バイブルランドin福井

安田由久が驚くべき聖書の世界をご案内します

正しい者は一人もいない 06 求めなさい。そうすれば、与えられる 

2024-06-30 04:00:00 | ローマ人への手紙を読み解く
ローマ人への手紙
 3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。

全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、

罪の下にあるのです。

 3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。

 3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。

 3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。

ただの一人もいない。

 3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/

その唇には蝮の毒がある。

 3:14 口は、呪いと苦味で満ち、

 3:15 足は血を流すのに速く、

 3:16 その道には破壊と悲惨がある。

 3:17 彼らは平和の道を知らない。

 3:18 彼らの目には神への畏れがない。」

 3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、

律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口が

ふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。

 3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、

だれ一人神の前で義とされないからです。

律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

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先回、述べましたようにパウロが指摘した

ガラテヤ人への手紙

2:19 わたしは神に対して生きるために、

律法に対しては律法によって死んだのです。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。


とあったように

律法なくして罪の認識は起こり得ないのです。

律法によって、罪とは何かを私たちの喉元に突き付けられるのです。

もし律法がなかったら、罪はまさにピンボケて、あいまいなものとなり、

罪は正しく認識されません。

そして律法のもとに死ぬとは十字架の体験、つまり神を体験することです。

私の手元にアメリカ南部バプテスト教会指導者、

ヘンリー・ブラックベイ師の「神を体験する」というテキストがあります。

このテキストの中核は、十字架の刻印あり、それを体験することです。

つまり十字架のもとでしか罪の真の姿は見えて来ないし、

そして十字架の罪のゆるしも分からないのです。

その十字架を刻印されるのはどのようになされるのかですが、

それはキリスト教会の礼拝なのです。

教会の礼拝は牧師との人間の関係で示されるのではありません。

牧師も含めて、信徒全員が十字架の元にひれ伏し、

体験するのが、主日礼拝です。

それは十字架の前には「お前は罪人である」という罪を

明確に示され、同時にそれをゆるすために

十字架についてくださった主を仰ぐのです。

それ以外の方法では、

ローマ人への手紙
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、

だれ一人神の前で義とされないからです。

律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

からなのです。


それゆえに神を体験することを毎週の礼拝ごとに神の前に出て、

求めれば、十字架は刻印されるのです。

それが真の礼拝です。


マタイによる福音書
 7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。


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