イエス様は弟子たちに、ともにいる間は喜ぶように教えました。
弟子たちが地上にイエス様がいる間に断食をしないのは、
私たちが来る世で断食をする必要がないのと同じです。
しかしイエス様が死に、この地上から取り去られてしまってからは、
弟子たちの生活は大きく変わりました。
弟子たちはそれまで気づかなかった、イエス様がいない悲しみを覚え、
イエス様を求める心が与えられたのです。
イエス様がともにいることによって得られていた、
あふれるばかりの喜びを失った時に初めて、嘆きをもって、
断食を始めたのです。
花嫁断食とは求めること
雅歌は花婿であるイエス様と、その花嫁である教会の関係を表すもので、
教会が神を求めて、心が病んでいる様子を描いています。
雅歌
5:8 エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/
もしわたしの恋しい人を見かけたら/わたしが恋の病にかかっていることを/
その人に伝えると。
私たちはイエス様を体験すると、それを求めて渇くようになります。
そしてその渇きは、イエス様ご自身でしか癒されないものです。
イエス様を求めない心とは、今の状況、
すなわち霊的な空虚さを受け入れて生きていくことです。
嘆く心とは、満たされていない心であり、神を必死で求める心です。
そしてこれが花嫁断食なのです。
花嫁断食は、神が私たちを求めていることを知り、
また私たち自身の内に神を求める心を呼び覚まします。
神は必ず、私たちの思いに応え、神を求めて悲しむ者には、
満たしを与えてくださいます。
それはイエス様ご自身が約束されていることです。
マタイによる福音書
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
神を求めて愛に病むことは、とても大切なことです。
なぜなら私たちは神を愛し、愛されるために創造されたからです。
神が霊的な渇きを与えてくださったことによって、
私たちは何にも代えて、神の愛を経験しようとするようになります。
そして私たちは進んで自分の心や生活を変え、
愛が私たちを支配するように整えられるのです。