スウィート Sweet
【活動期間】
1968~1981
【メンバー】
ブライアン・コノリー/Brian Connolly(vocal 在籍1968~1978)
アンディ・スコット/Andy Scott(guitar, keyboard, vocal 在籍1969~1981)
スティーヴ・プリースト/Steve Priest(bass, harmonica, vocal 在籍1968~1981)
ミック・タッカー/Mick Tucker(drums, vocal 在籍1968~1981)
フランク・トーピー/Frank Torpey(guitar 在籍1968~1969)
スウィートはイギリスのロック・バンドである。
もともとはティーンエイジャー向けのバンドだったが、1970年代からハード・ロック・サウンドにシフトした。
現在まで、世界中で3500万枚以上のレコード・セールスを記録している。
1965年、ミック・タッカーは、ウエスト・ロンドンで活動していた7人組のソウル・バンド「ウェインライツ・ジェントルメン」(Wainwright's Gentlemen)に、フィル・ケントンの後任ドラマーとして加入。この当時のウェインライツ・ジェントルメンのヴォーカリストは、のちディープ・パープルのメンバーとなるイアン・ギランであった。ギランは1965年5月まで在籍した。
1966年になると、ブライアン・コノリー(vocal)がバンドに加入する。
コノリーとタッカーは1968年1月までウェインライツ・ジェントルメンに在籍していたが、バンド・メイトだったフランク・トーピー(Frank Torpey guitar)とともにバンドを脱退し、「スウィートショップ」(Sweetshop)を結成。そしてすぐにスティーヴ・プリースト(bass 元ジ・アーミー)をメンバーに加えた。
1968年3月、スウィートショップはデビューを果たす。
数ヵ月後にはバンド名を「ザ・スウィート」と改め、同年7月にはフォンタナ・レーベルからフィル・ウエインマンのプロデュースでデビュー・シングル『スロー・モーション』をリリースした。
しかし全く話題にならず、1969年にはトーピーが脱退し、代わりにミック・スチュワートが加入。
その後パーロフォン・レーベルに移籍して3枚のシングル・レコード『Lollipop Man』(1969年9月)、『All You'll Ever Get from Me』(1970年1月)、『Get on the Line』(1970年6月)をリリースしたが、いずれもチャートに登場することはなかった。
1969年、ギタリストがミック・スチュワート(のちJohnny Kidd & The Piratesに加入)からオーディションによってアンディ・スコット(元エラスティック・バンド)に代わったが、これがバンドの転機になる。
まずは、スージー・クアトロへ数々のヒット曲を提供したことで有名なマイク・チャップマン & ニッキー・チンのコンポーザー・チームがマネージメント、作詞作曲を担当することになる。マイクとニッキーはRCAと契約を交わし、プロデューサーに改めてフィル・ウエインマンを起用。この態勢で翌71年にリリースした『ファニー・ファニー』は、全英13位、オランダとスウェーデンでは1位を記録、スウィートにとっての初ヒットとなった。ようやくブレイクの兆しが見えるようになったわけである。
この後、『ヘル・レイザー』『ボールルーム・ブリッツ』『ティーンエイジ・ラムペイジ』など全英トップ10ヒットを連発。1973年にリリースした『ブロック・バスター』はバンド初の全英1位となっている。ヨーロッパ諸国でも人気は上昇、ドイツ、オーストリア、オランダ、ノルウェーなどで好調なセールスを記録する。またアメリカでは1972年にリリースした『リトル・ウィリー』が3位の大ヒットを記録してミリオン・セラーとなったほか、1973年の『ボールルーム・ブリッツ』が5位を記録しており、スウィートはティーンエイジャー向けのバブルガム・サウンドと、グラム・ロックの魅力を併せ持ったバンドとして、一躍人気を得た。
1973年、バンド名を「ザ・スウィート」から「スウィート」に変更。
1974年に発表したセカンド・アルバム『スウィート・ファニー・アダムス』は、多忙のためチン&チャップマンが制作にあまり関わることができなかったため、バンド自らがほとんどの曲を制作している。このアルバムは全英チャート27位(ドイツ2位、スウェーデン4位)のヒットとなったが、これは彼らのオリジナル・アルバムとしては唯一の全英トップ40アルバムである。
この年にはアメリカ編集アルバム『荒廃の街角』(Desolation Boulevard)も発表したが、これは全米アルバムチャートで25位を記録、スウィート唯一のゴールド・アルバムを獲得した。
同年6月には、チャールトン・フットボール場でピート・タウンゼント(ザ・フー)のサポートを務めている。
しかしスウィートの成功の陰で、バンドとチャップマン & チンとの関係は緊張度が高まっていた。
スウィートは、バブルガム・サウンドのイメージとティーンエイジャー向けのアイドル・バンド的な評価に満足していなかったうえに、チャップマン & チンによるコントロールに対して徐々に不満を募らせるようになっていたからである。
スウィートは、自分たちの手による音楽制作をしようとし始める。音楽的には、よりハードなサウンドにシフトしつつ、1975年に発表したシングルが、メンバー4人で共作した『フォックス・オン・ザ・ラン』であった。これが全英2位、全米5位、ドイツとオーストリアでは1位となる大ヒットを記録、『リトル・ウィリー』以来のミリオン・セラーとなった。
続いてリリースしたシングル『アクション』も4人の共作で、シングル・チャートは全英15位、全米20位まで上昇した。この曲はのちに「デフ・レパード」もカヴァーした、スピード感あふれるスリリングなハード・ロック・ナンバーである。
この成功により自信をつけた彼らは、チン&チャップマンと決別し、翌76年には初めて全曲4人の共作によるオリジナルで構成したアルバム『甘い誘惑』(全米27位)を発表した。
ルックスもよく、メロディーを重視したポップなハード・ロック・バンドとして認められたスウィートは、1970年代半ばが全盛期であり、ピート・タウンゼントからも絶賛されていた。とくに日本では一時クイーンのライバルと見られていたほどだった。
順調に見えたスウィートの勢いに陰りが見えたのは1977年である。
アルバム『Off the Record』は、以前から人気の高かったドイツではチャート11位を記録したが、アメリカでは前作『甘い誘惑』の27位から151位へ急落。
シングル・レコードも、ヨーロッパ各国ではスマッシュ・ヒットしていたが、本国イギリスやアメリカでは低迷が続く。
この年、RCAからポリドールに移籍したスウィートは、サウンドをハード・ロックからメロディックなポップス寄りにシフトする。こうして1978年1月に移籍後の初アルバム『Level Headed』を発表。ここからシングル・カットした『愛が命』が、イギリス9位、アメリカ8位と久々にヒット、持ち直したかに見えた。しかし、これが最後の全英チャートトップ100シングルとなったのである。
