<∇我が国は、四方皆海、海の国。/世界ひらけて、四千年/我が日の本の 海べこそ/西と東の 文明が/潮のうづと 寄るところ/その東西の 長所をば/ぬきて集めて、ためし(例の)なき/国ぶりつくれ、よそ国の/かゞみともなる、国ぶりを。∇我が国は、ためし少なき君子国。/君は、父母(ちちはは)、国民(くにたみ)は/孫子(まごこ)の如く、君慕ふ。/昔の人の、噂せし、/善き人ばかり 住むといふ/蓬莱山は、日の本と/よそ国人に、謳(うた)はせる/其の国ぶりの 礎を/なほも固めよ、子ども等よ。>
∇上記引用文は、明治33年に富山房から発行された、坪内逍遥編の尋常小学校用「国語読本」巻8からである。“君子国”日本の成就、というしっかりした理念を以て、未来への「国ぶり」固めに向けて一層奮励努力せよ、と奨励している。国運がぐん/\上昇・躍動している時代は、物の考え方も必然的に気宇壮大になる。さて、その高等小学校用「国語読本」に、「千島」が取り上げられ、こう書かれている。<北海道の東北に当りて、飛び石の様に並べる数多の小さき島あり、是れ、即ち、千島なり。島の数、総て三十余、其の中の重なるものを、国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)、得撫(ウルップ)……等とす。これ等の島々を、残らず合すれば、略々、四国程の大きさとなるべし。千島は、もと、半ば、露西亜の領地なりしが、明治八年、樺太島と交換し、以来、全く、我が国の版図(領土)となりぬ。土人は、アイヌ人種なり。…(中略)…。千島は、気候甚だ寒ければ、農作には便ならず。又、製造品も、未だ多からずと雖も、天然の富源、水陸共に豊かなり。殊に、海産は、世界に比類少なく、鰊(ニシン)、鮭、昆布、鱈、ラッコ、オットセイ等は其の重なる産物なり>。
∇<明治八年、樺太島と交換し云々>は、「樺太千島(からふと-ちしま)交換条約」のこと。<1875年、榎本武揚が特使となり調印したロシアとの国境画定条約。両国人雑居とされていた樺太をロシア領、千島列島のうち得撫(ウルップ)島以北の島々を日本領と規定。>(「広辞苑」)尚、これ以前には、1855年(安政元年)に、下田で日露間で締結・調印された「日露和親条約(下田条約)」が有効だった。<千島ではエトロフ・ウルップ間を国境とし、樺太では国境を決めず、既成事実の尊重を確認した。>(上同)というもの。だがその後、種々の紆余曲折があって、現在日ロ間に「北方領土問題」が大きな障壁として立ちはだかっているのは周知の通りである。北方領土は「日本固有の領土」を固持する日本と、「第2次世界大戦の結果、ロシアの領土になった」との立場を認めない限り、平和条約交渉をするのは無意味だ、とするロシアとの確執は強まるばかり。改めて<北方領土問題とは>何か、そしてそれに関する<日本の基本的立場>についての外務省見解を、概要だけでも知っておくことは、今後の推移を見守る上で重要なことと思い、下記に概略と外務省HPアドレスを掲載しておく。
<北方領土問題とは?>
(1)日本はロシアより早く、北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々にこれらの島々の統治を確立しました。それ以前も、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。1855年、日本とロシアとの間で全く平和的、友好的な形で調印された日魯通好条約(下田条約)は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。それ以降も、北方四島が外国の領土となったことはありません。
(2)しかし、第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領しました。当時四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいましたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、1949年までにすべての日本人を強制退去させました。それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いています。
(3)北方領土問題が存在するため、日露間では、戦後60年以上を経たにもかかわらず、いまだ平和条約が締結されていません。──更なる「北方領土問題の経緯」の詳細と<日本の基本的立場>についの外務省見解は、以下のサイトを参照されたい。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo.html
