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(注 文中の年号その他は動画アップ時のそれです。転載文の色文字強調はブログ主の恣意によります)
「日本が朝鮮半島から搾取した」は大嘘!「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説【前編】
「日本が朝鮮半島から搾取した」は大嘘!「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説【後編】
やまと新聞公式チャンネル 2015/04/13 に公開
今回の動画は、「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説します。日韓併合当時のアサヒグラフなど一次資料からの写真をふんだんに使い、日韓併合時代、日米開戦後の苦しい状況の中でさえ朝鮮半島への国力を注ぎ続けた日本の真実を明らかにします。
今年は大東亜戦争終結70周年を迎えます。戦勝国気取りの中韓が、日本を貶める大規模な情報戦を仕掛けてくることは間違いないでしょう。やまと新聞と水間政憲は、こうした中韓の動きに対し、一次資料に基づいた客観的な事実を提示し徹底的に対抗します。
親から聞かされた「日本人は親切だった」
日本には今日、悲しい風説が飛び交い、それによって多くの人々が惑わされています。
たとえば、「日本はかつて朝鮮を侵略し、朝鮮の人たちを弾圧し、虐待し、搾取し、ひどいことをした」 といった類の風説です。学校でも習ったでしょう。あたかも事実であるかのように。 日本は悪者だ、と教え込まれてきたのです。しかし、こうした主張が本当なのか、それとも事実とは違うのか、私たちは、当時の実体験を持つ長老たちに聞かなければなりません。
韓国人の女性で、呉善花(お・そんふぁ)さんというかたがいます。日韓関係についてたくさんの本を書いているかたですが、彼女は小さい頃、親の世代から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞かされていました。
ところが、学校に入学すると、先生から、「日本人は韓国人にひどいことをした」と教わって、すさまじいばかりの反日教育を受けたのです。それでいつしか、学校で教えられるままに、「日本人は韓国人にひどいことをした」という認識が、彼女の中で常識となっていました。
彼女はその後日本に渡って、日本で生活するようになりました。すると、かつて親から教えられた「日本人はとても親切な人たちだった」という言葉が、再びよみがえってきたのです。
それで彼女は、日本と韓国の歴史について、もう一度勉強し直しました。やがて彼女は、韓国で受けた反日教育というものが、非常に偏った、間違いだらけのものであることを知るようになります。そして、反日主義から抜け出したのです。 彼女はのちに、『生活者の日本統治時代』(三交社)という本を出版しました。これは、かつて日本が朝鮮を統治した時代――つまり日韓併合の時代(一九一〇~一九四五年)を実際に体験した日本人や韓国人にインタビューして、それをまとめたものです。 そこには、日本統治下の朝鮮を実際に体験した日韓一五人の証言が書かれています。いずれも、今はかなりお年をめされた方々ばかりです。
彼らは貴重な証言を残してくれました。彼らの体験談を通し、あの朝鮮における日本統治時代は実際はどんなものだったか、ということが非常にはっきり見えてきます。
私たちは彼らの証言に耳を傾けてみましょう。
日本統治下の朝鮮を体験した人々の証言たとえば阿部元俊さんは、大正九年、三歳のときに朝鮮に渡り、そこで学生時代を過ごした人です。文字通り、日本統治下の朝鮮を体験したのですが、彼はこう言っています。