1978年11月には、健康上の理由もあって、フロントマンのブライアン・コノリーが脱退(発表されたのは1979年2月)、ソロ活動を開始する。
残った3人はスウィートとしての活動を継続。ベーシストのプリーストがリード・ヴォーカルを兼ね、ゲストとしてキーボード奏者のゲイリー・モバーリー(Gary Moberley)を加えて、シングル『コール・ミー』をリリース。
1979年にジャーニーやチープ・トリックと行ったアメリカ・ツアーにはギタリストのRay McRinerが参加するなど再浮上に向けて模索していた矢先の同年12月26日、ミック・タッカーのポーリーン夫人が自宅浴室で死亡。この悲劇が理由となって、スウィートは1980年の全てのツアーをキャンセルした。が、再び浮上することはなく、1981年に解散した。
1980年から81年にかけて、スウィートはアルバム『Identity Crisis』をレコーディングしたものの、西ドイツとメキシコで発売されただけだった。
その後スウィートはイギリスでの短いツアーののち、1981年3月20日にグラスゴー大学で最後のライヴを行い、同年ついに解散したのである。
1984年、ブライアン・コノリーが全く新しいメンバーでスウィートを再結成、1996年12月まで活動した。
1985年、スウィートの代表曲をメドレーにしたダンス・シングル『イッツ・ザ・スウィート・ミックス』がリリースされ、全英45位にランクされた。これをきっかけにアンディ・スコット(guitar)とミック・タッカー(drums)は、元アイアン・メイデンのポール・マリオ・デイ(vocal)、元グラン・プリのフィル・ランゾン(keyboard)、マル・マクナルティ(bass)を加えてスウィートを再結成した。
2008年1月には、スティーヴ・プリースト(bass)がロサンゼルスを拠点に「スティーヴ・プリースツ・スウィート」(Steve Priest's Sweet)を結成。
【ディスコグラフィ】
<アルバム>
1971年 Funny Funny, How Sweet Co-Co Can Be(フィンランド1位)
1972年 The Sweet's Biggest Hits(フィンランド3位)*コンピレーション・アルバム
1973年 ブロックバスター/The Sweet(アメリカ191位)*コンピレーション・アルバム
1974年 スイート・ファニー・アダムス/Sweet Fanny Adams(イギリス27位 ドイツ2位 スウェーデン4位 オーストリア6位 フィンランド9位)
1975年 荒廃の街角(旧邦題:危険なブールヴァード)/Desolation Boulevard(アメリカ25位 スウェーデン2位 カナダ5位 フィンランド9位 ドイツ9位)
1975年 ライヴ・アンド・ベスト/Strung Up(スウェーデン4位 オーストリア10位 オーストラリア10位)
1976年 甘い誘惑/Give Us A Wink(アメリカ27位 スウェーデン3位 ドイツ9位)
1977年 明日なき青春/Off The Record(アメリカ151位 オーストリア5位)
1977年 The Golden Greats
1978年 甘い罠/Level Headed(アメリカ52位)
1979年 標的/Cut Above The Rest(アメリカ151位)
1980年 Water Edge
1982年 Identity Crisis
<シングル>
1968年 スロー・モーション/Slow Motion
1969年 The Lollipop Man
1970年 All You'll Ever Get from Me
1970年 Get on the Line
1971年 ファニー・ファニー/Funny Funny(イギリス13位 オランダ1位 スウェーデン1位 ノルウェイ2位 ドイツ5位 アイルランド7位)
1971年 コ・コ/Co-Co(イギリス2位 アメリカ99位 ドイツ1位 ノルウェイ2位 スウェーデン2位 オランダ,3位 アイルランド3位)
1971年 アレキサンダー・グラハム・ベル/Alexander Graham Bell(イギリス33位)
1972年 ポパ・ジョー/Poppa Joe(イギリス11位 オランダ1位 ノルウェイ2位 スウェーデン2位 ドイツ3位)
1972年 リトル・ウィリー/Little Willy(イギリス4位 アメリカ3位 カナダ1位 ドイツ1位 オランダ6位 ノルウェイ7位 アイルランド9位)
1972年 ウィグワム・バム/Wig-Wam Bam(イギリス4位 ドイツ1位 アイルランド4位 オーストリア5位 オランダ6位 ノルウェイ6位)
1973年 ブロック・バスター/Block Buster!(イギリス1位 アメリカ73位 オーストリア1位 ドイツ1位 アイルランド1位 オランダ1位 ノルウェイ3位)
1973年 I'm on My Way
1973年 ヘル・レイザー/Hell Raiser(イギリス2位 ドイツ1位 アイルランド2位 オランダ4位 オーストリア4位 ノルウェイ5位)
1973年 It's Lonely Out There
1973年 ロックン・ロールに恋狂い/Ballroom Blitz(イギリス2位 アメリカ5位 カナダ1位 ドイツ1位 アイルランド1位 オーストラリア1位 オランダ2位 ノルウェイ2位 スウェーデン3位 オーストリア5位)
1974年 ティーンエイジ狂騒曲/Teenage Rampage(イギリス2位 ドイツ1位 アイルランド1位 ノルウェイ2位 スウェーデン7位 オーストラリア10位)
1974年 初恋の16才/The Six Teens(イギリス9位 ドイツ4位 ノルウェイ7位 オーストリア9位 オランダ10位)
1974年 Turn It Down(イギリス41位 ドイツ4位 ノルウェイ4位 スウェーデン10位)
1974年 ペパーミント・ツイスト/Peppermint Twist(オーストラリア1位)
1975年 フォックス・オン・ザ・ラン/Fox on the Run(イギリス2位 アメリカ5位 ドイツ1位 オーストラリア1位 カナダ2位 アイルランド2位 オランダ2位 ノルウェイ2位 オーストリア3位 スウェーデン6位)
1975年 アクション/Action(イギリス15位 アメリカ20位 ドイツ2位 ノルウェイ2位 スウェーデン2位 オーストリア3位 オーストラリア4位 カナダ5位 オランダ5位 アイルランド7位)
1976年 恋はだましあい/The Lies in Your Eyes(イギリス35位 ドイツ5位 スウェーデン6位 オランダ9位)
1976年 7月4日/4th of July
1976年 ロスト・エンジェル/Lost Angels(スウェーデン5位)
1977年 愛の炎/Fever of Love(スウェーデン7位 ドイツ9位)
1977年 Stairway to the Stars(ドイツ15位)
1977年 ファンクでいこう/Funk It Up(David's Song)(アメリカ88位)
1978年 愛が命/Love Is Like Oxygen(イギリス9位 アメリカ8位 カナダ8位 アイルランド8位 オーストラリア9位 ドイツ10位)