∇上記記述で、<ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領しました。>とあるが、「ポツダム宣言」は、<1945年7月26日、ポツダムで、米・英・中(のちにソ連も参加)が発した対日共同宣言。日本に降伏を勧告し、戦後の対日処理方針を表明したもの。軍国主義の除去・領土の限定・武装解除・戦争犯罪人の処罰・日本の民主化・連合国による占領などを規定。日本政府ははじめ拒否したが、原子爆弾の投下、ソ連の参戦を経て8月14日これを受諾した>(「大辞泉」)。この 「ポツダム宣言」第8項に、<日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸島に局限せざるべし。>とし、<吾等の決定する>という留保を設けて、日本の領土であっても、連合国の思いのままに処理しうる権利が残されていた。これがソ連の北方領土奪取の口実になったのである。──
∇今朝の朝日新聞「耕論」は「厳冬の日ロ」と題し、<日本とロシアが「厳冬期」を迎えている。局面打開を図ろうとした外相会談でも北方領土を巡る対立は解けず、言葉の「場外乱闘」が続く。ロシアが北方領土の実効支配をより強める中、両国関係に雪解けは来るのか。>として、外交評論家の岡本行夫氏や、岩手県立大准教授の黒岩幸子氏らの「耕論」が載っていた。この中で、岡本氏は、日本の「四島返還」から「二島+α」の「α」の最大化を図ることしかないだろう、とし、<まずは日米同盟を立て直し、日本と米国は一体であることをロシアにはっきりと理解させ、日本との緊張状態はロシアの安全保障にとって深刻な不安定要因となることを知らしめるべきだ。>としていた。最近、岡本氏や外交強硬派・櫻井よしこ女史等による「知らしめるべき」論者が多いが、老生は“今時”そんな恐喝じみた戦法は効き目がないばかりか、両国関係を一層悪化させる方向に進むと見る。
∇それより黒岩女史の説法に傾聴すべき点がある。曰く、<ロシアは、クリル(北方四島と千島列島)をカムチャッカ半島、チュコト半島につながる一連のラインと見ている。北太平洋へのプレゼンスのために重要な島だという地政学的な視点だ。クリルがあればオホーツク海を内海にできると考えている人たち(ロシア)に、四島は聖域だから返せと、いくら繰り返しても通じない。><ラブロフ外相が設置を呼びかけた歴史専門委員会に、前原外相は消極的だという。領土交渉史はやり尽くされたかも知れないが、領土問題を離れたクリルの歴史をやるのであれば面白いと私は思う。例えば、先住民、日本人、ロシア人という全く異なる三つの民族が、みんな同じ住み方をしてきたことが分る。北はカムチャッカ、南は北海道と結びつかないと結局やっていけない。三つの時代をよく検証して、これからどうしたらよいかを考えれば、何か知恵が出てくるはずだ。>と。卓論だ! その際、ぜひとも読んでもらいたいのが、「蝦夷錦」と題する坪内逍遥編高等小学校用「国語読本」巻2に載る以下の物語である。日本よ、“君子国"日本に立ち戻るべし!
▼<北海道の南部に、十勝という国がある。又、西部に、石狩という国があり、十勝岳を界としている。今から数十年前、石狩のアイヌが衰えて、十勝のアイヌが盛んだった頃、十勝勢が石狩に攻めてくるという噂が聞こえ、石狩側は大いに驚き、防御策を検討したが如何ともすることができなかった。その時、一人の若者が現れ、十勝の酋長をなだめすかして帰す大任を引き受けたい、と申し出てきた。もと/\彼は十勝生まれで、幼少時石狩に迷い来て、石狩人に救われて成長した者だった。豪胆にして、能弁の評判があった。養育の恩返しに報いたい、と思い願い出たのだという。石狩の酋長は、この若者の人柄の頼もしげなるを見て、その提案を許し、かつ位を上げて石狩の副酋長に任命した。若者は急ぎ旅支度をして、十勝峠に登り、そこで十勝勢を待ち受けた。暫く待っていると、案の定十勝の酋長は数千人の兵を率いて、南の麓から登ってきた。若者は私は石狩の副酋長だと名乗り、十勝の酋長に面会を申し入れた。
▼十勝の酋長が言うには、「我が十勝は、人口は多いが財物が少ない。石狩は古い歴史のある国で財物に富んでいる、と聞く。ざっくばらんに言えば、その財物が欲しい。故に攻め入ったのだ」と。若者が言うには、「貴方は十勝川の源をご存知か」酋長「よく知っているとも。それがどうした?」若者「本当に二川の源のことをお知りになっていたら、この度の挙兵が愚なることは明らかな筈です。何となれば、十勝川は源を大十勝岳に発しています。石狩川も又然りです。二つの川は十勝、石狩の命です。二川が両国に注ぐのは、譬えて言うならば、母親の左右の乳房から乳汁が流れ出るようなもの。この二川の水を飲む両国の人は、両方の乳房にすがって乳を飲む、同腹の兄弟と等しくないでしょうか。兄弟ならば、互いに苦しめあい、害しあうべきではないと思いますが、如何か?」と。十勝の酋長は深く感じ、暫く黙然としていたが、やがてきっぱり言った。「分った、帰って石狩の酋長に告げてくれ。今後十勝、石狩は互いに兄弟の契りを交わし、お互い、永久に侵略することなかるべし」と。こう言って十勝の酋長は直ちにその兵を引き返した、と言う。>
