まだ、皇室批判にあたり確信も100%持てず、しかし言わざるを得ないほど気づいてしまった・・・
という時に、古文で文意を和らげる手法を思いつき、古文に詳しい読者さんに添削をお願いしつつ、
草した一文です。
宮中にはあまたの神官巫女ありて宮中に起き伏し、
皇室の明け暮れは神事を核に営まるること、絶えて民に知られず。
されど万世一系。この国最大の神官とも言ふべきを天皇として戴き、
希少なる、世界に唯一の花として儀典の席次で世界は
天皇陛下を頂点に据ゑ、訪米せらるれば大統領が白きタイの正装で
空港にお出迎へす。
いかに総理大臣が軽々に毎年変はらうと、日本国盤石の存在感は、
天皇陛下おはするがゆゑに。
これぞ日の本のご即位なり。
王家の戴冠式とは画然と異なるのは、そこに古来よりの神話が
連綿と今に息づきてありたればこそ。
天皇おん自らが、国の弥栄、民の暮らしの安穏を
祈る祭祀の王であらせらるるがゆゑに。
衣装の、浅沓(あさぐつ)の、所作の、式次第の、時代に洗いぬかれ洗練の極みの
即位のありやうを見よ。絵巻物をうちほどき、始点を眺むればそこに
神武天皇が佇み、頭上には天照大御神が燦然と輝やく。
世界のいかなる国も、一系で神話の主に連なる頂点びとは持たぬ。
その眩しさゆゑに羨望ゆゑに、蛮族どもは「王」呼ばはりして
貶む。などて、すめらぎは人となりたまひし。
と、嘆くにあたはず。日の本の民の心の奥底には、天皇を神と仰ぐ
生来の霊性、珠のごとく息づいてあり。
さればこそ、神の玉座を汚すであらう皇太子をもはや日嗣の皇子と
認むること能はず。人格の、私的生活の保障権利のと、呼ばはるばかりにて
神事公務を懈怠(けたい)し、我が妻我が娘にかまけ、
富と権利を恣(ほしいまま)に、民と国とを忘れ果てたるさま、いと浅ましくうたてし。
世界の皇室に注がるる眼差しも、夫妻のあられもなきお姿、お振る舞ひに、
厳しきものに変はり果て揶揄せられ、時に罵らるるに至れり。
そも、十二単におすべらかしにて、即位の儀をつつがなく行はるる妃でありやなしや。
儀式は日本の神と、先帝たちとの大いなる約束、契の場でもあるがゆゑに、
儀式にご体調の波とやらは通用せぬ。
神事抜きに即位せらるとあれば、前代未聞。神の許しなきまま
皇后陛下の位置に佇むは厳に許されざる所業。
先帝たちも決してお許しにならぬ。
「などて皇室を批判するや、全てを受け入れ仰ぐが、
日の本の民の勤め」と説く者あり。いと正しけれど、然しながら今や
菊の防壁の外より妃を求むる時代なれば、邪教、蛮族の娘とて
入内する仕儀となり、民も総てをよしとは言へぬ。
獣が妃を名乗り入内してさえ、言ふてはならぬ、口をつぐめと
言ふなるか。
女帝を擁立するとあらば、その夫に出自を洗ひし朝鮮支那の
男があてがはれ、皇室を占拠する可能性とてあり、
宮中にてそれが阻止出来ずば、防人たるは我々ではないか。
みだりに下卑たる者の出入りを禁ずるがゆゑに、禁裡とは言ふ。
臣民が帝をご批判申すなどゆめ、あるべからず。
帝は御姿勢正しく国を憂ひ、民を思ひ、民はひたすら仰ぎ見るのみ。
しかるに今、民をして批判の矢を射さするは、
どなたのゆゑであらせらるるや。民の咎なるや。
そも皇居には賢所、皇霊殿、神殿と吹上御苑の東南に宮中三殿あり、
通年日々、掌典と言はるる神職、内掌典なる巫女が
清め護りてあり。
日輪上り鶏鳴響きてややしばし、賢所と皇霊殿では内掌典が、神殿では
掌典が、清酒赤飯など供へ、宮中の一日は始まる。
次に当直侍従による「毎朝御代拝」、たとひ宮中喪ありとも、一日も欠かさず。
天皇陛下御親修による四方拝、新嘗祭は宮中三殿近くの神嘉殿にて、
鎮魂祭は綾綺殿で行はれ、またここは天皇陛下が三十分かけて装束に
身をお改めになるところ。
三殿それぞれ独立してあるも、簀の子と呼ばるる厚き板の回廊で
つながりて、それぞれが木の階段を正面に有す。
賢所にお祀りせられたるは、皇祖神たる天照大御神なり。御霊代は神鏡にて、
遥か古代よりお祀りせらたり。結界内にあかあかと、久遠に燃え続けるは、