「私が朝鮮にいたころ、日本人による朝鮮人いじめの話は、噂としてもまず聞いたことがありません。とくに、ソウル郊外の水原にいたころは、日本人が少ないからと珍しがられて、地域の人たちはみな親切にしてくれていましたしね。 少なくとも水原では、私の知る限り、日本人と朝鮮人とが衝突したとか、喧嘩したとか、何かのトラブルがあったといった話は聞いたことがありません。……ソウルでもそうでした。……学校では、『ここは朝鮮だ、我々は他人の国によそからやって来て住んでいる。朝鮮人と喧嘩したり、朝鮮人をいじめたりは絶対にしてはいけない』 と盛んに言われていましたし、親からも厳しくそう言われていました。
…… 私の父は医者で、貧困な農民たちの治療に励んでいましたが、それで病原菌をもらってしまいまして、腸チフスと赤痢にかかってしまいました。父が病院を辞めるときには、多くの朝鮮人が家にやって来て、『どうか辞めないで、ここにいてください』と泣いて別れを惜しんでいました。…… 戦後、日本に帰ってから、朝鮮に住んでいた日本人は朝鮮人をさかんに苦しめたという言葉を、当然のようにぶつけられましたが、自分の体験からすると、いったいそれはどういうことなのか、どう考えてもわかりません。 喧嘩ということだけでなくて、問題になるようないじめとか、差別とか、一般生活者の間ではほとんどなかったということを、私は自分自身の実体験から自信をもって言うことができます」
このように阿部さんは、一般庶民のレベルでは朝鮮人と日本人は仲良くやっていたと、証言しています。今日、韓国の学校教育では、「日帝は、全国いたるところで韓民族に対する徹底的な弾圧と搾取を行ない、支配体制の確立に力を注いだ」 「日帝の弾圧に苦しめられたわが韓民族は、光復(戦後の解放)を得るまでの間、植民地政策に対して自主救国運動を展開した」 等と教えられています。このようなことを教えられると、日本人はまるで朝鮮でヤクザのようにふるまい、日本人は朝鮮人を虐待し、両者は至る所で非常に仲が悪かったような感じですね。しかし、実際に朝鮮における日本統治時代を体験した人々に聞くと、まったく違う様子だったのです。
たとえば、生まれも育ちも朝鮮の新義州(今日の北朝鮮北部)という林健一さんも、こう語っています。 「日本人による朝鮮人差別ということは、まったくありませんでした。学校で生徒同士は完全に対等で、上級生の朝鮮人が下級生の日本人を呼び寄せて、『お前は服装がなっていない』とか説教することなんかがたびたびありましたね。
…… 朝鮮を出て、日本の内地に行きたいとも思いませんでした。朝鮮の人々はよかったですし、私も居心地がよかったですから。……骨をどこに埋めるかと聞かれれば、『朝鮮』と答えたものです」
また、日本統治下のソウルで青春時代を過ごした吉田多江さんは、こう語ります。 「近所の子どもたちともよく遊びました。私は朝鮮の女の子たちの長く束ねた髪の毛がうらやましくて、私がさわりたいと言うと、よく触らせてくれました。……何の区別もなくつき合っていました。…… 仲のよかった思い出がいっぱいで、朝鮮人と日本人の間でいじめたりいじめられたりといったことは、本当に見たことも聞いたこともありません。……朝鮮はとても治安がよくて、日本人を襲う泥棒や強盗の話など聞いたこともありません。……横暴なふるまいなど一切ありませんでした。
戦後になって日本に送還されるときも、家財道具を盗られるなんてこともなく、こちらから知り合いの人たちにあげましたし、彼らはみな喜んで感謝の礼を表してくれました。こんな素晴らしいことって、あるでしょうか。世界に誇れることだと思います。…… 創氏改名(日本人名を名乗ること)を強制的にさせたとも言われますが、私のまわりの朝鮮人はみな終戦までずっと朝鮮名のままでした。 戦後の韓国で言われてきた歴史には、あまりに嘘が多いと思います。……私はソウルで生まれ、成年になるまでソウルで生きてきましたが、日本人と韓国人が基本的に仲良く生きてきたことは、双方の民族にとって誇るべきことだと思っています」
朝鮮人と日本人は仲良く生きていた
また同じく、日本による朝鮮統治時代を体験した韓国人の朴承復さんも、こう語っています。
「学校では日本人生徒たちからも先生からも、差別されたことはありませんでした。……今でも日本人の同期生たちと会うと、彼らは韓国語で話したがります。……今なおそれほど親しくつき合っている日本人の同期生が何人もいます。 商業学校の恩師二人は、とても尊敬できる方でした。一人は松尾先生で、国語の先生でした。この先生は韓国人、日本人にかかわりなく尊敬されていました。……