1978年 カリフォルニア・ナイツ/California Nights(アメリカ76位)
1979年 コール・ミー/Call Me(ドイツ29位)
1979年 マザー・アース/Mother Earth
1979年 ビッグ・アップル・ワルツ/Big Apple Waltz
1980年 Give the Lady Some Respect
1980年 Sixties Man
1982年 Falling in Love
1984年 It's It's…The Sweet Mix(イギリス45位)
1985年 Sweet 2th - The Wigwam Willy Mix(イギリス85位)
魔の饗宴 The Magician's Birthday
【歌・演奏】
ユーライア・ヒープ/Uriah Heep
【リリース】
1972年11月
1972年12月10日(日本)
【録音】
1972年9月~10月
ロンドン ランズダウン・スタジオ
【プロデューサー】
ジェリー・ブロン/Gerry Bron
【エンジニア】
ピーター・ギャレン/Peter Gallen
【レーベル】
ブロンズ・レコード/Bronze Record(イギリス)
マーキュリー・レコード/Mercury Record(アメリカ)
【収録曲】(シングル=⑥スウィート・ロレイン、②スパイダー・ウーマン)
side:A
① サンライズ 4:06
Sunrise(Ken Hensley)
② スパイダー・ウーマン 2:28
Spider Woman(David Byron, Mick Box, Gary Thain, Lee Kerslake)
*1973年週間シングル・チャート ドイツ14位
③ 盲目 3:38
Blind Eye(Ken Hensley)
④ 悪の雄叫び 4:50
Echoes in the Dark(Ken Hensley)
⑤ 雨に寄せる抒情 4:00
Rain(Ken Hensley)
side:B
⑥ スウィート・ロレイン 4:17
Sweet Lorraine(David Byron, Mick Box, Gary Thain)
*1973年週間シングル・チャート アメリカ91位
⑦ 語り草 4:10
Tales(Ken Hensley)
⑧ 魔の饗宴 10:28
The Magician's Birthday(Ken Hensley, Mick Box, Lee Kerslake)
【録音メンバー】
☆ユーライア・ヒープ
デヴィッド・バイロン/David Byron(lead-vocals)
ミック・ボックス/Mick Box (guitars)
ケン・ヘンズレー/Ken Hensley(keyboards, guitars, synthesizer)
ゲイリー・セイン/Gary Thain(bass②~⑨)
リー・カースレイク/Lee Kerslake(drums, percussions)
★ゲスト・ミュージシャン
ブライアン・コール/Brian Cole(pedal steel guitar⑦)
【チャート】
1972~1973年週間アルバム・チャート
イギリス28位 アメリカ31位 日本43位
フィンランド1位 ノルウェイ5位 デンマーク5位 オーストラリア6位 ドイツ7位 スウェーデン9位 カナダ22位
1973年年間アルバム・チャート
ドイツ20位
【メ モ】
ユーライア・ヒープ5作目のアルバム。
イギリスではアルバム・チャート・トップ100位内に3週ランク・インし、最高28位を記録。アメリカのビルボード200では最高31位を記録、2作目の全米トップ40アルバムとなった。1973年1月にはゴールド・ディスクに認定されている。日本ではオリコン・チャートに21週ランクイン、最高43位を記録した。
アルバム・ジャケットは、前作に続きロジャー・ディーンが担当。
悪魔と魔法使い Demons and Wizards
【歌・演奏】
ユーライア・ヒープ/Uriah Heep
【リリース】
1972年5月19日(イギリス)
1972年8月10日(日本)
【録音】
1972年3月~4月
ロンドン ランズダウン・スタジオ
【プロデューサー】
ジェリー・ブロン/Gerry Bron
【エンジニア】
ピーター・ギャレン/Peter Gallen
【レーベル】
ブロンズ・レコード/Bronze Record(イギリス)
マーキュリー・レコード/Mercury Record(アメリカ)
【収録曲】(シングル=①魔法使い、③安息の日々)
side:A
① 魔法使い 3:-00
The Wizard(Mark Clarke, Ken Hensley)
*1972年週間シングル・チャート スイス8位 ドイツ34位 カナダ86位
② 時間を旅する人 3:25
Traveller in Time(Mick Box, David Byron, Lee Kerslake)
③ 安息の日々 2:37
Easy Livin(Ken Hensley)
*1972年週間シングル・チャート アメリカ39位 デンマーク9位 フィンランド15位 ドイツ15位 カナダ27位 フランス35位
*1973年週間シングル・チャート オランダ5位
④ 詩人の裁き 4:15
Poet's Justice(Mick Box, Ken Hensley, Lee Kerslake)
⑤ 連帯 6:25
Circle of Hands(Ken Hensley)
side:B
⑥ 虹の悪魔 4:25
Rainbow Demon(Ken Hensley)
⑦ オール・マイ・ライフ 2:44
All My Life(Mick Box, David Byron, Lee Kerslake)
⑧ 楽園 5:10
Paradise(Ken Hensley)
⑨ 呪文 7:31
The Spell(Ken Hensley)
【録音メンバー】
☆ユーライア・ヒープ
デヴィッド・バイロン/David Byron(lead-vocals)
ミック・ボックス/Mick Box (guitars)
ケン・ヘンズレー/Ken Hensley(keyboards, guitars, percussions, lead-vocals⑧⑨, backing-vocal)
マーク・クラーク/Mark Clarke (bass①, lead-vocals①)
ゲイリー・セイン/Gary Thain(bass②~⑨)
リー・カースレイク/Lee Kerslake(drums, percussions)
【チャート】
1972年週間アルバム・チャート
イギリス20位 アメリカ23位 日本28位
フィンランド1位 ドイツ5位 ノルウェイ5位 デンマーク7位 オーストラリア14位 カナダ22位
1972年年間アルバム・チャート ドイツ34位
【メ モ】
ユーライア・ヒープ4作目のアルバム。
イギリスではアルバム・チャート・トップ100位内に11週ランク・インし、最高20位を記録。アメリカのビルボード200ではバンド初の全米トップ40アルバム入りし、最高23位(ユーライア・ヒープの作品中、ビルボード200での最高位)を記録してゴールド・アルバムを獲得。日本では23週オリコン・チャートにとどまり、最高28位を記録している。
