ローマ人への手紙
3:4 絶対にそんなことはありません。
たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。
それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。
3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、
それに対して何と言うべきでしょう。
人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、
どうして神は世をお裁きになることができましょう。
3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、
神の栄光となるのであれば、なぜ、
わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」
とも言えるのではないでしょうか。
わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、
こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
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8節に「善が生じるために悪をしよう」というパウロへの
批判があることを言っていますが、その批判に対して、
「こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」という
厳しい断罪をしています。
これは4節に「すべての人を偽り者としても、神は真実な方である」
と告白しているパウロの言葉を正しく受け止めれば、
神の祝福に預かる祈りであることが分かります。
十字架に合わせられた祈りが祝福なのです。
ですから敵対者がパウロを「善が生じるために悪をしよう」
としているというのは聖霊を冒涜すべき罪に匹敵します。
ゆえにパウロはこのように批判する者たちこそ、
「罰を受けるのは当然だ」と指摘しました。
そして5節から8節まで問題視しているのは、神の義です。
敵対者は、神の義をないがしろにして神の義に従わなかったのです。
神の義とは神を神とすることで、それが救いなのだということです。
これから注解していくところですが、
3:22と10:3にはこのようにあります。
神の義は生命のそのもので、神の満ち溢れる平安そのものなのです。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、
それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
10:3 というのは、彼らは神の義を知らず、
自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。