∇上記引用文は、明治33年に富山房から発行された、坪内逍遥編の尋常小学校用「国語読本」巻8からである。“君子国”日本の成就、というしっかりした理念を以て、未来への「国ぶり」固めに向けて一層奮励努力せよ、と奨励している。国運がぐん/\上昇・躍動している時代は、物の考え方も必然的に気宇壮大になる。さて、その高等小学校用「国語読本」に、「千島」が取り上げられ、こう書かれている。<北海道の東北に当りて、飛び石の様に並べる数多の小さき島あり、是れ、即ち、千島なり。島の数、総て三十余、其の中の重なるものを、国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)、得撫(ウルップ)……等とす。これ等の島々を、残らず合すれば、略々、四国程の大きさとなるべし。千島は、もと、半ば、露西亜の領地なりしが、明治八年、樺太島と交換し、以来、全く、我が国の版図(領土)となりぬ。土人は、アイヌ人種なり。…(中略)…。千島は、気候甚だ寒ければ、農作には便ならず。又、製造品も、未だ多からずと雖も、天然の富源、水陸共に豊かなり。殊に、海産は、世界に比類少なく、鰊(ニシン)、鮭、昆布、鱈、ラッコ、オットセイ等は其の重なる産物なり>。
∇<明治八年、樺太島と交換し云々>は、「樺太千島(からふと-ちしま)交換条約」のこと。<1875年、榎本武揚が特使となり調印したロシアとの国境画定条約。両国人雑居とされていた樺太をロシア領、千島列島のうち得撫(ウルップ)島以北の島々を日本領と規定。>(「広辞苑」)尚、これ以前には、1855年(安政元年)に、下田で日露間で締結・調印された「日露和親条約(下田条約)」が有効だった。<千島ではエトロフ・ウルップ間を国境とし、樺太では国境を決めず、既成事実の尊重を確認した。>(上同)というもの。だがその後、種々の紆余曲折があって、現在日ロ間に「北方領土問題」が大きな障壁として立ちはだかっているのは周知の通りである。北方領土は「日本固有の領土」を固持する日本と、「第2次世界大戦の結果、ロシアの領土になった」との立場を認めない限り、平和条約交渉をするのは無意味だ、とするロシアとの確執は強まるばかり。改めて<北方領土問題とは>何か、そしてそれに関する<日本の基本的立場>についての外務省見解を、概要だけでも知っておくことは、今後の推移を見守る上で重要なことと思い、下記に概略と外務省HPアドレスを掲載しておく。
<北方領土問題とは?>
(1)日本はロシアより早く、北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々にこれらの島々の統治を確立しました。それ以前も、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。1855年、日本とロシアとの間で全く平和的、友好的な形で調印された日魯通好条約(下田条約)は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。それ以降も、北方四島が外国の領土となったことはありません。
(2)しかし、第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領しました。当時四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいましたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、1949年までにすべての日本人を強制退去させました。それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いています。
(3)北方領土問題が存在するため、日露間では、戦後60年以上を経たにもかかわらず、いまだ平和条約が締結されていません。──更なる「北方領土問題の経緯」の詳細と<日本の基本的立場>についの外務省見解は、以下のサイトを参照されたい。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo.html
