残照日記

晩節を孤芳に生きる。

へそくり

2010-11-22 08:53:33 | 日記

○妻の居ぬ 庭に番(つがい)の 目白かな  楽翁

<妻は夫の約3倍の金額のへそくりをためている――。いい夫婦の日(11月22日)にちなんで、明治安田生命保険が実施したアンケートでこんな結果が出た。夫のへそくりは4年前より約2割減る一方、妻は3割以上増えた。同社は「将来への不透明感が増すなか、妻が不安を感じてためているのでは」とみている。>(11/22 朝日新聞)

∇調査は、20~50代の既婚男女を対象に行なったもので、へそくりがある人は45.3%。平均額は夫が約35万円に対し、妻は99万円だったという。このへそくりが「誰のために、何の不安に備えて」貯めているのかを知りたいのだが、残念ながらアンケートはそこまで突っ込んでいない。夫婦お互いの遊興費のためだとしたら、ガッカリもいいところだ。ところで、私事だが、この22日は妻が死去して4ヶ月目。我が亡妻は、へそくり上手で、山内一豊の妻に劣らぬ賢婦だった。“いい夫婦の日”、しみじみ生前の家内の「内助の功」を思い、その恩恵を深く感謝している。

∇余談ながら山内一豊の妻の話を一席。──逸話の初出は新井白石の「藩翰譜」である。「藩翰譜」は、白石(1657~1725)が、後の6代将軍徳川家宣の命を受けて元禄15年に脱稿した一万石以上の諸侯337家の伝記・沿革を記したものである。著者45歳の才徳充実期の著作だけに気迫に満ちた名文章で各家の数々の逸話が要所を押さえて盛られている。一豊の妻の話は「藩翰譜」の記述をもとに大いに流布し、儒学者・湯浅常山(1708~1781)の「常山紀談」をはじめ、明治時代には元田永孚謹撰による宮内省蔵版「幼学綱要」にも夫婦和順の代表的逸話として取り上げられた。

∇「藩翰譜」をもとに、逸話を忠実に訳すと次の通りである。──<昔、一豊が織田信長に出仕した初めに、東国一の名馬だと言って安土に引き来て馬を商う者がいた。織田家の家来達がこれを見ると、誠に無双の名馬だ。だが値段があまりに高くて、買うことのできる者は一人もなく、馬商人は空しく引いて帰ろうとした。その頃一豊は猪右衛門と言ったが、この馬を欲しいと思ったが買うことはどうしてもできない。家に帰って「世の中に貧乏ほど口惜しいことはない。自分は仕官の初めだ。これほどの馬に乗って殿様に見参できたら、殿のお褒めに預かろうものに」と。

∇妻はそれを聞いて「その馬の値段はどのくらいですか」と聞いた。「黄金十両といっていた」。すると妻は「それほど買いたいとお思いなら、その馬をお買いなされ。値をば私が差し上げましょう」と言って鏡を入れる箱の中から黄金十両を取り出して差し出した。一豊大いに驚いて、「ここ数年、貧しく苦しきことのみ多かったのに、こんな大金があるとも知らせなかった。いかに心強く隠し置いたことよ。まさかこの馬を買えるとは思いもよらなかった」と一方では喜び且つ恨んだ。妻が言うには、「おっしゃることはごもっともでございますが、このお金は私の父がこの家に嫁いで来た時に、下さったもの。

∇この鏡の下にお入れ下さり、『よくお聞き、この金は決して世間一般のことに使ってはいけない。お前の夫の一大事がある場合に使いなさい』とて頂いたものです。ですから家が貧乏で苦しむなどということは世間の常です。そんなことはどのようにでも我慢しても過ぎてしまいます。本当かどうかは知りませんが、この度京都にて御馬揃があるだろうと聞いております。もしそうであるならば、天下の見物です。貴方は仕官の初め、こんな時でなくては殿にも朋輩にも見知られるべき機会もありませぬ。良き馬に乗って見参されますようにと思えばこそ、このお金を差し上げます」と。一豊は即刻その馬を買い求めた。

∇程なく都で馬揃があった時、信長公がこの馬を御覧になって大いに驚き、「あっぱれなる名馬じゃ。誰の馬か」と仰せられた時に臣下の者が「これは東国第一の馬だと言って商人が引いて参ったのですが、余りに価格が高いため誰も買うことが出来ませんでした。商人が空しく帰るはずのところを山内が買い得たのであります」と言った。信長公はそれを聞かれ、「値段の高い馬である。今日天下に信長の家中でなければ買うことの出来る人はおるまいと思って、奥州からはるばる出かけて来たのを空しく帰したならば無念の至りだ。山内とやらは年久しく浪人であったと聞く。家もさぞ貧乏であろうに、その馬を買い得た事の神妙さよ。しかもそのことによって信長の家の恥をも清め、同時に武士としての心がけが非常に深いことよ」と感心なされること並々でなかった。これより山内は次第に出世したということである>。──

∇巷間流布する話では、一豊の妻・千代の「内助の功」が金銭的な部分のみ取り上げられているが、「藩翰譜」が次の書き出しから始まっていることを見逃してはいけない。<慶長五年秋、徳川家康公が上杉景勝を追討の時、山内一豊は先陣にいて、下野宇都宮に至った。こうした中、京都方面に謀反の兵が起こった。各国の飛脚が到来して事の急を告げたのだが、事件の様子がはっきり分からず、妻子や家臣を大坂においた他の大名たちは慌てふためいた。一豊だけは慌てなかった。一豊の妻が相当な賢夫人であったから、物の役に立つ家臣を送ってよこしたので、詳細を知ることができたからである>と。 一豊の妻が、「へそくり上手」だけではない才媛であったことを物語っている。


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