ベースがマーク・クラーク(元コロシアム)に、ドラムスがリー・カースレイク(元ナショナル・ヘッド・バンド)に交替。
マーク・クラークは①にのみ参加したのち脱退したのち、後任としてゲイリー・セインが加入し、ユーライア・ヒープ黄金期のラインナップが揃った。
ジャケットは、イエスのアルバム・ジャケット制作で知られるロジャー・ディーンが担当している。
本作からシングル・カットされた③は、ユーライア・ヒープ唯一の全米トップ40シングルである。
対自核 Look at Yourself
【歌・演奏】
ユーライア・ヒープ/Uriah Heep
【リリース】
1971年9月(イギリス)
1972年3月10日(日本)
【録音】
1971年7月
ロンドン ランズダウン・スタジオ
【プロデューサー】
ジェリー・ブロン/Gerry Bron
【エンジニア】
ピーター・ギャレン/Peter Gallen
【レーベル】
ブロンズ・レコード/Bronze Record(イギリス)
マーキュリー・レコード/Mercury Record(アメリカ)
【録音メンバー】
☆ユーライア・ヒープ
デヴィッド・バイロン/David Byron(lead-vocals)
ミック・ボックス/Mick Box (electric-guitars, acoustic-guitars)
ケン・ヘンズレー/Ken Hensley(organ, piano, harpsichord, electric-guitar, acoustic-guitar, lead-vocals①, backing-vocal)
ポール・ニュートン/Paul Newton (bass)
イアン・クラーク/Ian Clark(drums)
★ゲスト・ミュージシャン
マンフレッド・マン/Manfred Mann(synthesizer③④)
テッド・オセイ/Ted Osei(percussion① from「Osibisa」)
マック・トントー/Mac Tontoh(percussion① from「Osibisa」)
ラフティ・アマオ/Loughty Amao(percussion① from「Osibisa」)
【収録曲】(シングル=「対自核」「7月の朝」)
side:A
① 対自核 5:09
Look at Yourself(Ken Hensley)
1971年週間シングル・チャート=スイス4位、ドイツ33位
② 自由への道 4:00
I Wanna Be Free(Ken Hensley)
③ 7月の朝 10:32
July Morning(David Byron, Ken Hensley)
side:B
④ 瞳に光る涙 5:01
Tears in My Eyes(Ken Hensley)
⑤ 悲嘆のかげり 8:39
Shadow of Grief(Ken Hensley, David Byron)
⑥ 当為 4:15
What Should Be Done(Ken Hensley)
⑦ ラヴ・マシーン 3:37
Love Machine(Ken Hensley, Mick Box, David Byron)
【チャート】
1971年週間アルバム・チャート
イギリス39位 アメリカ93位 日本5位 フィンランド1位 ドイツ11位 ノルウェイ14位 オーストラリア16位 イタリア20位
1972年年間アルバム・チャート ドイツ34位
【メ モ】
ユーライア・ヒープのサード・アルバム。
タイトル・ナンバー①でムーグ・シンセサイザー・ソロを弾いているのは、マンフレッド・マン。また、アフロ・ロック・バンドの「オシビサ」のメンバーであるテッド・オセイ、マック・トントー、ラフティ・アマオの3人がパーカッションで参加している。
ソールズベリー Salisbury
【歌・演奏】
ユーライア・ヒープ/Uriah Heep
【リリース】
1971年2月(イギリス)
1971年1月12日(アメリカ)
1972年6月10日(日本)
【録音】
1970年10月~1970年11月
ロンドン ランズダウン・スタジオ
【プロデューサー】
ジェリー・ブロン/Gerry Bron
【エンジニア】
ピーター・ギャレン/Peter Gallen
【レーベル】
ブロンズ・レコード/Bronze Record(イギリス)
マーキュリー・レコード/Mercury Record(アメリカ)
【録音メンバー】
☆ユーライア・ヒープ
デヴィッド・バイロン/David Byron(lead-vocals①②③⑥)
ミック・ボックス/Mick Box (electric-guitars, acoustic-guitars, vocals)
ケン・ヘンズレー/Ken Hensley(slide-guitar, acoustic-guitar, piano, organ, harpsichord, vibraphone, mellotron, vocals, lead-vocals④⑤)
ポール・ニュートン/Paul Newton (bass, vocals)
キース・ベイカー/Keith Baker(drums)
★ゲスト・ミュージシャン
ジョン・フィディ/John Fiddy(brass & woodwind arrangemennt⑥)
【収録曲】(シングル=「尼僧」「黒衣の娘」)
side:A
① 肉食鳥 4:13
Bird of Prey(Mick Box, David Byron, Ken Hensley, Paul Newton)
② 公園 5:41
The Park(Ken Hensley)
③ 生きる 4:01
Time to Love(Mick Box, David Byron, Ken Hensley)
④ 黒衣の娘 4:44
Lady in Black(Ken Hensley)
1971年週間シングル・チャート=フィンランド16位 1978年週間シングル・チャート=ドイツ5位、スイス6位
side:B
⑤ 尼僧 3:42
High Priestess(Ken Hensley)
⑥ ソールズベリー 16:20
Salisbury(Mick Box, David Byron, Ken Hensley)
【チャート】
1971年週間アルバム・チャート
アメリカ103位 日本47位 フィンランド3位 イタリア12位 オーストラリア19位 ドイツ31位
【メ モ】
ユーライア・ヒープのセカンド・アルバム。
ドラマーがナイジェル・オルソンからキース・ベイカーに交替しているが、アルバムのリリース間もなくキース・ベイカーがバンドから離れ、元クレシダのドラマーであるイアン・クラークが加入している。
なおアメリカ盤では「肉食鳥」が外され(ファースト・アルバムのアメリカ盤に収録されているため)、「Simon the Bullet Freak」が収録されている。
ユーライア・ヒープ・ファースト U...Very 'eavy ...Very 'umble
【歌・演奏】
ユーライア・ヒープ/Uriah Heep
【リリース】
1970年6月13日(イギリス)
1970年8月(アメリカ)
【録音】
1969年7月~1970年4月
ロンドン ランズダウン・スタジオ
【プロデューサー】
