≪大和には/群山あれど/とりよろふ/天の香具山/登り立ち/国見をすれば/国原は 煙立ち立つ/海原は/かまめ(鴎)立ち立つ/うまし国ぞ/あきづ島/大和の国は≫(「万葉集」舒明天皇歌──大和にはたくさんの山々があるが、その中でもとりわけ立派なのが天の香具山である。その山に登って、国中を見渡すと、広々した平野には、かまどの煙があちらこちらに立ちあがっている。広い海原には鴎が盛んに飛び交っている。本当に美しくよい国だ この秋津島・大和の国は)
<千葉県佐倉市の高岡新山遺跡から出土した8世紀後半の骨つぼから、人骨と一緒にオオハクチョウの骨1個が見つかった。同市が18日、発表した。市によると、ハクチョウと人骨が古代に一緒に埋葬された例が見つかったのは全国初という。市の担当者は「当時は、ハクチョウなど白い生き物の出現を吉兆とみる特別な思いがあった。なぜ一緒に埋葬されたかや、他の部分の骨がないか詳しく調べたい」と話している。市によると、仏教の影響を受けて畿内で始まったばかりの火葬によって埋葬されていることや、骨つぼが現在の愛知県の窯で作られたことなどから、火葬された人骨は、畿内政権と結び付きが強い集落の首長的立場の人物だったとみられる。>(2/19 時事通信社)
∇<ハクチョウと人骨が一緒に埋葬された>などという話は初めて聞く。<首長的立場の人物>と推定されているそうだが、何とも粋な計らいで、民俗学的にも研究したら面白いだろうな、と思った。尚、ハクチョウにはオオハクチョウとコハクチョウがいる。コハクチョウより一回り大形で、くちばしの黄色い部分が半分より長い点でオオハクチョウを見分けるが、遠くから見ただけでは判別しにくい。我が「21世紀の森と広場」の「千駄堀池」に現れるのはオオハクチョウで、つい先日まで成鳥2羽が睦まじく行動を共にする姿が観察された。──ところで、記事にある<8世紀後半>とはどんな時代か。710年に元明天皇が都を平城京に遷都してから780年までの約70年余が奈良時代。8世紀後半は一般に天平時代ともいう。東大寺大仏開眼が752年、「天平の甍」で知られる唐招提寺・鑑真和上が来日したのが754年、怪僧・道鏡が天皇の寵愛を受けて法王になり、皇位継承を企てて和気清麻呂に阻止され左遷された騒動が770年頃。そして桓武天皇の794年、平安京に遷都されて平安時代へ移行する。……
∇さて、当時の「ハクチョウ」といえば先ずは白鳥伝説」。712年に「古事記」、720年に「日本書紀」が成るが、白鳥伝説は「古事記」が初出である。その「古事記」によれば、倭建命(日本武尊)は父の景行天皇の命をうけて九州南部の熊襲(くまそ)を征討し、無事大和に帰ってくるが、再び東国・蝦夷(えみし)遠征を命じられた。東征では幾多の困難が待ち受けていた。相模国造にだまされて野火の難にあい、また浦賀水道の神に大波を起こされて航行を阻まれる。が、皇子は野火の難では叔母・倭比売命(やまとひめのみこと)から賜った草薙剣(くさなぎのつるぎ)で打ち払ってこれを逃れ、浦賀水道では水難に遭ったが、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水によって死を免れた。その後倭建命は、さらに東進して遂に蝦夷を平定し、山川の荒れすさぶ神々どもを尽く服従させた。東国遠征の目的を果たした倭建命は大和への帰途、甲斐から信濃を越え、信濃の坂の神を平らげ、再び尾張に凱旋した。こゝで将来を契っていた美夜比売(みやずひめ)と結婚した。そして伊吹山の神を討ちに出かけた。
∇この時、倭建命は普段ならいつも腰に帯びている筈の草薙剣を、美夜比売のもとに置いたままでかけた。「この山の神ぐらいは、素手で殺してやろう」と。山に登っていくと大きく白い猪に出逢った。見るからに怪異の貌をしていたが、「どうせこの化け物は伊吹山の神の使いだろう、今殺さなくても、帰りに殺してやろう」そう言って尚も山を登った。すると山の神が激しく雹を降らせて、倭建命をさんざんに痛めた。実は白い猪は伊吹山の神自身であったのだ。甘く見た倭建命が山の神の怒りを買ってしまった。ほう/\の体で倭建命は山を下りた。途中清水で水を飲み、杖をつき、麓の三重の村についた時は、もうへと/\で一歩も進めなくなった。その時、故郷をしのんで歌ったのが有名な、<倭(やまと)は/国のまほろば(すぐれたよい国)/たたなづく(幾重にも重なった)/青垣 山隠(やまごも)れる(青々とした山に囲まれ その中に籠っている)/倭(大和)し 美(うるは)し(おゝ 大和、何と美しい国よ)>。
