ROCKSTARS

all about my favorite Rocks.

ブラインド・フェイス

2023-10-20 12:46:05 | band

ブラインド・フェイス (Blind Faith)


【活動期間】
   1969年

【メンバー】
   スティーヴ・ウインウッド/Steve Winwood(vocals, organ, piano, guitar)
   エリック・クラプトン/Eric Clapton(guitar, vocal)
   リック・グレッチ/Ric Grech(bass, violin)
   ジンジャー・ベイカー/Ginger Baker(drums)

 
 1968年に解散したクリームのエリック・クラプトンとジンジャー・ベイカートラフィックのスティーヴ・ウインウッドが結成したスーパー・グループ。
 ブラインド・フェイスの結成は、クロスビー、スティルス & ナッシュの結成と並ぶ、「1969年の最もセンセーショナルな出来事」とも言われた。


 「スーパー・グループのはしり」とも言われるクリームは、ジンジャー・ベイカーとジャック・ブルースの不和などが原因で、1968年11月に解散する。クラプトンは、レコードのセールスを伸ばすためだけのブルースを演奏することに疲れており、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』に影響されて、新たな音楽を作りたいという願望を持つようになっていた。
 ちょうどその頃、スティーヴ・ウインウッドもトラフィックからの脱退を考えていた。
 もともとクラプトンとウィンウッドは「パワーハウス」(エレクトラが企画したオムニバス・アルバム『What's Shakin'』のための臨時的なユニットで、ベーシストはジャック・ブルースであった)でともに活動していた仲であり、このふたりは1969年に入ると、クラプトンの所有するコテージの地下室でリハーサルを始める。
 やがてジンジャー・ベイカーが彼らのリハーサル・コテージを訪れる。


 当然この3人でグループを結成するという案が出たが、クラプトンはクリーム解散時にジャック・ブルースに対して「われわれが再び一緒に演奏する機会が来るなら、その時はベイカーも含めて3人全員で演奏する」という約束をしていること、仮にブルースが新バンドに加わるとしてもクリームの解散からまだ数ヵ月しか経っていないことを理由に、ベイカーがバンドに入るということに同意しなかった。
 ウィンウッドは、ベイカーほどのドラマーを探すのは難しいとクラプトンを説得し、最終的にベイカーをバンドに加えた。
 このプロジェクトにはベーシストが不在だったが、1969年5月に、当時「ファミリー」に在籍していたリック・グレッチが迎えられた。
 その後、このバンドは「ブラインド・フェイス」と名付けられる。


 究極のスーパー・グループとも言われたブラインド・フェイス結成のニュースは、センセーショナルな話題を巻き起こした。
 1969年6月7日、ブラインド・フェイスはロンドンのハイド・パークにおけるフリー・コンサートで、推定10万人もの聴衆を前に衝撃的なデビューを果たした。この動員数は、当時の史上最高記録であった。
 コンサートのセット・リストはファースト・アルバムに収録されている6曲のほか、ローリング・ストーンズの「アンダー・マイ・サム」や、トラフィックの「ミーンズ・トゥ・アン・エンド」などが含まれていた。
 このコンサートは、ファンには好評をもって迎えられたが、クラプトンはバンドの演奏が一定の水準に達していないと感じていたため、大観衆の歓声は自分たちのネームバリューによるものに過ぎないとして不満だったという。
 バンドはまだ発展途上、言い換えると準備不足の状態だった。バンドには充分なリハーサルが必要だったのだが、マネジメント側はバンドを維持するためにツアーを行うことを主張した。
 彼らはまだアルバムのレコーディング中だったが、ほどなくスカンジナビアで短いツアーを行い、その後アメリカ・ツアーに出発した。その初日である7月12日には、マディソン・スクエア・ガーデンで約2万人の聴衆を前に演奏している。
 ブラインド・フェイスのオリジナル曲はまだ少なかったため、1時間演奏するのがやっとという状態だった。これを解消するためにバンドはクリームとトラフィックの曲を演奏し、聴衆はこれを喜んだ。しかし、クラプトンは曲数の不足を補うために長いアドリブ・ソロをとったり、かつての素材を演奏することには失望していた。
 またクラプトンはツアー中に開催された「ウッドストック・フェスティヴァル」への出演を望んだが、他のメンバーからの反対でこれを断念せざるを得なかった。


     