もう一人は横尾先生です。この先生は日本人生徒たちからは嫌われていました。めちゃめちゃに厳しくて、過ちを犯せば決して許さない方でした。しかし、私はなぜか特別に可愛がってもらいました。いろいろな相談にものっていただいた大恩師です。
卒業後、朝鮮殖産銀行に務めましたが、差別的な扱いを受けたことは全くありません。……行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもしました。日本人も韓国人も区別なく、みんな仲良く楽しく遊んで過ごしました。 日帝時代にそんなことあり得ないと言われるかもしれませんが、過激な人や極端な人たちの一部での喧嘩や衝突はあっても、一般の日本人と韓国人のぶつかり合いなんか、見たこともありません。
… 多くの日本人は、朝鮮人から家をちゃんと借りて住んでいました。日本人が勝手に韓国人の家を奪い取るなど、そんなことはなかったです。当時の日本人は本当に質素でした。……私自身は当時の日本人に対して悪い印象は全く持っていませんでした」
また、ソウルの京城帝国大学で学んだ韓国人の閔圭植さんは、こう語っています。 「私は個人的には日本人と仲がよくて、悪い感情はありませんでした。日本人が韓国人に恐怖を与えたとか、韓国人が日本人に殴られたとか、何か嫌がらせをやられたとかいったことは、個人的には見たことも聞いたこともありません。…… 日本人が韓国人の家を奪って勝手に使うとか、土地や財産を搾取するとかいうことも、まったくありませんでした。神社参拝については、何かの日には学生全部が連れて行かれました。行かなくても別に厳しい文句は言われませんでしたが」
また、日韓共同映画『愛の黙示録』を作り、三〇〇〇人の韓国人孤児を育てた日本人・田内千鶴子さんの生涯を描いた監督・金洙容さんも、こう語っています。 「農場の日本人たちはとても勤勉でした。日本人は早くから科学的で先進的な農法を使っていました。……日本人の経営する農場には、韓国人たちもたくさん働いていました。日本人は日当をきちんと計算して渡してくれました。彼らはとても礼儀正しく、日当を支払わないようなことはまずしません」
また、新義州の中学や高校に通っていた李萬甲さんは、こう語っています。 「朝鮮人は私一人でしたが、日本人の同級生みんなに親切にしてもらいました。……日本人の先生には立派な方がいらっしゃいました。…… 創氏改名は昭和一五年からのことでした。ほとんどの人が変えていましたね。……しかし、官庁に務める人でも、変えないからといって首になるようなことはありませんでした。…… 日本人が韓国人の生活を侵害するとか、略奪するとか、そんな類のことは日本人は全くしませんでした。日本人は法に反することをしないようにと、非常に気をつけていました」
続きは元記事でご覧ください。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi02.htm
以下の画像は適宜拾い集めてみたもので、上記に直結しての関係性はありません。
日本に合邦を望む朝鮮からの電報の数々(これは水間氏発掘?)⇒「ひと目でわかる『日韓併合時代の真実』水間政憲著 PHP研究所 2013年2月13日発行」 P.7 「日本之朝鮮」より
日韓併合は、当時の大多数の朝鮮の人たちの熱望でした。
日本に何の落ち度もありません。
「言葉を奪われた」の大嘘。ハングル文字を普及させたのは、日本の総督府時代の学校教育です。実情は真逆。
韓国人からの告発本も複数あり。
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韓国で2001年に出版された『私の経験した解放と分断』(趙文紀・著 韓国精神文化研究院、図書出版先人)には、次のようなやり取りが収録されている。
〈(インタビュアー)この話からお願いします、1942年度でしたか? 徴用で行かれたんですよね?