火鑽で熾した忌火にて、この神聖なるほむらの衞り手こそが、掌典、内掌典にて
遠き遠き昔より、今に燃え続け、皇居を日本を護る。皇居と神域と日本国は、
元来不可分なり。
しかるに、皇太子と妃殿下におかれては、就中(なかんずく)妃殿下は宮中の、
神域には絶えてお近づきにならぬ。不遜ながら、何やら邪教の不浄でも、
身におまとひではあらせらるるか。妃が神域をお避けなのか、
結界が妃を入れぬのか。忌み火燃ゆるところ、厳しく穢れを嫌ふ。
結婚の儀は春興殿にて行はれ、后妃が賢所より一歩、おみ足を踏み出された時、
神が認め、婚姻が成立すなるも、昨今の妃殿下の神との契への著しき違約を、
宮中におはする神々はいかに思し召さむ。
宮中三殿の意味すら学ばぬ下賤の者を、宮中に迎へし者の罪も、小さくやはある。
皇居に祀られし神に崇敬の念抱かざる穢れの者が、天皇皇后両陛下を、
大事にすることはなし。そも、天神地祇の存在とても心得ぬ、あたかも
外つ国の蛮族の振る舞いのごとく、いとうたてし。
この不浄の者を皇后として仰ぐは、宮中内神殿に火を放ち、打ち壊す如き、
不敬の業。このごろ民は不敬の意味を履き違え、枝葉のみを見て、
幹を忘れし論議横行のさま浅まし。不敬の根は、そもいずこより
張られたるや。妃の来る方向より、宮中に根付きたるに非ずや。
古来より連綿と編まれてこし祭祀の綱、さなきだに時代とともに
細く弱まりつつあるところ、皇太子皇太子妃の即位となれば、
ぷつりと切れかねぬ。
宮中においては「先ず神事」と、学問、歌道に秀でさせ給ひける順徳天皇が『禁秘御抄』に書きさせ給へる遺訓を、皇太子と皇太子妃両名が裏切りぬ。「凡禁中作法先神事、後他事」の精神を引き継がれてあるは秋篠宮殿下、文仁親王妃殿下、眞子内親王、佳子内親王、悠仁親王であること、疑ひなし。
皇居の南西、高き築地塀に囲まれし神さびた場所あり、風が松並木を渡れば
松籟が邪気を吹き払う如く響き渡る。一般参賀、昭和宮殿の裏の辺り。
入母屋銅葺きが宮中参殿で、ここは天皇家の祭祀に仕へる掌典職の者達が
御殿と呼びならはし、皇祖神天照大御神の、鎮まります賢所はここにあり。
順徳天皇の遺訓は受け継がれ今も、祭祀はむろんのこととて、御煤払い、十二月の障子と畳の総張替え、続いて天皇の吹上御所、東宮御所、各宮家の大掃除とうち続き、この時ばかりは順徳天皇のお言ひつけに皇太子皇太子妃も、無言であらせられ、さすが掃除の儀にまではお歯向かいもならぬ。
三殿の用材は明治大帝の命にて、柾目の総檜。節目一つ無き清浄なる白木が
今も香り高しと訪るる者は感嘆すれど、蛮国が日本のこの美意識を
理解すとも思へず、皇太子妃においてもまた。
天皇陛下も正座で一定時間は伏したままお顔すら上げられぬ、
厳格なる神事の意味を理解すとも解らむともせず、意味なき苦行としてのみ
受け止得ぬ器しかなきゆゑに、皇太子ともども、祭祀を拒否せんとて神域から
遠ざかり、末は儀式そのものの破壊を目論むは必至。
そも皇居の神域に鳥居無きことの由来を皇太子殿下はご存知なのか。
十二の門のうち、東門は皇太子殿下専らのための御門であり
秋篠宮殿下もくぐれぬ。しかし、肝心のご本人はその門すら
くぐることまれにして妃は神域を忌避とは、いかなる禍事を
招かるるかと、おそろし。
宮中に鳥居無きは、天皇家は神体と「同床共殿」というお考へにて、
明け暮れ神に接し、国と民の安穏を祈るのが本来の
天皇の務めと代々心得てきしものが、皇太子の代にて
絶え、絶ゆれば国に禍事を呼ぶ。
同床共殿ゆゑに、皇居そのものが神の結界。
穢れたる身には、起き伏しすら辛きはず。
まして極悪企業にまつはる怨の字が黒ぐろとある
霊的な筵旗が皇居に立つ有様では。
まさに阿蘭陀(オランダ)に立たれしその日、犯罪企業にからむ
裁判が開かれ、これをして因縁因果とは言はぬか。
本来なら祖父の悪業消滅を願い、身を慎み、世のため人のために
尽くす道を選ばれてこそ、救済の道へと至る。然るに妃の
有り様は我が身我が身と言ひ暮らし、我が身大事に
身を枯らす。人を生かして我が身も生きる、天地の道理も