ジェリー・ブロン/Gerry Bron
【エンジニア】
ピーター・ギャレン/Peter Gallen
【レーベル】
ヴァーティゴ/Vertigo(イギリス、ヨーロッパ)
マーキュリー/Mercury(アメリカ)
フィリップス/Philips(日本)
【録音メンバー】
☆ユーライア・ヒープ
デヴィッド・バイロン/David Byron(lead-vocals)
ミック・ボックス/Mick Box (electric-guitars, acoustic-guitars, backing-vocals)
ケン・ヘンズレー/Ken Hensley(①②④⑤⑥⑦ piano, organ, mellotron, backing-vocals)
ポール・ニュートン/Paul Newton (bass, backing-vocals)
アレックス・ネピアー/Alex Napier(drums①②③⑥⑦⑧)
ナイジェル・オルソン/Nigel Olsson(drums④⑤)
★ゲスト・ミュージシャン
コリン・ウッド/Colin Wood(keyboards③⑧, backing-vocals③⑧)
【収録曲】(☆シングル=①⑧)
side:A
☆① ジプシー 6:37
Gypsy(Mick Box, David Byron)
*1971年週間シングル・チャート ドイツ28位
② ウォーキング・イン・ユア・シャドウ 4:31
Walking in Your Shadow(Paul Newton, David Byron)
③ カム・アウェイ・メリンダ 3:46
Come Away Melinda(Fred Hellerman, Fran Minkoff)
④ ルーシー・ブルース 5:08
Lucy Blues(Mick Box, David Byron)
side:B
⑤ ドリームメア 4:39
Dreammare (Paul Newton)
⑥ リアル・ターンド・オン 3:37
Real Turned On(Mick Box, David Byron, Paul Newton)
⑦ アイル・キープ・オン・トライング 5:24
I'll Keep on Trying(Mick Box, David Byron)
☆⑧ ウェイク・アップ 6:22
Wake Up (Set Your Sights) (Mick Box, David Byron)
*1970年リリース(US)
【チャート】
1970年週間アルバム・チャート
アメリカ186位 日本41位 イタリア11位 フィンランド14位 オーストラリア15位 ドイツ22位 カナダ84位
【メ モ】
ユーライア・ヒープのファースト・アルバム。
③「カム・アウェイ・メリンダ」と⑧「ウェイク・アップ」は、スパイスの曲である。キーボードを担当しているのはセッション・ミュージシャンのコリン・ウッド。この当時ケン・ヘンズレーはスパイスに加入していなかった。
アメリカ盤では「ルーシー・ブルース」の代わりに「肉食鳥」(Bird of Prey)が収録されている。なお「肉食鳥」でドラムを叩いているのはキース・ベイカー(Keith Baker)である。
ザ・サウンド・オブ '65 The Sound of '65
【歌・演奏】
グラハム・ボンド・オーガニゼイション/Graham Bond Organisation
【リリース】
1965年3月
【プロデューサー】
ロバート・スティグウッド/Robert Stigwood
【レーベル】
コロンビア
【録音メンバー】
☆グラハム・ボンド・オーガニゼイション
グラハム・ボンド/Graham Bond (organ, vocals, mellotron, alto-sax)
ディック・ヘクストール=スミス(tenor-sax)
ジャック・ブルース/Jack Bruce(electric-bass, acoustic-bass, harmonica, harmonica, vocals)
ジンジャー・ベイカー/Ginger Baker(drums,)
【収録曲】
side:A
① フーチー・クーチー・マン 3:11
Hoochie Koochie Man(Willie Dixon)
② ベイビー・メイク・ラヴ・トゥ・ミー 1:49
Baby Make Love to Me(Janet Godfrey, John Group)
③ ネイバー、ネイバー 2:37
Neighbour, Neighbour(Alton Joseph Valier)
④ アーリー・イン・ザ・モーニング 1:47
Early in the Morning(Traditional)
⑤ スパニッシュ・ブルース 3:03
Spanish Blues(Graham Bond)
⑥ オー・ベイビー 2:39
Oh Baby(Graham Bond)
⑦ リトル・ガール 2:11
Little Girl (Graham Bond)
side:B
⑧ アイ・ウォント・ユー 1:43
I Want You(Graham Bond)
⑨ ウェイド・イン・ザ・ウォーター 2:39
Wade in the Water(Traditional)
⑩ ゴット・マイ・モジョ・ワーキング 3:08
Got My Mojo Working(McKinley Morganfield)
⑪ トレイン・タイム 2:21
Train Time(Graham Bond Organisation)
⑫ ベイビー・ビー・グッド・トゥ・ミー 2:21
Baby Be Good to Me(Janet Godfrey)
⑬ ハーフ・ア・マン 2:02
Half a Man(Graham Bond)
⑭ タミー 2:46
Tammy(Jay Livingston, Ray Evans)
リック・リー Richard "Ric" Lee
【パート】
ドラムス、パーカッション
【生没年月日】
1945年10月20日~
【出生地】
イングランド ノッティンガムシャー州マンスフィールド
【経 歴】
マンスフィールズ/The Mansfields(1962~1965)
イヴァン・ジェイ & ザ・ジェイメン/Ivan Jay & The Jaymen(1965~1966)
テン・イヤーズ・アフター/Ten Years After(1966~1974)
チキン・シャック/Chicken Shack(1980~1982)
テン・イヤーズ・アフター/Ten Years After(1988~ )
ブレイカーズ/The Breakers(1994~ )
リック・リー・ブルース・プロジェクト/Ric Lee Blues Project(2011)
リック・リーズ・ナチュラル・ボーン・スウィンガーズ/Ric Lee's Natural Born Swingers(2012~ )
テン・イヤーズ・アフターのドラマー。オリジナル・メンバーである。
ブルース・ロックを中心に演奏活動を続けている。
リック・リーが最初に加入したのは「ファルコンズ」(Falcons)である。バンドの創設メンバーのひとりであった。