∇そしてもう一つ「国偲歌」を歌った後、<愛(は)しけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も(おゝ愛しい我家の辺りから、雲が湧きあがってくることよ)>と歌うと、危篤になった。そして臨終の歌を詠み終わると息絶えた。従者たちは早馬で皇子の急逝を朝廷に伝えた。大和にいた倭建命の妃たちや御子たちは、臨終の地、能煩野(のぼの)に下り、御陵を作り、号泣しながら歌を歌った。その時、倭建命の魂は、大きな白鳥となって天空高く翔けり、浜に向かって飛んでいった。……白鳥は、伊勢国からどんどん飛び翔って、河内国の志畿にとどまった。そこで、その地に御陵を作って、倭建命を、おまつりすることにした。その御陵を名づけて、白鳥御陵(しらとりのみはか)という。けれど白鳥は、また空高く翔り去ってしまって、果てしれぬ大空へ、姿を消したのであった。(岩波文庫「古事記」&田辺聖子「古事記」集英社版参考) 時事通信の記事では<市の担当者は「当時は、ハクチョウなど白い生き物の出現を吉兆とみる特別な思いがあった。なぜ一緒に埋葬されたかや、他の部分の骨がないか詳しく調べたい」と話している>とあるが、寧ろ「白鳥伝説」から発生した、<首長的立場の人物>が死去した際の「葬送儀式」だったのではないか?
∇蛇足を一話。かつて松戸市主催の「冬鳥ウォッチング」に参加した。霙混じりの寒い中を欠席者も無く、非常に珍しいゴイサギである「山家の五位(サンカノゴイ)」まで姿を見せてくれて、新春から縁起のよい自然観察会となった。秋篠宮殿下を総裁とし、百三十字という短い文章で朝日新聞の読者を堪能させた「けさの鳥」の執筆者・山岸哲氏を所長とする(財)山階鳥類研究所の鶴見みや古女史が講演と説明役を務めてくれた。講演で面白く思ったのは標識調査で判明したという「鳥の寿命記録表」である。コアホウドリ33年、ウミネコ25年といった想像以上の記録もあるが、アホウドリ17年、コハクチョウ14年、マナヅル9年、キジバト8年、カラス7年、そしてメジロ、ホオジロ、ツバメ、スズメなどが約7年弱、となっている。一見して「一般的に大きい鳥ほど長寿命だと言っていいか」と質問したら、「そういう傾向はある。小鳥類では10年以上生きるものはまれで、大型の鳥では海鳥類で長生きするものが多い」と返ってきた。
∇咄嗟に本川達雄著「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書)が思い浮かんだ。物理的寿命は体重の1/4乗に比例する──分かり易くいえば体重が16倍になると寿命は2倍になる、という法則のことである。確かに統計表でアホウドリやコハクチョウは小鳥類の2倍の寿命を持っているが、体重は16倍以上ありそうな気がする。一方で本川博士は、サイズとエネルギー消費量の関係か、大きい動物ほど、体重の割にはエネルギーを使わない、換言すれば「一生に使うエネルギー量は、体重1kgあたりからすると、寿命の長さによらず一定である」ことを数式で示した。さらに、物理的時間で測ればゾウは100年生き、ネズミは数年の寿命しかないので、ゾウはネズミよりずっと長寿だが、哺乳類ではどの動物でも、一生の間に心臓は二十億回打つという「心拍数一定の法則」をもとに、心臓の拍動を時計とした生理的時間で考えるならば、「ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ生きていることになるだろう」と述べる。──以上から推論された本川流人生の達観は、「短い命は激しく燃え尽きるということか」(同著)であった。
∇鳥獣は成長することが早く、人間は遅い。本居宣長もこの事実に基づいて面白い見解を述べている。曰く、<かの成長することの速やかなる鳥獣などは命短く、人は遅くて命長きを以って見れば、世の模様の移り変われること早きところはその国の命短く、移り変わることの遅き国は存すること永久なるべし>(「玉くしげ」)。すなわち優れたものは変化することが遅いのが道理で、急成長するものは没落するのも速やかだ、と。激しく燃えれば一生のエネルギーを使い果たして寿命は短く、物事はすべて急成長すれば凋落するのも早い。言えることは、吉田松陰が「留魂録」で述べているように、二十歳には二十歳の、百歳には百歳の春夏秋冬がある、ということだ。寿命は天の定めであるが、生き方としては、ある目標をもって燃えつくすのか、或いは人生を達観して担蕩蕩と過ごすのか、人それぞれに選択の余地が残されている。──「冬鳥ウォッチング」に参加しながらそんなことを考えていたが、今回の<ハクチョウと人骨が一緒に埋葬された>発見も、その昔を辿れば、この世知辛い当世を忘れさせる別世界“壺中の天”が詰まっているのかも……。
<千葉県佐倉市の高岡新山遺跡から出土した8世紀後半の骨つぼから、人骨と一緒にオオハクチョウの骨1個が見つかった。同市が18日、発表した。市によると、ハクチョウと人骨が古代に一緒に埋葬された例が見つかったのは全国初という。市の担当者は「当時は、ハクチョウなど白い生き物の出現を吉兆とみる特別な思いがあった。なぜ一緒に埋葬されたかや、他の部分の骨がないか詳しく調べたい」と話している。市によると、仏教の影響を受けて畿内で始まったばかりの火葬によって埋葬されていることや、骨つぼが現在の愛知県の窯で作られたことなどから、火葬された人骨は、畿内政権と結び付きが強い集落の首長的立場の人物だったとみられる。>(2/19 時事通信社)