わきまへぬ。
賢所の神体の鏡の由来は、日本書紀にいはく、天照大神が孫の瓊瓊杵尊が豊葦原の千五百秋の瑞穂国に降臨するとき、天忍穂耳尊にかく語れり。
「吾が児、この宝鏡を視まさんこと、まさに吾れを視るがごとくすべし。ともに床を同じくし、殿を共にしもって斎鏡となすべし」
奈良県田原本町は古代に鏡作部が住みなし、中心は鏡作神社なり。神体は二神二獣鏡で、社伝では、崇神天皇が鏡を新鋳したとき、試しに鋳たる鏡なりけり。大神の授けたる鏡は、十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が日本各地を歩かれ、神鏡を奉安するにふさわしき清浄なる地を伊勢の五十鈴川上流と定め、伊勢神宮が成りけり。
天叢雲剣は十二代景行天皇のとき、大和武尊が剣をもって東征、野火に囲まれたるが、神剣の威力で脱出し、それ以降草薙剣となり、剣は名古屋・熱田神宮に納められけり。
簡略に述べたる如く、天皇家は神々、日本の各神社と深きゆかりを持つ。その神社を忌避する罰当たりの妃など、日の本より退出せよ。順徳天皇の『禁秘御抄』には「あからさまにも神宮ならびに内侍所の方をもって御跡となし給わず」と書かれ、天皇は伊勢神宮と賢所の方角には背を向けるなというお達し。皇太子妃におかれては、お背中どころか肉厚のおみ足すら、お向けではなからうかと思はるる不敬の限り、いと見苦し。
当直の時、巫女たちは、火事や地震に備へ、昼のままの衣装で夜具に横たはる。駆けつくるとき神のおん前に見苦しきさま見せぬようにとその心遣ひは、夏は神も暑かろうと御簾を開け放ちての「お風入れ」。
夕立来たれば、御格子を閉ぢて様子をうかがひ、時に雨上がりの空に大いなる虹が立ち、古より変はらぬ悠然たる時の流れる日本の神の地に嫁ぎながら、シャネルなどといふ外つ国の衣装は好みながら、古代装束に威儀を正すことを放擲したる、不摂生と過飲過食にぶくぶくと肉厚き妃を、帝はいつまで許し給ふや。伝へらるるところによれば過ぐる四年前は心因性の御出血との由、不出来の妃と、その妃に振り回さるる皇太子に悩まれてのことに非ずや。
下品(げぼん)の家の出にて、品悪しく、しどけなき妃の傍ら、神域では神官巫女たちが粛々と神事に明け暮れ、お仕へしてゐることを妃は知らずや、己の放恣を恥とも思はぬか。巫女は御殿に上がるとき、潔斎所にて身を清めてのご奉仕。
動物性のものは口にせず、穢れをかくも厭う。星あるレストランを渡り歩き、肉を食らふ妃はそれが悪しとは申さぬものの、巫女たちの日々の厳格な精進潔斎ぶりに比して、腰回りにでくでくと肉つけまわす、おのが自堕落を恥と思ふ神経すらお持ちでないか。
宮中祭祀を厭ふには、おすべらかし十二単の面倒もつきまとふゆゑでもあらふが、
内掌典は櫛の固形の油をつぶし、なすりこみ、鬢付け油でのあの髪型を一年中と思し召せ。左手に鏡、右手に櫛。両手を上げての髪結ひは、慣れぬうちは何時間もかかる重労働にて、貧血で倒れたる人もをり、終わると腕が細くなるのが分かるほどと仄聞する。さて仕上げた髪はおすべらかしに近く、夜は箱枕、慣るるまで、顎や耳が痛むと聞く。洗髪は、洗剤、砂などをかけて二時間ほど。
三殿の一帯は清浄にて、一歩外に出て、再び入るときは潔斎。歯が痛み、宮内庁歯科に行き、しかし帰れば潔斎として、鬢付け油で結ひたる頭を洗ひ再び結髪せねばならぬ。
お仕へ人がかくも、日々精進潔斎、神事に精進しているといふに、妃の
年にわずか数度の祭祀の懈怠は、横着のそしり免れ難し。
周囲も民も、辛きを耐へ義務は時に歯を食ひしばり行ひ、皆、
生きてあり。妃一人この世の業苦を背負ったごとく、悲劇の身振りで、
疲れたり苦しと倒れ伏し最初は民も同情すれど、お会釈といふ
須臾(しゅゆ)の間に済む公務すら辛しと避け、しかるに和服まとへば、
外股に、鞄はぶらぶらと皇太子の先に立ち、お遊びに出かくれば、民の交通は遮断して、護衛の者大仰につけ、食らふ、雪山を滑る、
花火見物に買ひ物に、吾子を伴なひし氷滑りは民の子らを締め出し、