1962年、ノッティンガム周辺を拠点に活動していた「マンスフィールズ」(The Mansfields)のメンバーとなったが、1965年8月にデイヴ・クィックマイアーに代わって「イヴァン・ジェイ & ザ・ジェイメン」(Ivan Jay & the Jaymen)に加入した。このバンドにはアルヴィン・リー(guitar)とレオ・ライオンズ(bass)が在籍していた。
当時のイヴァン・ジェイ & ザ・ジェイメンは、アルヴィン・リー(guitar, vocal)、レオ・ライオンズ(bass)、リック・リー(drums)からなるギター・トリオだった(アルヴィンとリックは同姓であるが、血縁関係はない)が、1966年にチック・チャーチル(keyboard)がバンドに加わると、バンドは「Blues Trip」名乗るようになる。このバンドが1966年秋に改名して、「テン・イヤーズ・アフター」となるのである。「このバンドが10年後も続いているように」という願いがその由来である。
テン・イヤーズ・アフターは、1967年にデビュー・アルバム『テン・イヤーズ・アフター』を発表。続いてセカンド・アルバム『イン・コンサート』(当時としては異例のライヴ・アルバム)をリリース。この2枚のアルバムによって、アルヴィン・リーのギターを中心としたパワフルな演奏が注目されるようになる。当時のブリティッシュ・ロック・シーンはブルース・ブームに沸いていたが、テン・イヤーズ・アフターはこれに押され、ブリティッシュ・ロック界のホープと見なさるようになったのである。
1969年8月にはウッドストック・フェスティヴァルに出演し、『アイム・ゴーイング・ホーム』などを演奏したが、これは今でも語り継がれるほどの大熱演であり、テン・イヤーズ・アフターの人気は確固たるものになった。
野外フェスティヴァルとしては、そのほか「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」(1969年)、「シアトル・ポップ・フェスティヴァル」(1969年)、「アトランタ・ポップ・フェスティヴァル」(1969年)、「ワイト島フェスティヴァル」(1970年)などに招かれているが、これもテン・イヤーズ・アフターの人気の表われである。
リック・リーのドラミングはアルヴィン・リーのギターに呼応するかのようにパワフルであり、さらにはジャズ的アプローチも自在で、ベーシストのレオ・ライオンズとともに強力なリズム・セクションを形成し、バンドを支えた。
1980年、レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナムが急死した。その後任候補として様々なドラマーが予想されたが、その中にはリック・リーの名もあった。このことからもリックのドラミングの評価の高さが窺える。
テン・イヤーズ・アフターの全盛期は1969~1972年頃で、この間にリリースしたアルバム6作はすべて全英トップ40入りしている(とくに『ストーンヘンジ』『夜明けのない朝』『クリックルウッド・グリーン』『ワット』は4作連続全英トップ10入り)ほか、うち3作は全米アルバム・チャートでトップ20入りしている。
英米ばかりでなく、北欧圏でも高い人気を誇っていたが、レーベル側とアルヴィン・リーで方向性を巡る意見の相違が顕著となってきたうえに、アルヴィン・リーがソロ活動を活発に行うようになり、バンドの勢いは失われてゆく。
1974年にリリースした通算8枚目のスタジオ・アルバム『バイブレーションズ』は全く精彩を欠いた内容であり、低迷が続くテン・イヤーズ・アフターはこのアルバムを最後に解散した。
1975年8月4日には、サンフランシスコのウィンターランドで行われたアメリカでのフェアウェル・コンサートに出演。
解散後のリックは1976年に音楽出版やレコード制作、マネージメントに関わるプロダクションを設立し、演奏からは一時から遠ざかる。
1980年、イギリスの名門ブルース・ロック・バンド「チキン・シャック」(Chicken Shack)に加入。
1983年、テン・イヤーズ・アフターは7月1日限定で再結成し、ロンドンで行われた「マーキー・クラブ25周年記念コンサート」に出演。また同年8月のレディング・フェスティヴァルにもテン・イヤーズ・アフターとして出演している。
1988年、いくつかのコンサートとレコーディングのため再始動したテン・イヤーズ・アフターに加わる。バンドは1989年8月に15年ぶりのアルバム『アバウト・タイム』を発表。
以後、アルヴィン・リーの脱退(2003年)と死去(2013年)、メンバー・チェンジなどがありながら、テン・イヤーズ・アフターのドラマーとして活動を続けている。
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テン・イヤーズ・アフター以外の活動としては、1994年には、旧友のイアン・エリス(bass 元サヴォイ・ブラウン)と「ブレイカーズ」(The Breakers)を結成。1995年7月に発表したアルバム『Milan』には、レオ・ライオンズやチック・チャーチルもゲスト参加している。
ブレイカーズは1996年3月にヨーロッパで放送されたNBCスーパー・チャンネルの番組「Talking Blues」に出演し、ブライアン・アダムス、ボニー・レイットと共演している。
また2000年にはサヴォイ・ブラウンのキム・シモンズとナサニエル・パーターソンのヨーロッパ・ツアーに加わった。
2011年には「リック・リー・ブルース・プロジェクト」(Ric Lee's Blues Project)を結成。このバンドは翌2012年には「リック・リーズ・ナチュラル・ボーン・スウィンガーズ」(Ric Lee's Natural Born Swingers)と改名。メンバーはリックのほか、ボブ・ホール(piano 元サヴォイ・ブラウン)、ダニー・ハンドリー(guitar, vocal アニマルズ)、スコット・ホイットリー(bass)だったが、ハンドリーとホイットリーがバンドを去ったのち、2015年にジョン・アイダン(guitar, vocal ヤードバーズ)が加わった。
2019年5月には、自叙伝『From Headstock To Woodstock』を出版している。
ジェイムス・リザーランド James Litherland
【パート】
ギター、ヴォーカル
【生没年月日】
1949年9月6日~
【出生地】
イングランド ランカシャー州サルフォード
【経 歴】
コロシアム(1968~1969)
ブラザーフッド(1969~1970)
モーグル・スラッシュ(1970~1971)
ミリオン
マンチャイルド(1972)
バンディット(1976)
イングランドのヴォーカリスト、ギタリスト。コロシアムのオリジナル・メンバーのひとり。
シンガーソングライター、鍵盤奏者でプロデューサーのジェイムス・ブレイクの父でもある。
8歳の時に両親からギターをプレゼントされる。
11歳の時に地元のローカル・バンドで音楽活動を始める。
1965年、グラマースクール時代の友人だったスティーヴ・ボルトン(guitar のちアトミック・ルースター、ポール・ヤング・バンドetc)が在籍していたマンチェスター周辺のインストゥルメンタル・バンド「モッドロックス」(The Modrox)に加わる。
