年金生活になった私の楽しみに、福井県立図書館通いが加わりました。
これまでもブログでは、図書館で出会った本のことを書いてきました。
特にキリスト教に関して、
長年の私が追い続けていた課題がかなり解決していくことに驚くばかりです。
まさか県立図書館でそうなるとは想像できませんでした。
なぜなら私はこれまでの50年間は、会社経営もしていましたので、
金銭的なゆとりもあり、本はアマゾンか書店で購入するものだったからです。
しかし、福井市内の3LDKの団地に移住し、
これ以上、本も置けないということもあり、
県立図書館に通うことになったのですが、
先ほど申し上げたような思いがけない祝福が待っていたのです。
今回、出会ったのは
・「巡察師ヴァリニャーノ(注・01)と日本」(ヴィット・ヴォルビ著)、
・「天皇とキリシタン禁制」(村井早苗著)
の2冊です。
ヴァリニャーノについては20年前、豊田市での断食祈祷院の礼拝説教で
私は数回に渡って取り上げたのですが、
その時に分からなかったことがすべて解明されました。
ヴァリニャーノは日本に伝えられたキリスト教がどのようになるのかを
400年先の今日まで預言していたことなのです。
江戸幕府の鎖国政策、そして明治以降は、近代天皇制を敷いて
無謀な太平洋戦争に至ったこと。
そして戦後はマネー支配により、
キリスト教が成長することを阻害していくであろうことまで見ていたことです。
そして2冊目の「天皇とキリシタン禁制」においても
明らかにキリスト教を排除したのは天皇であり、
また明治以降の近代天皇制であることが明確だったことです。
すると日本のキリスト教成長を阻害する要因を変革するか、または取り込むか
それとも乗り越えるかのいずれかです。
私はこれまで展開しているように脱日本教をするしか、あり得ないと考えています。
驚くべきことに巡察師ヴァリニャーノが同じようなことを見ていたのです。
私の考えは、日本教に支配されない新しい聖書に基づく
コイノニア形成しか脱出ことできないと思っていましたが、
その鍵をすでに巡察師ヴァリニャーノが400年前に預言していたとは驚きです。
私はさらに巡察師ヴァリニャーノの思想を分析して、
日本教脱出の方法を考えていきたいと思います。
巡察師ヴァリニャーノ(注・01)
1539年2月15日 - 1606年1月20日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。1539年、イタリア・ナポリ王国のキエーティで名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、名門パドヴァ大学で法学を学んだ後、キエーティの司教をつとめた関係でヴァリニャーノ家と親交のあった教皇パウルス4世に引き立てられてローマで働くことになった。パウルス4世の後継者ピウス4世もヴャリニャーノの才能を評価し、より重要な任務につかせようとした。ヴァリニャーノはこれに応えて聖職者となることを決意し、パドヴァ大学で神学を学ぶと1566年にイエズス会に入会した。
ヴァリニャーノが当時の東インド管区の東端に位置する日本[肥前国 口ノ津港 (現:長崎県南島原市) ]にたどり着いたのは1579年(天正7年)7月25日のことであった。この最初の滞在は1582年(天正10年)まで続く。ヴァリニャーノは日本におけるイエズス会の宣教方針として、後に「適応主義」と呼ばれる方法をとった。それはヨーロッパのキリスト教の習慣にとらわれずに、日本文化に自分たちを適応させるという方法であった。彼のやり方はあくまでヨーロッパのやり方を押し通すフランシスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会の方法論の逆を行くもので、ヴァリニャーノはこれを理由としてイエズス会以外の修道会が日本での宣教を行うことを阻止しようとし、後のイエズス会と托鉢修道会の対立につながる。1581年(天正9年)、イエズス会員のための宣教のガイドライン、(日本の風習と流儀に関する注意と助言))を執筆した。その中で、彼はまず宣教師たちが日本社会のヒエラルキーの中でどう位置づけられるかをはっきりと示した。彼はイエズス会員たちが日本社会でふるまうとき、社会的地位において同等であると見なす高位の僧侶たちのふるまいにならうべきであると考えた。当時の日本社会はヒエラルキーにしたがって服装、食事から振る舞いまで全てが細かく規定されていたのである。具体的にはイエズス会員たちは、高位の僧侶たちのように良い食事を取り、長崎市中を歩く時も彼らにならって従者を従えて歩いた。このようなやり方が「贅沢」であるとして日本のイエズス会員たちはヨーロッパで非難された。そのような非難は托鉢修道会からだけでなく、イエズス会内部でも行われた。1590年(天正18年)の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。このときは1591年(天正19年)に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。1598年(慶長3年)、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。
1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬されたが、その後天主堂の焼失・荒廃により地下聖堂ごと所在不明となった。しかし1990年から1995年の発掘により発見され、現在は博物館として観光用に整備されている。