 アメリカ・ツアーでは、「フリー」「テイスト」「デラニー&ボニー」がブラインド・フェイスのオープニング・アクトを務めたが、クラプトンはデラニー&ボニーのソウルフルなブルースに興味を持つようになった。
 クラプトンはブラインド・フェイスよりもデラニー&ボニーとともに過ごす方を好み、時にはデラニー&ボニーのオープニング・セットにも参加するようになった。このためクラプトンはさらに孤立を深め、自然バンドのイニシアティブはウィンウッドに移っていったのである。
 ブラインド・フェイスよりもデラニー&ボニーに深く惹かれたクラプトンは、ブラインド・フェイスの代わりに彼らがヘッドライナーになることを望むようにさえなった。


 ツアー中の1969年7月、ブラインド・フェイスのファースト・アルバム『スーパー・ジャイアンツ』がリリースされた。
 売り上げ枚数は発売後1ヵ月で50万枚を超え、最終的にはミリオン・セラーを記録。アルバム・チャートは、同年9月20日には英米ともにチャート1位となる大ヒットとなった。
 ただし、音楽的にはソウルフルかつポップ寄りなスティーヴ・ウィンウッドの個性が中心となっており、クラプトンもよりアーシーな音楽に接近していたため、ブルースに根差した音作りやインプロヴィゼイションの展開など、クリームの音楽性、あるいはそれに近いものを期待していたファンの中にはこのレコードを聴いて戸惑う者も多かった。
 このアルバムのジャケット写真は、クラプトンの友人で、ジャニス・ジョプリンやグレイトフル・デッドなどの写真を手がけたボブ・サイデマンが撮影したものだったが、使われた写真は11歳の少女のヌード写真だったため、アメリカでは猥褻であるとみなされて物議を醸した。撮影にあたっては少女の両親の同意も得ていたが、発売禁止の措置を取った国もいくつかあったため、少女の写真はバンドの写真に差し替えられた。
 ちなみにこのアルバムに代わってチャート1位にランクされるや11週にわたって首位の座を維持したのは、ビートルズの『アビイ・ロード』である。


     


 アメリカ・ツアーは8月24日のハワイを最後に終了したが、この期間中に生じたメンバー間の価値観のずれは大きくなっていた。マネージメント側は新たなツアーが予定されていると発表したが、クラプトンとウィンウッドは活動を終わらせることにした。
 1969年10月、ブラインド・フェイスはバンドの解散を発表する。その活動はアルバムを1枚を残すのみ、期間は実質わずか半年ほどであった。
 解散の知らせは、グレッチにはすぐに知らされたが、ベイカーはジャマイカでの短い休暇を終えてイギリスに帰国するまではこのニュースを知らなかったので、帰国後にウィンウッドからバンドの解散を伝えられて動揺したという。

 
 解散後、クラプトンは「プラスティック・オノ・バンド」を経て「デラニー&ボニー」と行動を共にすることになる。これはいずれもサイド・マンとして参加したもので、華やかなスポット・ライトを浴びることに嫌気がさしたクラプトンが、単なるバンドの一員として純粋にギターを弾きたかったことの現れと言えよう。
 その後のクラプトンは、キャリアを通じてブラインド・フェイスのレパートリーである「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」「マイ・ウェイ・ホーム」を折にふれては演奏している。
 ベイカーは、ウィンウッド、グレッチにデニー・レイン、グラハム・ボンドらを加えて「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース」を結成した。
 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース脱退後のウィンウッドはトラフィックを再結成し、グレッチはそのトラフィックに参加している。
 なお1970年、クラプトンはトラフィックのライヴに姿を見せ、ウィンウッドと「ディア・ミスター・ファンタジー」でツイン・リード・ギターを披露している。


     


 1983年9月、クラプトンとウィンウッドは、多発性硬化症 (ARMS) の研究を支援するためのチャリティ・コンサート「ARMSコンサート」で再びステージをともにした。ちなみにこのコンサートは、ARMSに罹患していたロニー・レーン(元フェイセズ)が提唱したものであった。


 2005年、1969年のハイド・パークにおけるブラインド・フェイスのライヴ全体を収録したDVD「London Hyde Park 1969」がリリースされた。

 2007年7月、クラプトンとウィンウッドは、イリノイ州で開催された「第2回クロスロード・ギター・フェスティヴァル」で再会した。クラプトンとウィンウッドのデュオはセットの一部としてステージに上がり、ブラインド・フェイスの曲を3曲演奏した。
 このパフォーマンスは、2008年2月にマディソン・スクエア・ガーデンでのクラプトンとウィンウッドの再会コンサートの実現に繋がる。この時の彼らは、ブラインド・フェイス、クラプトンのソロ、トラフィック、ジミ・ヘンドリックス、デレク&ザ・ドミノスなどの曲からセット・リストを作り、演奏した。その模様は2009年に2枚組CD+DVDの「ライヴ・フロム・マディソン・スクエア」としてリリースされている。
 彼らはさらに2009年6月にアメリカ・ツアーを、翌2010年にはヨーロッパ・ツアーを行ったほか、2011年5月26 日から6月1日までロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、同年11月から12月にかけて日本でコンサートを行っている。


