ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

シロウト考え休むに似たり その18 映画「アジアの純真」を観てきました。(その2)

2019-09-16 12:20:17 | シロウト考え休むに似たり
 (承前。多少のネタバレはご容赦を)私が〝いたたまれなさ〟を感じたのは、普段はSNSや日常会話で偉そうなことをいっていても、いざというときには何もできない自分、というものを、これでもか、と自覚させられたからです。ヤバいことには関わりたくない、という気持ち、そして、「日本人」として生育してきたことに起因する根源的な差別意識は、間違いなく私の心にもあります。その〝醜さ〟を、目の前に突きつけられたような気がしたのです。従って、その後の物語の展開はさぞ苦い味わいになっていくのだろう、と思って身構えたのですが、違いました。
 
 韓英恵さん演じる、殺された少女の双子の妹は、(おそらく、いたたまれなさから)姉の葬儀を遠くで見ていた、笠井しげさん演じる少年を巻き込み、疾走を始めます。旧日本軍が処分し損なった毒ガスを、一風変わった青年から分けてもらった妹(以下「少女」)は、少年とともに、拉致被害者の家族とおぼしき男(間違いなく蓮池徹さんがモデル。当時は拉致被害者家族会の重鎮でした)の講演会場に赴き、北朝鮮への非難と日本への愛国心を煽る男めがけて、毒ガスの入った瓶を投げつけて殺します。「(日本なんか)愛してねえよ、バーカ!」と叫びながら。その後は、もう一直線です。姉が殺された駅の地下道でも毒ガスの瓶を炸裂させ、そこを歩く市民を殺します。そして、残り3本の使い道を探し、二人は駆け抜けます。そう、二人はここで、完全なる「テロリスト」となるのです。
 
 二人の移動手段は、自転車。肉体そのものを極限まで使い切って疾走する二人。ハッピーエンドになんかなるわけがないことは、もうストーリーの途中で分かりますが、その疾走感は、ものすごく痛々しく、しかし爽やかです。少年は、気弱で、常に無口、主体性がほとんど感じられないキャラクターだったのですが、疾走の中で表情が徐々に変わっていきます。「どうやったら世界は変わる?」という問いかけの答えを探すために。二人がカラオケで、PUFFYの「アジアの純真」を、険悪な雰囲気で熱唱します。映画のタイトルにもなっている歌です。二人の微妙な関係性が明確になる場面です。いわゆる「ネトウヨ・反韓」の人々は、日本が「アジア」の一員だと思っているのかな? などという思いを、私はこの歌を聴きながら思いました。
 
 途中で挿入される、二人に毒ガスを分け与えた青年のエピソードは、「世界を変えること」が、自分を抑圧しているものを打ち壊すことだ、という意味と、そもそも世界を変えることの困難さとを、さりげなく伝えます(青年の名前が、傑作ドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」の監督と同名なことに、何らかの意味を感じてしまうのは私だけかな?)。
 二人のラストシーンは、当然そうなるだろう、という終わり方でしたが、実は、それでは終わらない。その後の、ある意味、脚本家・監督の〝ヤケクソ〟じゃないのか、とも思えるような展開も、この物語にはふさわしい、と感じました。
 
 この物語、もし小説なら、姉妹の家族や、在日韓国・朝鮮人が被っている様々な差別の実態、少年の家族の不安や社会からの指弾、社会の混乱なども書き込むところでしょうが、この映画は、そういう〝枝葉〟を一切削ぎ落とし、物語の本線だけで勝負します。そのシンプルさが勢いを生み、テーマをより浮き彫りにし、この映画を魅力的なものにしているのだろう、と思いました。
(ネトウヨ・反動差別右翼の方々からは大変嫌われているそうですが、彼らに嫌われるということは、よい映画である証拠、ということだと私は思っています)
(続きます)