──徴用ではないです。ほとんどの記録が徴用でしょっぴかれたかのように書かれているものが多いですけど、徴用ではなく、徴用という話がなぜ出たかというと、行くときには軍需工場に行ったんです。募集があって行ったんですよ。会社から(募集が)あって、この国の就業紹介所で。ソウルで募集がありました。応募したら合格しました。(倍率は)12対1だったか、ものすごく厳しかったよ。
実は、私は資格という面で見たら、そこに応募する資格もなかったんですよ。年齢もそうだし、学歴もそうだし、上手く誤魔化して、その募集官という人の前で芝居をして何とか入れてもらったんですが、そこに行って、現地で行った翌年に戦争が激しくなって、軍需工場だから、そこの全従業員を、日本の人だろうが韓国人だろうが、そこはその時、韓国人が何千人もいました。
みんなが現員徴用(一般募集により配置され働いていた人の身分だけを徴用者に転換する制度)だといって、それで現地で働いている、その状態のまま徴用ということになってしまったんです。徴用でしょっぴかれたのではなく、従業員たちは、日本が定めた法によって、まあ、身分が一日にして徴用者に変わってしまったということです。記録上、それで徴用でしょっぴかれたみたいになっているんだよ〉
老人の証言によると、徴用が始まる前に学力や年齢などを偽ってまで労働者の募集に応募し、高い競争率を乗り越えて日本へ行き、仕事をしてきたのだという。
そして後に徴用令が施行されると既に日本で働いていた朝鮮人の身分も徴用に変わったため、自分も書類上の身分が徴用労働者に変わっただけだという。それが、現代の韓国では「連れていかれたこと」になってしまったと主張しているのだ。
別の例を見てみよう。朝鮮人徴用労働者の「通訳」として日本に渡った朝鮮人の証言を見ると、自分は日本語ができたので通訳として行ったから苦労はしなかったし、戦争が終わったときには残念だという思いがあったという。
〈住友炭鉱は、まだ待遇がよかった。三菱の山(炭鉱)は、きついと噂されていた。
「住友炭鉱で日曜日になると、同胞が故郷に送る手紙の代筆をして忙しかったよ。だいたい、わしは日本に来てから苦労してない。言葉を知っとるけん。言葉を知らん人は、みんな苦労しとった」(中略
住
友炭鉱で働きだして五年経ったころ、日本が戦争に負けた。
「戦争が早く終わったんで、本当は悔しかった。住友が大事にしてくれたから」
五百人の朝鮮人坑夫のほとんどが故郷へと帰っていったが、彼は日本に残った。
──李基淳(1919年生)〉(『在日一世』李朋彦 リトルモア 2005年)
この証言者は、学校の教師の月給が45円だった時代、通訳として日本へ行けば70円貰えたために日本行きを決心したという。彼は日本で裕福な老年を送っている人だが、もし彼が韓国内にいたら、果たして「戦争が早く終わって本当に悔しかった」というような証言ができただろうか。 (以下略
★SAPIO 2013/12 巨費を注ぎ込んで未開の国・朝鮮を近代化 「日本統治の真実」を隠す歴史捏造の愚 https://drive.google.com/open?id=1lFh4xFlhtB7OSW8JUtoFV9oy2RDaurpy
★SAPIO 2013/10 「お金」も「学校」もなく街は糞尿だらけ 日本併合前の朝鮮は”原始の国”だった https://drive.google.com/open?id=1bGA_hodQn6zuIB0SoVznZAaY2z2uZ58n
★SAPIO 2009/4/8 「朝日新聞《朝鮮版》の研究」創氏改名はどのように報道されたか https://drive.google.com/open?id=1LsxCkbLWnGlrsOhAn4vvPPOpzwnKQx4z
▽写真 韓国では「強制動員された徴用工」のイメージが定着している
高給に誘われ応募し、正当な賃金が支払われていた朝鮮人工員を「強制の徴用工」と捏造したのは、出自すら定かでない吉田清治(性奴隷狩りのデマを書いたやつ)をも利用した朝鮮人,朴慶植です。
おまけ 1929年代の日本の文明度
Early Sound Footage of Kyoto, Japan
日本は搾取したどころか、お花見その他の文化をも韓国にもたらしました。インフラの整備、病院、学校の建設、農業のノウハウ、植林等々。
日韓併合で、日本が韓国を文明開化させる前の韓国はこんなふう。
日本に仏教を伝えてやったと言いながら、荒れ果てた寺。
イザベラ・バード他が記した大小便垂れ流しの道路。
反日NHKが大河ドラマ「平清盛」に韓国の上記の絵柄をスライドさせて、日本の平安時代として描写。
朝鮮学校生徒たちの「差別するな」という主張は、案外韓国学校の存在もあってのことかもしれませんね。
2018-09-07 04:50:37 | 日韓問題
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