我が世の謳歌とはこはいかに。
内掌典の世界も口伝にて、だんだんに人不足。掟は厳しさが薄れつつあり、
それは時の流れとて抗えぬ部分もあらうが、そも神の庭は
厳しき則貫きてこそ、国護る効験もあらめ。基なる厳かなお仕へは
残したしと思へども、あの歯並び悪き髪常に振り乱す妃と共に、岳父の下卑たる思想にかぶれたる皇太子。残すどころか叩き壊す。
神事廃れれば国滅ぶ。
そも、皇位継承の証として天皇即位の際に、譲り渡さるる三種の神器は、八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉なり。
問ふ、皇太子殿下におかれては、三種の神器を
拝受なさるお覚悟ありやなしや、と。(注; 伊勢神宮への天皇皇后両陛下の「剣璽(けんじ)ご 動座」に同行せざるは、その覚悟無しと見たり)
御身穢れ、覚悟なきまま拝受する天叢雲剣は、志低き御身に刃を向けやふぞ。
神の采配はいと厳しくあること御覚悟の上、皇位継承の証を秋篠宮文仁親王にお譲りにならるるか、はたご自身で受け取らるるか、命を懸けたお覚悟でお決めになられたし。安易に継ぐことなかれ。
瑞穂の国の命運はげに、帝の志の高低に左右さるるものぞ、と厳しく
知られたし。緩んだ表情を引き締められよ。
憲法一度変はらば「元首」となる。その格に相応しや。
昭和大帝と今上陛下のくぐり抜けられたる魔界の裁き、東京裁判から
しばらく続きし、耐え難き氷の御代の延長に、現在の安穏はあり。
妃と二人安逸の果実を貪るのみで、樹を植うることをなさらぬ我が身を
見返られよ。人に返さず天に返さずの貪りは、餓鬼の所業なり。
秋篠宮殿下におかれては、いかなる処遇を受けようと、ただ黙々と
皇室のため日本のため、身を捧ぐお覚悟。兄君を支え、
至らぬ穴を埋めてお歩きの決意とお見受けす。そこに甘え、
しわ寄せで今以上の激務で夫妻を、御子たちを疲弊させてはならぬ。
まして秋篠宮家のどなたでも倒れさせては天の摂理に背くこと、
厳しくお覚悟せられたし。
余りにも浅ましく情けなき皇太子殿下の今のお姿、
我が身我が妻、我が娘と言ひ暮らし、神事の禊無きままに
夫妻で美食と怠惰に肥え太り緩み、民、国のこと口にだにせず。
あくまで帝になると言はるるなら、せめて
悠仁さまに連なる皇統を大切にせられたし。少なき歳費と、乏しき護衛にて
励まれるご一家に御心を向けらるるよう願い奉る。
恐惶謹言、名も無き民草、伏して畏みまをす。
備考
文中に記した火鑚(ひきり)
宮中で使用するすべての火は「忌火」と呼ばれる清浄な火を使用。
「忌火」は木と木を擦りあわせる「舞錐式発火法(まいきりしきはっかほう)」により、
火をきりだす「御火鑚具(みひきりぐ)」を使用。
これは、静岡県の登呂遺跡から発掘されたものと同じ形式で、
ヒノキの板にヤマビワ製の心棒を摩擦して発火させる。
忌火は、権祢宜(ごんねぎ)の職の者が、前夜から
参籠斎戒(さんろうさいかい)してきりだします。
こういう細部を取り出しても、皇室や神社の伝統の厚みと凄さが
お分かりでしょう。そんじょそこらの国や人が、追いつく
レベルではないのです。
宮中に入る方、いらっしゃる方は、十重二十重(とえはたえ)の伝統の
厚みと凄さ、神域の厳しさを受けて立たれ、特有の美意識を解する
格の高き方でないと、務まりません。
まして、こんな時間と労力のいることを、いもしない
神のためにやるなんて、だから祭祀は必要ない、
という感性の者は、いてはならぬところです。
皇太子、雅子妃、あなた方のことだ。
古来、民を「おほみたから」、宝として大切になさったのは天皇であらせられた。
あなた方に民大事の心は無い。
神武天皇の皇都(みやこ)を大和橿原(やまとのかしはら)に
お定め遊ばす時
且(ま)た當(まさ)に山林を披拂(ひらきはら)ひ宮室(おほみや)を
経営(をさめつく)り恭(つつし)みて宝位(たかみくら)に臨み 以て
元元(おほむたから)を鎮むべし云々
と詔(のたま)はせ給ふた
おほむたからハすなはち「大御寶(おほみたから)」で
國民を指す。