残照日記

晩節を孤芳に生きる。

七夕雑話

2011-07-09 18:29:57 | 日記
∇そういえば、先日7月7日は七夕。今日は7時半からNHKスペシャル「徹底討論どうする原発」を見るので、「政治改革」論一休みして七夕雑話。──天の川を隔てて輝く、 わし座 の首星・アルタイル(牽牛星)=彦星と、 こと座 の首星・べガ(織女星)=織姫が、 一年に1度だけ逢うことを許された夜。この七夕伝説は、古代中国に発祥し、我が国に伝わった。徳川光圀「大日本史」によれば、聖武天皇の御世・天平6年(734)に七夕の宴を催した記事が初出らしい。曰く「秋七月七日丙寅、相撲の戯を観る。是の夕、南苑に御し、文人に命じて七夕の詩を賦せしめ、物を賜うこと差あり」と。思うに、この時賦した「七夕の詩」とは、「詩経」小雅・大東に違いない。「大東」という詩は、理想的善政が敷かれたあの周の時代に比べて、衰乱の今、人民が塗炭の苦しみに喘ぎ、しとゞ涙を流しているという情景を謡っている。

∇≪仰げば高く天の河があって浩々と光を放っている。織女星や牽牛星は昔から天空に美しく輝いていて、その輝きは万民を隈なく照らした。だが、今、我々窮民を照らしてはくれない。かの織女星は日に七たびも機を織っていると聞く。だが、我々の反物を織ってくれるわけではない。又、あの牽牛星だって名ばかりで、牛を牽く処か何物をも運んできてくれない。…群星たちは西都(役人たち)を照らしても東の我々(庶民)を見捨てゝいる。まるで王や宮廷人たちと変わりない。あゝよき昔を偲んでさめざめ泣いていることよ≫、という政治風刺詩なのである。大昔から政治が万民のためになり、庶民が政治家をこぞって褒め称えた例はなかったようだ。──聖武天皇が七夕の宴を催したのは、当時天変地異が頻発している責めを我にあり、として「朕が訓道明らかならざるによる」と自戒する意があったに違いない。我が宰相や政治家たちや如何? 尚、「詩経」は中国最古の詩集で、殷の時代から春秋時代の歌謡を集めたもの。孔子が編纂したとされる。

∇現代流布する七夕伝説の雛形ができたのは南北朝・梁の時代(502年~557年)といわれる。昭明太子が周から梁に至る千年間の詩文集である「文選」を編んだ。その「古詩十」に、「遥か彼方に牽牛星があり、こちらには織女星が浩々ときらめく。織女が終日華奢な手でせっせと機を織るがあやができあがらず、涙零(お)つること雨の如し」とある。そして「天の河は清く澄み浅く、その上、相去る距離はしれたもの。なのにじっと見交わすだけで、語ることを得ず」と続く。明らかに牽牛星と織女星の恋物語が背景にある。梁の時代の「荊楚歳時記」に次のような七夕話があるという。「天の河の東に天帝の子で織女という姫がいた。年々機織りの仕事をし、織った布は綿の雲となり、天衣となった。天帝は娘の独り身を哀れみ 河の西の牽牛との結婚を許した。ところが織女が嫁いだ後はさぼったため、機織りの仕事は廃れ、天帝は怒って河の東に帰らせた。ただ、毎年七月七日の夜に河を渡って逢うのが許された」と。我が国では、万葉集に「牽牛は織女と天地の別れし時ゆ……」(1520)とか、「天の川楫の音聞こゆ彦星と織女と今夕あふらしも」(2029)「一年に七夕のみ逢う人の恋も尽きねば……」(2032)などとあって、8世紀半ばには七夕伝説が伝わっていたようだ。そしていつしか民間の婦女たちの間に、七月七日の夕には香花を供え、竿の端より五色の糸をかけ、札に願い事を吊るす「七夕祭り」として各地に広まった。3年のうちにその願い事は必ず叶う、という曰く付きで。……

∇「史記」・太史公自序に曰く、「之を毫釐(ごうり=微細なこと)に失すれば、差(違)うに千里を以てす」と。まさしくこの易緯の言葉の如く、世の中の大事件は、たいがい毫釐なる食い違いが発起点となっている。慎まざるべからず。──思えば8年間にわたる日中戦争も、1937年、盧溝橋付近に於ける風はなく月のない七夕の闇夜の“第一発”が文字通り事件の引き金になった。日本軍側は中国軍が発砲したと主張し、中国側はそもそも中国兵営近くで示威的夜間訓練を行うこと自体が不当で、又、発砲の事実はないと反論した。昭和史最大の謎の一つとされる「第一発の犯人は誰か」については幾多の論争がなされ、書籍も汗牛充棟ある。盧溝橋事件研究の第一人者・秦郁彦の「昭和史の謎を追う」(文春文庫)によれば、「日本側だとする説」では、支那駐屯軍、特務機関、或いは浪人など個人的陰謀説まである。「中国側とする説」には西北軍閥説、国民政府の謀略機関・藍衣社説、中国共産党説、そして日本軍の夜間演習を眼前に見た下級幹部ないし兵士が錯覚か恐怖にかられて発砲したという偶発説などがあるという。

∇何れも確証を得ていない。問題は「第一発」後にあった。実は「(事件の)4日のちの7月11日には、中国側は盧溝橋の引渡し、代表者の陳謝、責任者の処罰、抗日団体の取締りなどの日本側の要求を全面的に受け容れて、現地協定が調印された」(「昭和史」岩波新書)のである。この現地協定案を一蹴したのが国内強硬論派に押された近衛内閣で、協定調印と同日の11日、この事件を「北支事変」と称し、本国からの派兵措置を含む強硬声明が発表された──。中国全土に広がり始めた抗日・排日運動と侵略にはやる陸軍参謀本部。一触即発の危機は既に毫釐に失する兆しを孕んでいた。老子曰く、「天下の難事は、必ず易きに作(起)り、天下の大事は、必ず細に作る」(第64章)と。又、韓非子曰く、「千丈の堤も蟻穴より崩る」(喩老篇)と。時局や世相そして人間の鬱積した心情を解せぬ些事・些言が大事を誘発することを銘記したい。政治家や役人、企業経営陣そして有識者らが不用心に吐いた一言が、政局は勿論、我が国の将来を左右する大事件に発展することを銘記したいものである。今日はこゝまで。


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