残照日記

晩節を孤芳に生きる。

裁判員制度

2010-12-19 08:14:10 | 日記
<子曰く、衆これを悪(にく)むも必ず察し、衆これを好むも必ず察す。>(衛霊公篇)──孔子が言うには、「私は大勢の者があいつは悪人だと、悪口をいっていても必ず調べてみるし、逆にあの人は善人だと、皆が褒める場合でも必ず自分で確かめてみる」と。

<子曰く、片言(へんげん)以て獄(うったえ)を折(さだ)むべき者は、其れ由なるか。>(顔淵篇)──孔子が言うには、「被告人のほんの一言を聞いただけで訴訟を判決できるのは、まあ由(子路)だろうね」と。“孔門の十哲”の一人で、「政治には子路」といわれただけあって、子路は裁判の名人。即座に名判決を下した。

∇我が国の裁判員制度(「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」)は、2004年5月21日に成立し、昨年5月28日に公布された。既に周知の通り、「裁判員制度」は、国民から無作為に選ばれた裁判員が、殺人、傷害致死などの重大事件の刑事裁判で裁判官と一緒に裁判をするという制度で、立法や行政に比べて国民の関心が薄い、司法の分野への国民参加を狙ったものである。死刑かどうかの究極の選択を求められた裁判は、今年は5件あって、結果は、死刑3件、無期懲役1件、無罪1件だった。報道によれば、裁判員に選ばれた人が裁判所に足を運んだ平均日数は4・0日だったそうだ。

∇この「裁判員制度」は、一審にだけ導入される。従って「二審、三審にも導入しなければその意義は薄れる」として専門家から疑義が投じられている。裁判員制度が適用されるような重大事件は、高裁、最高裁へと控訴、上告されることが予想されるからである。又、この制度は刑事裁判のみに限定されているが、医療裁判、行政裁判等幅広い社会的重大事件にも適用されるべきではないか、とも。その他色々な指摘はあるが、何よりも焦眉の課題は、当該制度に対する国民の参画意識の高揚を図ることが先決だ。近々の世論調査でも、七割の人が「参加したくない」と答えている。裁判員に選ばれた場合、拒絶反応を示す人が多い。

∇その理由は「有罪無罪を判断するのが難しい」「人を裁きたくない」「家庭や仕事に支障が出る」などが挙げられている。人を裁くことの難しさ、被告人やその関係者から報復される恐れ、裁判員に選ばれた場合の家事や仕事への影響が心配だ、というわけだ。老生が選ばれたとしても同様に躊躇するだろうと思う。殊に問題とされるのが、「死刑や否や」を推し量る場合に基準とされる「永山基準」の、個々の事件への適用とその基準自体の当否という点だ。裁判員の一人がこう告白していた言葉を思い出す。<本当に悩みました。今も思い出すと涙を流してしまう>と。

∇「永山基準」とは、毎日新聞「ことば」によれば、<最高裁第2小法廷が83年7月、永山元死刑囚に対する判決で示した。(1)事件の罪質(2)動機(3)事件の態様(特に殺害手段の執拗=しつよう=性、残虐性)(4)結果の重大性(特に殺害された被害者の数)(5)遺族の被害感情(6)社会的影響(7)被告の年齢(8)前科(9)事件後の情状--を総合的に考慮し、刑事責任が極めて重大で、やむを得ない場合に死刑も許される、とした。>──素人の裁判員にとって「 刑の量定」判断が至難であると共に、「自白の任意性」「合理的疑い」「未必の故意」等、難解な法廷用語への理解が僅か4、5日の参画で可能なのかは疑問が残る。

∇「日本書紀」の時代には、身分を偽る者には、「盟神探湯」(くがたち)という神事で人の正邪が裁けた。<諸人は木綿のタスキをして、お湯がぐら/\煮立つ鍋に手を入れさせた。すると誠実な者は何事もなく、不実な者は皆火傷した。すると身分を偽る者は愕然として手を入れることさえできなかった。爾後、氏姓が自ずから定まり、一切偽る者がいなくなった。>。大岡越前守は機知を以て裁いた。実子と言い張る実母・継母に子供の手を両側から引かせ、勝った方に子供を渡す。痛がって泣く子を見て思わず実母は手を離した。(「実母継母の子供争」)<裁きは天の為すこと>と言ったのはイエス。老子も「常に司殺者ありて殺す」とした。事件の内容が複雑化した現代、「人が人を裁く」のは容易でない。──逸話をひとつ。

∇大岡忠相の先輩格に、裁決明断を以て知られた京都所司代・板倉重宗がいた。徳川家康の信任厚かった勝重の長男である。職にあること30年余、新井白石が<人の慕ふこと神明の如く、愛することまた父母に似たり。>と「藩翰譜」に書いた程の人物であった。重宗が職にある間、彼は毎日決断所に出る前に、西に面している廊下で遠くの方に向かって拝礼するのが常だった。そして決断所には茶臼を一つ据えて置き、明り障子を閉めて座り、自分で茶を点てて訴訟を裁いた。後にその故を尋ねられると、<教養ある立派な人物なら心を動揺させない度量をもっているが、未熟な自分にはそれができない。だから茶を牽き、一服して心を鎮める。その後やっと訴訟を裁くことができる。又、明り障子を締めて訴訟を聞くのは、相手の面貌に惑わされないためである。

∇一般的にいって、人の顔かたちを見ると、憎憎しげな者あり、可愛そげな者あり、正直そうな者あり、怪しげな者ありで、見た目で心が動いてしまい裁決に正鵠を得ない。実際は外れることも多い。人の心を容貌で決めてしまうことは出来ない。古人はその人の顔色を見て、それで裁いたといわれているが、明徳至誠の人なればこそだ。私如きは見るところに囚われて先入観念に因ってしまう。だから座席を明り障子で隔てて聞くことにしているのである>と。教え深い逸話である。──孔子ならどうするか。子曰く、<法廷で訴えを聞くということに関しては、私も他の人と同じ能力しかもたないだろう。それよりも私はもっと別な根本的なこと、すなわち訴訟をなくすことに尽力したい。>と。(顔淵篇)まさしくそうなのだが、それこそ至難を極める事ではある。嗚呼!

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