∇<ハクチョウと人骨が一緒に埋葬された>などという話は初めて聞く。<首長的立場の人物>と推定されているそうだが、何とも粋な計らいで、民俗学的にも研究したら面白いだろうな、と思った。尚、ハクチョウにはオオハクチョウとコハクチョウがいる。コハクチョウより一回り大形で、くちばしの黄色い部分が半分より長い点でオオハクチョウを見分けるが、遠くから見ただけでは判別しにくい。我が「21世紀の森と広場」の「千駄堀池」に現れるのはオオハクチョウで、つい先日まで成鳥2羽が睦まじく行動を共にする姿が観察された。──ところで、記事にある<8世紀後半>とはどんな時代か。710年に元明天皇が都を平城京に遷都してから780年までの約70年余が奈良時代。8世紀後半は一般に天平時代ともいう。東大寺大仏開眼が752年、「天平の甍」で知られる唐招提寺・鑑真和上が来日したのが754年、怪僧・道鏡が天皇の寵愛を受けて法王になり、皇位継承を企てて和気清麻呂に阻止され左遷された騒動が770年頃。そして桓武天皇の794年、平安京に遷都されて平安時代へ移行する。……
∇さて、当時の「ハクチョウ」といえば先ずは白鳥伝説」。712年に「古事記」、720年に「日本書紀」が成るが、白鳥伝説は「古事記」が初出である。その「古事記」によれば、倭建命(日本武尊)は父の景行天皇の命をうけて九州南部の熊襲(くまそ)を征討し、無事大和に帰ってくるが、再び東国・蝦夷(えみし)遠征を命じられた。東征では幾多の困難が待ち受けていた。相模国造にだまされて野火の難にあい、また浦賀水道の神に大波を起こされて航行を阻まれる。が、皇子は野火の難では叔母・倭比売命(やまとひめのみこと)から賜った草薙剣(くさなぎのつるぎ)で打ち払ってこれを逃れ、浦賀水道では水難に遭ったが、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水によって死を免れた。その後倭建命は、さらに東進して遂に蝦夷を平定し、山川の荒れすさぶ神々どもを尽く服従させた。東国遠征の目的を果たした倭建命は大和への帰途、甲斐から信濃を越え、信濃の坂の神を平らげ、再び尾張に凱旋した。こゝで将来を契っていた美夜比売(みやずひめ)と結婚した。そして伊吹山の神を討ちに出かけた。
∇この時、倭建命は普段ならいつも腰に帯びている筈の草薙剣を、美夜比売のもとに置いたままでかけた。「この山の神ぐらいは、素手で殺してやろう」と。山に登っていくと大きく白い猪に出逢った。見るからに怪異の貌をしていたが、「どうせこの化け物は伊吹山の神の使いだろう、今殺さなくても、帰りに殺してやろう」そう言って尚も山を登った。すると山の神が激しく雹を降らせて、倭建命をさんざんに痛めた。実は白い猪は伊吹山の神自身であったのだ。甘く見た倭建命が山の神の怒りを買ってしまった。ほう/\の体で倭建命は山を下りた。途中清水で水を飲み、杖をつき、麓の三重の村についた時は、もうへと/\で一歩も進めなくなった。その時、故郷をしのんで歌ったのが有名な、<倭(やまと)は/国のまほろば(すぐれたよい国)/たたなづく(幾重にも重なった)/青垣 山隠(やまごも)れる(青々とした山に囲まれ その中に籠っている)/倭(大和)し 美(うるは)し(おゝ 大和、何と美しい国よ)>。
∇そしてもう一つ「国偲歌」を歌った後、<愛(は)しけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も(おゝ愛しい我家の辺りから、雲が湧きあがってくることよ)>と歌うと、危篤になった。そして臨終の歌を詠み終わると息絶えた。従者たちは早馬で皇子の急逝を朝廷に伝えた。大和にいた倭建命の妃たちや御子たちは、臨終の地、能煩野(のぼの)に下り、御陵を作り、号泣しながら歌を歌った。その時、倭建命の魂は、大きな白鳥となって天空高く翔けり、浜に向かって飛んでいった。……白鳥は、伊勢国からどんどん飛び翔って、河内国の志畿にとどまった。そこで、その地に御陵を作って、倭建命を、おまつりすることにした。その御陵を名づけて、白鳥御陵(しらとりのみはか)という。けれど白鳥は、また空高く翔り去ってしまって、果てしれぬ大空へ、姿を消したのであった。(岩波文庫「古事記」&田辺聖子「古事記」集英社版参考) 時事通信の記事では<市の担当者は「当時は、ハクチョウなど白い生き物の出現を吉兆とみる特別な思いがあった。なぜ一緒に埋葬されたかや、他の部分の骨がないか詳しく調べたい」と話している>とあるが、寧ろ「白鳥伝説」から発生した、<首長的立場の人物>が死去した際の「葬送儀式」だったのではないか?
