詩編は典礼(礼拝・奉神礼)に用いられた詩と神への感謝の詩であり、
ユダヤ教では「テヒリーム」(賛美)といいます。
ヘブライ語テキストに本来つけられた曲は失われていますが、
「セラ」「ミクタム」などの曲の用語が残されています。
また詩編は、弦楽器・管楽器(ラッパなど)・打楽器(シンバルなど)を用いていますので、
最近、ユダヤ人の伝統的楽器を用いて曲を復元する試みがなされています。
30年前にアメリカのメイシアンイックジュー(ユダヤ人クリスチャン)の礼拝で体験しましたが、
日本のペンテコステ・カリスマ派は古来の詩編の賛美を再現した礼拝賛美です。
ただキリスト教の伝統的教派では、多く詩篇は歌唱されるものであり、
様々な音楽家によって作曲され、多彩な音楽的表現を生みだされています。
寺田まり子さんの書かれた「詩篇の音楽 旧約聖書から生まれた音楽」に詳しく書かれていますが、
モーツァルト、ベートーヴェンとシューベルト、メンデルスゾーンなどは
多くの詩編の作曲をしています。
古代からの伝承では、その多くがダビデの作であるとされ
(73の詩篇の表題にダビデの名があります)ていますが、
全詩編150編はこのような解釈は完全に否定され、ダビデ王の作品だけではなく、
捕囚期前後の作も多く含まれているのが定説です。
詩編が成立、編集されたのは、まず第一神殿(捕囚期前のソロモン神殿)が
バビロニ軍により崩壊し、バビロン捕囚となって、
ようやく帰国した人たちによって第二神殿ができます。
その時に神を賛美する詩編が編集されています。
ユダヤ教やキリスト教において詩篇が「朗読」「朗誦」され、
定式化された式文による祈祷、それも多くは歌唱を伴うものとなっています。
カトリック教会、プロテスタントの伝統的な教会などでは、
「教会の祈り」、改訂共通聖書日課またはそれに相当するものに沿って
『詩篇』の読む所を選び、礼拝の中で交読されています。
詩篇は正教会(日本正教会)では
聖詠と呼ばれていて聖詠を収めた祈祷書を聖詠經といいます。
神学としての詩編では、
K・バルトの「教会教義学」の和解論に詩編の釈義がかなりのスペースを割いています。
バルトの義認論の裏付けに詩編の釈義をもってきているわけです。
バルトは「義認は神の義しさとその行使ある神の裁きにおいて起こる」と指摘しています。
その中核が詩編であるというわけです。
その中でバルトがとりあげたのは下記の詩編です。
48:10 神よ、神殿にあってわたしたちは/あなたの慈しみを思い描く。
48:11 神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。
48:12 あなたの裁きのゆえに/シオンの山は喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る。
ユダヤ教では「テヒリーム」(賛美)といいます。
ヘブライ語テキストに本来つけられた曲は失われていますが、
「セラ」「ミクタム」などの曲の用語が残されています。
また詩編は、弦楽器・管楽器(ラッパなど)・打楽器(シンバルなど)を用いていますので、
最近、ユダヤ人の伝統的楽器を用いて曲を復元する試みがなされています。
30年前にアメリカのメイシアンイックジュー(ユダヤ人クリスチャン)の礼拝で体験しましたが、
日本のペンテコステ・カリスマ派は古来の詩編の賛美を再現した礼拝賛美です。
ただキリスト教の伝統的教派では、多く詩篇は歌唱されるものであり、
様々な音楽家によって作曲され、多彩な音楽的表現を生みだされています。
寺田まり子さんの書かれた「詩篇の音楽 旧約聖書から生まれた音楽」に詳しく書かれていますが、
モーツァルト、ベートーヴェンとシューベルト、メンデルスゾーンなどは
多くの詩編の作曲をしています。
古代からの伝承では、その多くがダビデの作であるとされ
(73の詩篇の表題にダビデの名があります)ていますが、
全詩編150編はこのような解釈は完全に否定され、ダビデ王の作品だけではなく、
捕囚期前後の作も多く含まれているのが定説です。
詩編が成立、編集されたのは、まず第一神殿(捕囚期前のソロモン神殿)が
バビロニ軍により崩壊し、バビロン捕囚となって、
ようやく帰国した人たちによって第二神殿ができます。
その時に神を賛美する詩編が編集されています。
ユダヤ教やキリスト教において詩篇が「朗読」「朗誦」され、
定式化された式文による祈祷、それも多くは歌唱を伴うものとなっています。
カトリック教会、プロテスタントの伝統的な教会などでは、
「教会の祈り」、改訂共通聖書日課またはそれに相当するものに沿って
『詩篇』の読む所を選び、礼拝の中で交読されています。
詩篇は正教会(日本正教会)では
聖詠と呼ばれていて聖詠を収めた祈祷書を聖詠經といいます。
神学としての詩編では、
K・バルトの「教会教義学」の和解論に詩編の釈義がかなりのスペースを割いています。
バルトの義認論の裏付けに詩編の釈義をもってきているわけです。
バルトは「義認は神の義しさとその行使ある神の裁きにおいて起こる」と指摘しています。
その中核が詩編であるというわけです。
その中でバルトがとりあげたのは下記の詩編です。
48:10 神よ、神殿にあってわたしたちは/あなたの慈しみを思い描く。
48:11 神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。右の御手には正しさが溢れている。
48:12 あなたの裁きのゆえに/シオンの山は喜び祝い/ユダのおとめらは喜び躍る。