分れ、内陣には中央に本尊胎蔵界の大日如来坐像。
大日如来坐像を金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲む。
16本の柱には十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれている。
堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら=絵で、仏様の世界や悟りの境地が描かれている。)
相輪:五重塔や多宝塔などの仏塔(塔婆)の頂点部分に設けられる、下から露盤・伏鉢(覆鉢)・請花・九輪・水煙・竜車(竜舎)・宝珠。
露盤・伏鉢・請花は見えませんが九つの輪は数えられます。
金堂(別名講堂) 本尊仏を安置してある堂
本尊は薬師如来像。高村光雲の造立。
六角経蔵(ろっかくきょうぞう) お経を収める蔵。
「大輪回し」下部の取っ手を押して一回りすれば一切経を一通り読んだ時と同じ徳。「右回り」
以前、ビクともしなかったのですが、今回一人で回せました。ご利益がありますように。
お賽銭を入れ忘れました~次回に。
平安時代後期の1159年に建てられた。1934年(省は9年)再建 と説明。
説明板
本尊釈迦如来 菜治元年(五九)鳥羽天皇の白后 美福門院が天皇菩提のために創建 され紺代金泥の一切経(荒川経)さりとを 納めれた 現存の建物は昭和金 大阪の啓祐三郎翁をみ夫妻の 再建になるものである 六角経藏 *文字は欠落。塗りつぶしは誤表記。
説明板
国史跡(再建されているので国宝ではありません。)
六角経蔵
指定 昭和52年7月14日
平治元年(1159) に建てられ、 美福門院御寄進の紺紙金字一切経を容れて いたが、経蔵は昭和のはじめに焼けて建て直した。
重要文化財の一切経は霊宝 館大宝蔵に保存される。
美福門院がその維持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近・あら川の桃)の庄を寄進された事に由来して、金泥一切経を「荒川経」。
写真からの文字お越しは、白地の場合文字化けや文字サイズが非常に大きくなり使えません。
この阿知中の橋のトロッコ道に行きました。
楽しいツーリングでした。
生きてるだけで丸儲け!感謝!感謝!
南無阿弥陀仏。7回唱えました。
終わり