∇上記記述で、<ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領しました。>とあるが、「ポツダム宣言」は、<1945年7月26日、ポツダムで、米・英・中(のちにソ連も参加)が発した対日共同宣言。日本に降伏を勧告し、戦後の対日処理方針を表明したもの。軍国主義の除去・領土の限定・武装解除・戦争犯罪人の処罰・日本の民主化・連合国による占領などを規定。日本政府ははじめ拒否したが、原子爆弾の投下、ソ連の参戦を経て8月14日これを受諾した>(「大辞泉」)。この 「ポツダム宣言」第8項に、<日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸島に局限せざるべし。>とし、<吾等の決定する>という留保を設けて、日本の領土であっても、連合国の思いのままに処理しうる権利が残されていた。これがソ連の北方領土奪取の口実になったのである。──
∇今朝の朝日新聞「耕論」は「厳冬の日ロ」と題し、<日本とロシアが「厳冬期」を迎えている。局面打開を図ろうとした外相会談でも北方領土を巡る対立は解けず、言葉の「場外乱闘」が続く。ロシアが北方領土の実効支配をより強める中、両国関係に雪解けは来るのか。>として、外交評論家の岡本行夫氏や、岩手県立大准教授の黒岩幸子氏らの「耕論」が載っていた。この中で、岡本氏は、日本の「四島返還」から「二島+α」の「α」の最大化を図ることしかないだろう、とし、<まずは日米同盟を立て直し、日本と米国は一体であることをロシアにはっきりと理解させ、日本との緊張状態はロシアの安全保障にとって深刻な不安定要因となることを知らしめるべきだ。>としていた。最近、岡本氏や外交強硬派・櫻井よしこ女史等による「知らしめるべき」論者が多いが、老生は“今時”そんな恐喝じみた戦法は効き目がないばかりか、両国関係を一層悪化させる方向に進むと見る。
∇それより黒岩女史の説法に傾聴すべき点がある。曰く、<ロシアは、クリル(北方四島と千島列島)をカムチャッカ半島、チュコト半島につながる一連のラインと見ている。北太平洋へのプレゼンスのために重要な島だという地政学的な視点だ。クリルがあればオホーツク海を内海にできると考えている人たち(ロシア)に、四島は聖域だから返せと、いくら繰り返しても通じない。><ラブロフ外相が設置を呼びかけた歴史専門委員会に、前原外相は消極的だという。領土交渉史はやり尽くされたかも知れないが、領土問題を離れたクリルの歴史をやるのであれば面白いと私は思う。例えば、先住民、日本人、ロシア人という全く異なる三つの民族が、みんな同じ住み方をしてきたことが分る。北はカムチャッカ、南は北海道と結びつかないと結局やっていけない。三つの時代をよく検証して、これからどうしたらよいかを考えれば、何か知恵が出てくるはずだ。>と。卓論だ! その際、ぜひとも読んでもらいたいのが、「蝦夷錦」と題する坪内逍遥編高等小学校用「国語読本」巻2に載る以下の物語である。日本よ、“君子国"日本に立ち戻るべし!
▼<北海道の南部に、十勝という国がある。又、西部に、石狩という国があり、十勝岳を界としている。今から数十年前、石狩のアイヌが衰えて、十勝のアイヌが盛んだった頃、十勝勢が石狩に攻めてくるという噂が聞こえ、石狩側は大いに驚き、防御策を検討したが如何ともすることができなかった。その時、一人の若者が現れ、十勝の酋長をなだめすかして帰す大任を引き受けたい、と申し出てきた。もと/\彼は十勝生まれで、幼少時石狩に迷い来て、石狩人に救われて成長した者だった。豪胆にして、能弁の評判があった。養育の恩返しに報いたい、と思い願い出たのだという。石狩の酋長は、この若者の人柄の頼もしげなるを見て、その提案を許し、かつ位を上げて石狩の副酋長に任命した。若者は急ぎ旅支度をして、十勝峠に登り、そこで十勝勢を待ち受けた。暫く待っていると、案の定十勝の酋長は数千人の兵を率いて、南の麓から登ってきた。若者は私は石狩の副酋長だと名乗り、十勝の酋長に面会を申し入れた。
▼十勝の酋長が言うには、「我が十勝は、人口は多いが財物が少ない。石狩は古い歴史のある国で財物に富んでいる、と聞く。ざっくばらんに言えば、その財物が欲しい。故に攻め入ったのだ」と。若者が言うには、「貴方は十勝川の源をご存知か」酋長「よく知っているとも。それがどうした?」若者「本当に二川の源のことをお知りになっていたら、この度の挙兵が愚なることは明らかな筈です。何となれば、十勝川は源を大十勝岳に発しています。石狩川も又然りです。二つの川は十勝、石狩の命です。二川が両国に注ぐのは、譬えて言うならば、母親の左右の乳房から乳汁が流れ出るようなもの。この二川の水を飲む両国の人は、両方の乳房にすがって乳を飲む、同腹の兄弟と等しくないでしょうか。兄弟ならば、互いに苦しめあい、害しあうべきではないと思いますが、如何か?」と。十勝の酋長は深く感じ、暫く黙然としていたが、やがてきっぱり言った。「分った、帰って石狩の酋長に告げてくれ。今後十勝、石狩は互いに兄弟の契りを交わし、お互い、永久に侵略することなかるべし」と。こう言って十勝の酋長は直ちにその兵を引き返した、と言う。>