∇蛇足を一話。かつて松戸市主催の「冬鳥ウォッチング」に参加した。霙混じりの寒い中を欠席者も無く、非常に珍しいゴイサギである「山家の五位(サンカノゴイ)」まで姿を見せてくれて、新春から縁起のよい自然観察会となった。秋篠宮殿下を総裁とし、百三十字という短い文章で朝日新聞の読者を堪能させた「けさの鳥」の執筆者・山岸哲氏を所長とする(財)山階鳥類研究所の鶴見みや古女史が講演と説明役を務めてくれた。講演で面白く思ったのは標識調査で判明したという「鳥の寿命記録表」である。コアホウドリ33年、ウミネコ25年といった想像以上の記録もあるが、アホウドリ17年、コハクチョウ14年、マナヅル9年、キジバト8年、カラス7年、そしてメジロ、ホオジロ、ツバメ、スズメなどが約7年弱、となっている。一見して「一般的に大きい鳥ほど長寿命だと言っていいか」と質問したら、「そういう傾向はある。小鳥類では10年以上生きるものはまれで、大型の鳥では海鳥類で長生きするものが多い」と返ってきた。
∇咄嗟に本川達雄著「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書)が思い浮かんだ。物理的寿命は体重の1/4乗に比例する──分かり易くいえば体重が16倍になると寿命は2倍になる、という法則のことである。確かに統計表でアホウドリやコハクチョウは小鳥類の2倍の寿命を持っているが、体重は16倍以上ありそうな気がする。一方で本川博士は、サイズとエネルギー消費量の関係か、大きい動物ほど、体重の割にはエネルギーを使わない、換言すれば「一生に使うエネルギー量は、体重1kgあたりからすると、寿命の長さによらず一定である」ことを数式で示した。さらに、物理的時間で測ればゾウは100年生き、ネズミは数年の寿命しかないので、ゾウはネズミよりずっと長寿だが、哺乳類ではどの動物でも、一生の間に心臓は二十億回打つという「心拍数一定の法則」をもとに、心臓の拍動を時計とした生理的時間で考えるならば、「ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ生きていることになるだろう」と述べる。──以上から推論された本川流人生の達観は、「短い命は激しく燃え尽きるということか」(同著)であった。
∇鳥獣は成長することが早く、人間は遅い。本居宣長もこの事実に基づいて面白い見解を述べている。曰く、<かの成長することの速やかなる鳥獣などは命短く、人は遅くて命長きを以って見れば、世の模様の移り変われること早きところはその国の命短く、移り変わることの遅き国は存すること永久なるべし>(「玉くしげ」)。すなわち優れたものは変化することが遅いのが道理で、急成長するものは没落するのも速やかだ、と。激しく燃えれば一生のエネルギーを使い果たして寿命は短く、物事はすべて急成長すれば凋落するのも早い。言えることは、吉田松陰が「留魂録」で述べているように、二十歳には二十歳の、百歳には百歳の春夏秋冬がある、ということだ。寿命は天の定めであるが、生き方としては、ある目標をもって燃えつくすのか、或いは人生を達観して担蕩蕩と過ごすのか、人それぞれに選択の余地が残されている。──「冬鳥ウォッチング」に参加しながらそんなことを考えていたが、今回の<ハクチョウと人骨が一緒に埋葬された>発見も、その昔を辿れば、この世知辛い当世を忘れさせる別世界“壺中の天”が詰まっているのかも……。