残照日記

晩節を孤芳に生きる。

中庸と狂狷(4)

2011-11-13 15:50:05 | 日記
【「中庸」と「権」】 尽心上章
≪孟子曰く、楊子は我が為にするを取る。…墨子は兼愛す。…子莫(しばく)は中を執る。中を執るはこれに近しと為すも、中を執りて権すること無ければ、猶、一を執るごときなり。≫(孟子が言うには、楊子という学者は自利主義(極端な個人主義)を主張し、墨子は兼愛主義(誰も彼も同じように愛す≒博愛主義)を主張した。子莫(魯国の賢人とされるが、よくは分らない)は、この二人の中間を執った。そのことは「道」に近いものと言えるが、いつも「中間」を執って、「権」即ち、T・P・Oに応じて臨機応変の措置を執るのでなければ、一に固執して融通がきかないのと同じになってしまう、と。)

∇楊子が言うような、“自分さえよければ”という自利(利己)主義では、社会は成り立たない。かといって、“誰彼と無く平等に”博愛する社会へと、墨子が主張する兼愛主義は立派だが、現実的にその実現は難しい。されば両者の考えの「中間」を執って、自利・利他のバランスを執ろうと主張するのが子莫だが、「権」(=臨機応変の軽重を測るものさし)が無ければ、間違った「程よさ」に固執してしまい、結局、真の「中」にはならない。──孟子はそういうのである。卑近な現実を例示しよう。たとえば先日、東日本大震災の復興費用をまかなうための臨時増税のうち、所得増税の期間を25年にすることで、民主と自民、公明の3党が合意した。経緯としては、政府・民主党の当初案は10年だったが、公明党の意見を受けて15年になり、自民党の主張をいれてさらに10年延びた。三党の「中」を執って合意で「シャン/\」となったが、これは、真の「中庸」的合意ではない。

∇東日本大震災の復旧・復興に臨時増税が必要なことに異論のある国会議員は現在、皆無であろう。しかも、可能な限り将来の世代に負担を先送りしないことが臨時増税の必要条件であることも 。そこで1年あたりの増税額を抑えるため当初案は、増税期間を10年とした。ところが与野党共に「次の選挙」が気になり、いざ国民に負担増を求める段階で、決断に躊躇した。そこで公明党の意見を入れて15年になり、さらに自民党の意見を入れて結局25年に……。子莫流の「中」とはこのようなものを言う。しかし所得増税25年は長すぎないか?! 三党は「中」して互いに安堵の胸を撫で降ろしたようだが、国民の負担増への「中」、即ち将来の世代につけ回し=借金の“先送り”はもうとうに限界状況にある。財政の悪化に歯止めをかけられるぬ場合は、欧州の財政危機の二の舞を踏むこと必定だ。「中」とは、互いが都合よく合意することではない。いかなる場合にもT・P・O(時・所・状況)に適中することこそが「中庸を得る」ということの真意である。

∇もう一つ例示する。野田首相がきのう、環太平洋経済連携協定(TPP)の≪交渉への参加に向けて、関係国との協議に入る≫(首相会見)考えを表明した。「交渉参加」ではなく、≪交渉への参加に向けて、関係国との協議に入る≫という表現で、まず党内の反対派の空気が一変した。曰く、≪ほっとした。交渉参加ではなく、事前協議に止まってくれた。≫(山田前農林水産相)、≪私達の意図する通り、総理は結論を出していない。そのこと自体が答だ。≫(原口元総務相)と。TPP反対を訴えて離党騒ぎまで勃発した騒動が、あっけないくらいに収まった。何てこと無い、参加の是非を明言せず「先延ばし」した「言い方」に変えただけの話。TPP参加に反対する農業関係団体や医療・金融・保険等の業界に、反対を強く表明するパフォーマンスを見せることで一応の顔向けが出来、どうせ集団離党などしたくない、又離党したら、うまくいって野党議員になるだけという民主党議員の自己防衛主義と、首相を旗頭とする推進派の馴れ合い的「中」が、党内のみかけバランスを保持した例である。真の「中庸」、即ち、TPPの本質、真の国益への是非は置き去りにされたまゝで…。朝日新聞の今朝の社説ではないが、≪TPP交渉へ―何もかも、これからだ≫。最終回の次回は「狂狷」について。