リザーランドによってリズム&ブルースの要素を持ち込まれたモッドロックスは徐々にモッズスタイルのビート・バンドへ変貌を遂げ、バンド名を「パズル」(The Puzzle)に改めた。しかしリザーランドはほどなくパズルを脱退する。
この後、ローカル・バンドの「The Go Go」に参加するが、この頃グラハム・ボンド・オーガニゼイションやジミ・ヘンドリックスから大きな影響を受け、以後はブルース・ロックを演奏するようになる。
1968年、8月17付のメロディ・メイカー紙で、ジョン・ハイズマン(drums)が告知したメンバー募集記事を見たリザーランドはヴォーカリストとしてこれに応募。同時に応募してきたジム・ローチェ(guitar)とともに採用された。
ジョン・ハイズマンは、このふたりに加えてデイヴ・グリーンスレイド(keyboard)、トニー・リーヴス(bass)、ディック・ヘクストール=スミス(sax)の計6人で新しいグループの活動を開始した。これが「コロシアム」の結成である。
同年10月11日~12日、スカボローの「シーン・トゥー・クラブ」でデビュー・ライヴを行い、11月には英フォンタナ・レコードと契約。
12月にはファースト・アルバムのレコーディングが始まったが、すぐにローチェが脱退したため、リザーランドがギターも兼ねることになった。
アート・ロック・ブームが熱を帯びていた1969年5月、コロシアムはファースト・アルバム『コロシアム・ファースト』をリリース、たちまち注目されるようになった。
引き続いて行われたセカンド・アルバム『ヴァレンタイン組曲』のレコーディングが終わった同年10月、リザーランドは「ブラザーフッド」(のちの「モーグル・スラッシュ」)へ参加するためコロシアムを脱退する。後任として加入したのは、元ベイカールーのデイヴ・"クレム"・クレムソンだった。
なお、ジュリアス・シーザーの最期を描いた『ヴァレンタイン組曲』は全英15位まで上昇するヒットを記録し、コロシアムはブリティッシュ・ロック界に中で確固たる位置を占めるようになる。
ジェイムス・リザーランド(中央)
「ブラザーフッド」のメンバーは、リザーランド(guitar, vocal)のほか、ジョン・ウェットン(bass, guitar, vocal 元Splinter)、エド・ビックネル(drums)、ロジャー・ボール(sax)、モリー・ダンカン(sax)であった。
間もなく、唯一知名度のあるリザーランドの名を冠して、バンド名を「ジェイムス・リザーランズ・ブラザーフッド」(James Litherland's Brotherhood)と改めた。
1969年末、ドラマーがビル・ハリスンに交替。その後、元エレクションのマイケル・ローゼン(guitar, trumpet, mellophone)が加わってバンドは6人編成となる。
1970年にRCAと契約を結ぶことになったが、同名のバンドが存在することがわかったため、同年5月にバンドは「モーグル・スラッシュ」と名を改めた。
モーグル・スラッシュはシングル1枚(『Sleeping in the Kitchen』1970年)、アルバム1枚(『モーグル・スラッシュ』1971年)を残し、1971年に解散した。
ジェイムス・リザーランド(中央)
その後は自己のグループ「ミリオン」を結成したほか、ロング・ジョン・ボルドリーなどのレコーディングに参加。
1972年には、ファースト・ソロ・アルバムをリリースしたばかりのディック・ヘクストール=スミス(sax 元コロシアム)、デイヴ・ローズ(keyboard)、ビリー・スミス(bass)、セオドア・サンダー(drums)とともに「マンチャイルド」を結成した。
1970年代中頃にはサンフランシスコで活動している。
帰国後の1976年、「バンデット」(Bandit)に参加。他のメンバーはリザーランド(guitar)のほか、ジム・ダイアモンド(vocal)、ダニー・マッキントッシュ(guitar)、クリフ・ウィリアムス(bass)、グラハム・ブロード(drums)である。リザーランドは、アルバム『Bandit』とシングル『Ohio』を残したのみで脱退した。
その後はテレビや映画音楽の仕事をしていたが、1990年代に入ってからはソロ・アルバムの制作も行っている。
2017年6月、ソロ・アルバム『バック・アンド・ブルー』(Back 'n Blue)を発表。
【ディスコグラフィ】
コロシアム
1969年 コロシアム・ファースト/Those Who Are About to Die Salute You(全英15位)
1969年 ヴァレンタイン組曲/Valentyne Suite(全英15位)
1970年 グラス・イズ・グリーナー/The Grass Is Greener *アメリカ編集盤
モーグル・スラッシュ
1971年 モーグル・スラッシュ/Mogul Thrash
バンディット
1976年 Bandit
レコーディング参加アルバム
The Fureys
1968年 Finbar Furey
ジェイド
1970年 フライ・オン・ストレンジウイングス/Fly On Strangewings
エドワード・ハンド
1970年 ストランデッド/Stranded
1971年 Rainshine
ロング・ジョン・ボルドリー
1972年 Everything Stops for Tea
レオ・セイヤー
1974年 ジャスト・ア・ボーイ/Just a Boy
スティーヴ・マリオット
1976年 マリオット/Marriott
アレクシス・コーナー
1979年 The Party Album
グレッグ・リドリー Alfred Gregory "Greg" Ridley
【パート】
ベース、ヴォーカル
【生没年月日】
1941年10月23日~2003年11月19日(62歳)
【出生地】
イングランド カンバーランド カーライル市
【経 歴】
V.I.P.'s(1964~1967)
アート(1967)
スプーキー・トゥース(1967~1969)
ハンブル・パイ(1969~1975)
ストレンジ・ブリュー(1975)
スティーヴ・マリオット・オール・スターズ(1975~1976)
ハンブル・パイ(2001~2002)
「スプーキー・トゥース」「ハンブル・パイ」のベーシストとして知られる。
1960年代前半、「Dino and the Danubes」というローカル・バンドにギタリストとして加入したことがリドリーの音楽活動の始まりである。
その後「The Dakotas」を経て、学友でバンド仲間だったマイク・ハリスンの在籍する「ラムロッズ」(The Ramrods)に、ベーシストとして1963年に加入。ラムロッズは翌64年に「ヴィップス」(The V.I.P.'s)と改名する。
1966年、V.I.P.'sは大幅なメンバー・チェンジを行い、ラインナップはマイク・ハリソン(keyboard, vocal)、ルーサー・グロヴナー(guitar)、グレッグ・リドリー(bass)、マイク・ケリー(drums)の4人となった。ちなみにこの年、短期間ではあるが、キース・エマーソンが在籍している。
1967年4月、サイケデリックな時代背景を反映して、バンドは「アート」(Art)と再び改名し、同年7月にはアルバム『Supernatural Fairy Tales』とシングル『What's That Sound?』を発表。
1967年10月、バンドはツアー先の西ドイツでヴォーカル兼キーボード奏者のゲイリー・ライトと出会う。アイランド・レーベルの社長でプロデューサーのクリス・ブラックウェルの提案によって、バンドはライトをメンバー加えた。こうしてメンバーが固まったアートは、新たに「スプーキー・トゥース」と名乗ることになる。
スプーキー・トゥースはブルースをベースとして、サイケデリックやアメリカン・ロックなどからも影響されたヘヴィーなサウンドを特徴としていた。
1968年1月、スプーキー・トゥースは『サンシャイン・ヘルプ・ミー』で、アイランド・レーベルからシングル・デビュー。続いて同年8月にはデビュー・アルバム『イッツ・オール・アバウト』を発表した。
1968年末、スプーキー・トゥースがスモール・フェイセスのオープニング・アクトを務めた際、リドリーはスティーヴ・マリオットからニュー・グループ「ハンブル・パイ」への参加を打診された。このプランを了承したリドリーは、1969年2月にはスプーキー・トゥースを脱退し、ハンブル・パイのメンバーとなった。
なおリドリー脱退後の同年5月に、セカンド・アルバム『スプーキー・トゥー』がリリースされたが、このアルバムは全米チャートで44位まで上昇(スプーキー・トゥース唯一の全米トップ50アルバム)、メディアからも高く評価されており、現在でもスプーキー・トゥースの最高傑作と言われている。
ハンブル・パイの結成当初のメンバーは、ピーター・フランプトン(guitar, vocal)、スティーヴ・マリオット(guitar, vocal)、グレッグ・リドリー(bass)、ジェリー・シャーリー(drums)である。この4人の集結は「スーパー・グループ」として大いに期待され、1969年4月に活動を開始した。
フランプトンとマリオットのスターふたりによる双頭バンドとして注目されたハンブル・パイだったが、ポップ、フォーク・ロック的指向を持つフランプトンとブルースやソウル指向のマリオットの、ふたりの音楽性の相違がはっきり現れてきたため、1971年秋にフランプトンが脱退。
新メンバーとして参加したのは元コロシアムのクレム・クレムソンである。彼の加入によってバンドの方向性は、マリオットの持つブルージーでソウルフルな路線に、より明確にシフトすることになる。
音楽性の進化にともない、その激しいライヴ・パフォーマンスが知られるようになる。またリドリーとシャーリーのコンビは、当時のロック界有数の強力なリズム・セクションとして評価されるようになった。
1973年、ハンブル・パイは初来日。ベック、ボガート&アピスと来日時期が重なっていたため、メディアからはあまり取り上げられなかったものの、ライヴ自体は中味の濃いエキサイティングなもので、ツアーは成功裡に終わった。
その後はツアーの連続によってメンバーが疲弊したため、1975年の「Goodbye Pie Tour」の後で、ハンブル・パイは解散する。
解散直前の1975年2月にリリースされたアルバム『ストリート・ラッツ』では、全11曲中リドリーが5曲でリード・ヴォーカルをとっている。
ハンブル・パイ解散後は、クレム・クレムソン、コージー・パウエルとともに「ストレンジ・ブリュー」(Strange Brew)を結成するが、すぐに消滅してしまう。
また、スティーヴ・マリオット・オール・スターズの一員となり、マリオットのソロ・アルバム『マリオット』(1976年)のレコーディングでは全10曲中5曲に参加している。
そのほかマイク・パトゥとオリー・ハルソールが結成した「ボクサー」のライヴに参加するなどしたが、1976~77年頃には音楽業界から身を引いた。引退後はイングランド南西部のグロスターシャー州に住み、アンティーク家具の店を経営するほか、アンティークのトレーダーとしても働いた。
1998年、マイク・ハリソン、ルーサー・グロヴナー、グレッグ・リドリー、マイク・ケリーのオリジナル・メンバー4人でスプーキー・トゥースが再結成され、1999年に25年ぶりのニュー・アルバム『Cross Purpose』を発表した。
1991年に亡くなったスティーヴ・マリオットのメモリアル・コンサート(「スティーヴ・マリオット・トリビュート・コンサート」)が2001年4月14日に行われたが、この時にハンブル・パイが再結成され、ピーター・フランプトン、クレム・クレムソン、グレッグ・リドリー、ジェリー・シャーリーというラインナップで出演し、5曲を演奏した。
2002年には、リドリー、ジェリー・シャーリー、ボビー・テンチ、デイヴ・コルウェルというラインナップで「ハンブル・パイ」としてのアルバム『バック・オン・トラック』を発表したほか、「カンパニー・オブ・スネイクス」(Company of Snakes)との短期のドイツ・ツアーに参加している。
同年元ウイングスのジョフ・ブリトン(drums)率いる「The Rockets」に加入。
2003年11月19日、移住先であるスペインのバレンシア州アリカンテ県ハベアで、肺炎とその合併症のため56歳で死去。
2005年、リドリーを追悼して、アンソロジー・アルバム『All I Ever Needed』がリリースされた。
【ディスコグラフィ】(☆ライヴ・アルバム)
アート/Art
◆アルバム
1967年 Supernatural Fairy Tales
スプーキー・トゥース/Spooky Tooth
◆アルバム
1968年 イッツ・オール・アバウト/It's All About(1971年全米152位)
1969年 スプーキー・トゥー/Spooky Two(全米44位)
1999年 Cross Purpose
ハンブル・パイ/Humble Pie
◆アルバム
1969年 アズ・セイフ・アズ・イエスタデイ・イズ/As Safe As Yesterday Is(イギリス32位)
1969年 タウン・アンド・カントリー/Town and Country
1970年 大地と海の歌/Humble Pie
1971年 ロック・オン/Rock On
☆1971年 パフォーマンス~ロッキン・ザ・フィルモア/Performance Rockin' the Fillmore(アメリカ21位、カナダ32位)
1972年 スモーキン/Smokin'(アメリカ6位、イギリス20位)
1973年 イート・イット/Eat It(アメリカ13位、イギリス34位、日本58位)
1974年 サンダーボックス/Thnderbox(アメリカ52位、日本85位)
1975年 ストリート・ラッツ/Street Rats(アメリカ100位)
☆1996年 ライヴ・イン・コンサート/Humble Pie in Concert(1973年5月6日録音)
2002年 バック・オン・トラック/Back on Track
◆シングル
1969年 あいつ/Natural Born Bugie(全英4位)
1971年 ノー・ドクター/I Don't Need No Doctor(全米73位)
1972年 ホット・アンド・ナスティ/Hot 'n' Nasty(全米52位)
スティーヴ・マリオット
◆アルバム
1976年 Marriott