【ディスコグラフィ】
 <アルバム>
   1969年 スーパー・ジャイアンツ/Blind Faith UK1位、US1位、日本3位、カナダ1位、フランス4位、ドイツ5位
 <シングル>
   1969年 ウェル・オール・ライト/Well All Right
   1969年 チェンジ・オブ・アドレス/Change of Address(*プロモーション・シングル)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『スーパー・ジャイアンツ』(ブラインド・フェイス)

2023-10-20 12:42:45 | albums

スーパー・ジャイアンツ Blind Faith


【歌・演奏】

  ブラインド・フェイス/Blind Faith

【リリース】
  アメリカ 1969年8月9日
  イギリス 1969年8月22日

【録音】
  1969年2月20日~6月28日(ロンドン、オリンピック・スタジオ、ロンドン、モーガン・スタジオ)

【プロデューサー】
  ジミー・ミラー/Jimmy Miller

【エンジニア】
  ジョージ・チキアンツ/George Chkiantz
  キース・ハーウッド/Keith Harwood
  アンディ・ジョンズ/Andy Johns
  アラン・オダフィー/Alan O'Duffy

【レーベル】
  ポリドール・レコード(イギリス)
  アトコ・レコード(アメリカ)

【録音メンバー】
 ☆ブラインド・フェイス
   スティーヴ・ウインウッド/Steve Winwood(lead-vocals①②④⑤⑥, piano, organ, guitar③④, bass③④, autoharp⑤)
   エリック・クラプトン/Eric Clapton(guitars, lead-vocals③, vocals⑥)
   リック・グレッチRic Grech(bass, violin⑤, vocals⑥)
   ジンジャー・ベイカー/Ginger Baker(drums, percussions, vocal⑥)


【収録曲】(☆=シングル ③)
 side:A
  ① 泣きたい気持ち 8:48
    Had to Cry Today(Steve Winwood)
  ② マイ・ウェイ・ホーム 3:16
    Can't Find My Way Home(Steve Winwood)
 ☆③ オール・ライト 4:27
    Well All Right(Buddy Holly, Jerry Allison, Joe B. Mauldin)
    1969年週間シングル・チャート オランダ20位
  ④ プレゼンス・オブ・ザ・ロード 4:50
    Presence of the Lord(Eric Clapton)
 side:B
  ⑤ 歓喜の海 5:22
    Sea of Joy(Steve Winwood)
  ⑥ 君の好きなように 15:18
    Do What You Like(Ginger Baker)


【チャート】
 1969年週間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード) 1位、イギリス(OCC) 1位、日本(オリコン) 3位
                カナダ1位、オランダ1位、デンマーク1位、ノルウェイ1位、オーストラリア2位、フランス4位、西ドイツ5位、フィンランド5位
 1992年週間アルバム・チャート スペイン9位
 2015年週間アルバム・チャート クロアチア25位
 1969年年間アルバム・チャート アメリカ(ビルボード) 78位、イギリス(OCC) 35位、ノルウェイ20位、西ドイツ53位


【メ  モ】
 鳴り物入りで発表されたこのアルバムは、発売後1ヵ月で50万枚を売り上げ、最終的にはミリオン・セラーとなった。
 アルバム・チャートでは全米・全英とも1位となったが、アメリカではブラック・アルバム・チャートでも40位を記録した。これはイギリスのバンドとしては異例の偉業である。
 このアルバムの大ヒットは、クリームのアルバムの売り上げにも繋がった。


 本作のアルバム・ジャケットの写真を撮影したのは、エリック・クラプトンの友人のボブ・サイデマンである。彼はジャニス・ジョプリンやグレイトフル・デッドの写真を手がけたことで知られている。
 ジャケットには、銀色の宇宙船を持った11歳の少女のヌード写真が使われていたため、猥褻なものであると見なされて物議を醸し、いくつかの国では発売禁止の措置が取られた。しかし実際は少女の両親の同意を得たうえで撮影されている。
 ジャケットにはバンド名もアルバム・タイトルも表示がなく、アルバム・ジャケットとしては当時あまり例を見ないものであった。これはクラプトンの発案だということである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする