マン ウオッチング

2009年12月15日 00時11分03秒 | 日記
50肩になり、左肩が持ち上がらなくなってしまった。
病院で、リハビリを、うけている。

病院の会計でお金の支払いを待ってる間って、治療が終わったこともあり、
のんきに、いすに腰掛け 見るともなしに、結構、人の動きを見ているもんだ。
先日もなんとなく、カウンターの所にいる女性(年は30くらいかな~)を、見ていた。
おくるみで、くるんだ赤ちゃんを大事そうに、抱いている。

まだ首も坐っていないような小さな子なので、大丈夫かな~と見ていたら、
バッグから何かを取りだしたいが 赤ちゃんが邪魔でうまく取りだせれない様子。
そうしたらにわかに赤ちゃんをくるりと、横に抱えたではないか。
私もだが、周りにいた人たちも、思わず 「あっ、」と声が上がるほど驚いた。
何とも、おとなしい赤ちゃんで泣きもしない。
それでも、皆はらはら
そうしたら、おくるみが、ハラリとめくれて・・・、何とその赤ちゃん人形だったのである。
もう、驚いたの何のって。目をむいてしまった。
何で人形を赤ちゃんのように抱いていたのかは、分からないが、不思議な人である。


そうしたら、またカウンターの所に、別の30くらいの美しい女性が、やってきた。

後ろ姿しか見えないが、スタイルがとてもよく超ミニスカートが、とてもよく似合う女性で、きれいな足をして
カウンター越しに事務員とおしゃべりしている。
用事が済んで、くるりと振り向いて、近くの人が「へっ」と声をあげた。
私も「うっ」と声がでてしまった。
何と、どう見ても、顔がおばあさんなのである。
それも簡単な、おばあさんではなく、どう見ても70は行ってる感じなのである。

ちょっと大げさなと思うかも知れないが、本当に、ビックリするくらいのギャップで、
思わずおなかがチクリと痛んだほどなのである。

若作りも、あれだけ美しいおみ足を持っているのだから、結構なこととは、思うのだが、あの顔で・・・。
決して、決して、人のことを言えた立場じゃございませんが・・・。

いや~~驚いた   病院風景でした。

病院と縁の切れない私は、待ち時間をこんな風に暇つぶししています。

いけない??
              

追憶

2009年12月11日 00時39分50秒 | 日記
12月11日、 今日で62歳になりました。

12月の誕生日と言うのはなんか損の連続だったような気がします。(これってひがみ?)

子供の頃、あるとき、母が忙しさで私の誕生日を忘れてしまったのです。

夕飯のとき「あっ」と大きな声で「わすれてた~~~」と誕生日を思い出し

「○○の誕生日 クリスマスと一緒でいいね?」と有無を言わさず、
その時から、私の誕生日はクリスマスと一緒だった気がします。
思えば母は、デリカシーのない人だったんだな~と今更ながら思います。

子供の頃の私はと言えば、なんにも言わないおとなしい(?)子だったのです。

父が会社をやっていて、母は父を差し置いて(?)、自分で経理も何もかも一人で采配をふるっていたように思います。

子供でしたから、その内情はわかりませんが・・・。
それで私はいつも一人遊びをしている変わった子だったようです。
本人はそれで結構楽しく遊んでいたのですが、人と和すことのできない問題児だったようです。(ほっといてくれ!!)

兄弟は、姉と弟がいますが、二人はきっと友達と遊んでいたのでしょう。
問題児とは言われていませんでしたし、兄弟で遊んだ記憶もないんです。

その代わり父が良く私を山歩きに連れて行ってくれました。

父も私も無口で そんなに会話らしい会話は覚えていないのですが、山に生えている植物や、樹木の事は良く教えてくれて

山で迷子になったらこんな草を食べたらいいとか、この草の根にはこんないもがついていて、生でも食べれるとか、

白樺の皮は良く燃えるから、暖をとるとき便利だとか・・・。

喉が乾いたら、いたどりの茎を切り中の水を呑めばいいとか・・・。

そうそう、野鳥もとてもよく教えてくれました。
実に父は良くおぼえていて、色々な事を教えてくれました。


父とは、本当にあまり会話したと言う記憶がないまま大人になり、結婚してしまったように思います。

結婚してから実家に用事があり電話をかけて、父が電話に出ても、慌てたようにすぐ母と替わってしまい「元気?」とも言えなかった気がします。


ある年、丁度50歳になった日、ふと実家に電話をかけたら、父が電話に出て、
その時は、不思議と母に替わる事もなく私とおしゃべりをしていて (あの時 母は不在だったのかしら?)

「今日、私の誕生日なの。今日で50になちゃったよ。」と言うと「そうだな~憶えていたよ。おめでとう」と、言ってくれて、

私も、素直に「私を産んでくれてありがとう。」って考えてもいなかった言葉が、口をついて出て、おまけに涙まで出てきて、
そうしたら、電話の向こうで父も涙声で、後は何を話したか覚えていないけど、最後に「長生きしてね?」と結んだのは覚えています。


その年から私は、自分の誕生日は、父と母に、産んでくれた事を感謝する日にしようと決めました。

でも父とは、その日を最後に、私とは取り立てて話す事もなく入院し、3カ月後にガンで逝ってしまいました。

あの時のあの会話はなんだったのか?
寡黙な父があんなにおしゃべりしたのは何故だったのか?
でも、あの日あんなにたくさん、父とお話出来て、産んでくれたことを言葉に出して「ありがとう」と自然体で言えた事が、私の心の平安と繋がっています。 

50歳のその日を境に、誕生日には母に電話をかけ、「私を産んでくれて有難う」と言うことに決めてます。
でも「長生きしてね」と言う言葉は言ってません。
何故か、父と同じになったら怖いから。

そして今年は母が入院してるので、会いに行ってこようと思います。


一期一会

2009年12月09日 12時09分33秒 | 日記
一期一会とは、茶道の開祖、千利休の根底的な教えであるらしい。

その教えとは、

いつも会っている人でも、今の出会いは一度限りのもの、だから、
もしかしたら、もう二度と出会えないかもしれないというぐらいの覚悟で、大切にその人に接しなさい。と言う意味らしい。

もう少し具体的に書くと、

例え明日、同じ人と出会ったとしても、今の人とは、物理的な人は同じであっても、
その人の思いや考えや状況は既に今とは異なっている。
つまり、今の出会いは、この一瞬の一度限りなのである。
だから、この出会いの今の一瞬を大切にしなさい。
また
いつも当たり前のように会えて今日も会えたのだから、明日も会えるとは、実は限らない。
だから、もう二度と出会えないかも知れないぐらいの覚悟で、大切に、その人に接しなさい。
という意味らしい。

茶道って、堅苦しく座り、お椀をクルクル回してお茶を飲むものだと思っていたけど・・・。
随分勘違いをしていた気がする。



昨日、ブログ仲間の、ひまわりさんが、北海道の私の住む町にやってきた。
ツアーでやってきてるので どの程度時間があるのも分からず、一人でワクワク、ソワソワしていた。

第一印象は、お若い 
ひまわりバアバの・・・なんて言うから、細く小さなおばあさんを想像していたのに、はつらつとした、アクティヴおばさんでした。

夜7時にお会いしたので、早起きのひまわりさんには遠くは行けないと思い、大通公園のホワイトイルミネーションを見に行こうと決めて出かけたが、
少し歩かせすぎたか? と反省もしている。
実は、長く住んでる町なのにホワイトイルミネーション、見るのは初めてで・・・
何とも情けない、案内人です。
それでも、根っからのやさしいかたなんでしようね?楽しんで下さいました。
雪がなくて残念でしたが、彼女は「暑い」とおっしゃるのがおかしくて・・・。
北海道では、外以外建物の中はどこも同じ温度になるよう、温度設定を行うので、ホテルなどでは、寝るとき閉口したらしい。

ブログでは中々微妙なニュアンスは伝えられないが、色々話せて良かったとおもう。
帰りは娘に大通り公園にまで迎えに来てもらい、ホテルまで送って行き、玄関で握手して別れた。

一期一会・・・。
ふと、この言葉が頭に浮かんだ瞬間でした。

今度は、私が、山口まで、会いに出かけよう  
絶対 


ひまわりさん、 今頃は、 の人でしようか?

貴方の思いやり、優しさ、わすれません 








分かれ道

2009年12月02日 18時44分10秒 | 日記
昨日、前に話したことのある、同病の友達の所にお見舞いに行ってきました。
入院中は同じ病院ですから9階と7階を暇があれば行き来してました。
看護師さんが「○○さんどこにいますか?」と携帯電話をかけてくるのにはまいりましたが・・・。
彼女のほうが先に入院していたのに私の方が先に退院して来ました。
退院の日、エレベーターの前で、泣きそうな顔の彼女が目にうかびます。

これからは週に2度、火曜日と金曜日は彼女のお見舞いにあてます。
そしてお昼を病院内のレストランで食べることにしました。
昨日はキノコのスパゲティーを食べたら、すごい食欲で、気分が変わると食欲もでるみたいで、いい感じです。



いつ再発するかも知れないと言う恐怖は正直とても話しつくせるものではありません。
でも、私に、『彼女とは違う別の人格だ』と 教えてくれた人がいます。
その言葉がいつも根底にあり、私は、彼女と、心は通わせることはあっても、冷静に対処しています。
そうでないと、私も免疫落ちてへこんでしまいますから・・・。

彼女は、今、抗がん剤と放射線治療を、両方受けています。
正直それを目の当たりにするのは、立場上きついものがあります。
そして抗がん剤をやったことのある立場としては、古傷が痛みだすような恐怖感があります。


彼女は、100%医師を信じ 言われるまま、医師に自分の運命を託そうとしています。
私は少し違うスタンスをとります。 
医師と言う職業を信じては います。
しかし100パーセントではない。
 何故なら西洋医学が医療のすべてと言う考えの医師には??だからです。
『ガンは自分の中に自分が作り上げたものだから、自分で責任を持つ。』
抗がん剤を、やめると決めた時、自分で自分に課したルールです。    
医師任せではない。  医師に100%依存はしない。
自分の人生、自分の命、医師さえも自分で選び抜こうと決めました。

今回の入院中も、研修医が胃カメラなどをやろうとしていて同意書にサインをと、持って来たけど、「私で練習しないで」と断りました。
消化器内科の K医師を指名しました。
なまいきな患者だと思われてもかまいません。
その結果ポリープも、見つかったのだと、思います。分かりにくい所に隠れてましたから・・・。

前回の退院後のブログに書いた、同じ言葉
自分自身が、自分の中に作り上げたガンと言う病・・・。
友達が再発して、 戸惑う事も多いけど
どんな過酷な運命の中にあっても、 一個の自立した誇り高き人間として
自らの心と体を、 自らの人生と命を、 自らの希望と努力で、 明るく健やかに
乗り切って行こうと、 しっかり胸に刻み 退院してまいりました。

今回も同じ思いです。

けれど、大多数のガン患者にとって、ガンとの戦いは、ひたすら医師への、最新治療法への、依存の歴史であるような気がします。
そして患者の胸にぬぐいがたい恐怖と 悲嘆と 絶望とを、植えつける。
私とは、治療に臨む姿勢が違うのだとおもうのです。

だから彼女がガンと戦う手段として抗がん剤と放射線治療をを選択したのを、私はじっと見ているしかない。


今夜は、月がとてもきれいです。
寒月と言う感じです。そんな言葉あったかしら??