残照日記

晩節を孤芳に生きる。

中庸と狂狷(2)

2011-11-11 13:54:59 | 日記
【過ぎたるは猶(なお)及ばざるがごとし】(「論語」先進篇)
≪子貢問う、師と商とは孰(いず)れか賢(まさ)れる。子曰く、師や過ぎたり、商や及ばず。曰く、然らば則ち師は愈(まさ)れるか。子曰く、過ぎたるは猶及ばざるがごとし。≫( 孔子の高弟である子貢が、「師[子張]と商[子夏]とはどちらが勝れていますか。」と訊ねた。孔子は「師は行き過ぎている、商は行き足りない。」と言った。「それでは師が勝っているのですか」と言うと、孔子は「行き過ぎるのは、行き足りないのと同じようなものだ。」と答えた。)

∇宋学の集大成者で「朱子学」を樹立した朱熹は、「中庸」を、≪偏倚せず、可不及がなく、平常であるところの意≫と解した。(「中庸章句」) 偏倚(かたよること)も、可不及(程度を過ぎたり、程度に達しなかったりする≒過不足)もない、即ち、いずこにもかたよらず、適度で丁度よいことを踏み行なうことだ、と。「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」は、「中庸」に外れた「行き過ぎ」をとがめだてする。伊達政宗家の「壁書」(法令、掟)は、そのよき事例訓である。曰く、≪仁に過れば弱くなる。義に過れば堅くなる。礼に過れば諂(へつらい)となる。智に過れば嘘をつく。信に過れば損をする。気長く心穏やかにして、萬に倹約を用て金銭を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり。この世の客に来たと思へば何の苦労もなし。朝夕の食事うまからずとも、ほめて食ふべし。元来客の身なれば好嫌は申されまじ。今日の行をおくり、子孫兄弟によく挨拶をして、娑婆の御暇申すがよし。≫と。

∇儒教では、人の常に守るべき五つの道徳として、仁・義・礼・智・信があるとし、「五常」と称した。伊達政宗の「壁書」は、この「五常」は大切だが、行き過ぎてはいけない、と説く。行過ぎると、仁は弱虫に、義は堅物に、礼は諂い者に、智は嘘つきに、そして信は損を招くと。徳川家康の「遺訓」は、「行き過ぎ」を「行き足りない」のよりもっと悪いと戒めた。曰く、≪人の一生は、重荷を負いて遠き道をゆくが如し。いそぐべからず。不自由を常と思へば不足なく、心に望おこらば、困窮したる時を思ひ起こすべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば、害其の身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。≫と。政宗も家康も、人は「中庸」を心掛けるべきだが、それが出来ないならば、「過不足」「可不及」のうち、不足・不及の方に偏れ、と言っているのである。

∇さて、≪子曰く、中庸の徳たるや、それ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。(孔子が言うには、「中庸の道徳としての価値は、まさに最上だね。だが人民の間にとぼしくなって久しいことだ」と。)≫(雍也篇) 処世法の極致は「中庸を得る」ことを知ることだが、その実践はそう簡単ではない。「中庸」について論じたのは孔子だけではない。先述したように、古代ギリシアの哲学者・アリストテレス(紀元前384~322)もその著書「ニコマコス倫理学」で「中庸」の重要性を力説している。。曰く≪倫理的卓越性すなわち徳とは中庸である。(中略)すべてにおいて「中」的な状態が賞賛に値する。だが、われわれは時として超過の方へ、また時としては不足の方向へ傾いていることを要する。かくすることによってわれわれはかえって最もたやすく「中」すなわち「よさ」に適中することになるであろうから。…≫、と。(岩波文庫版)

∇朱子は「中庸」を「不偏不倚」としたが、我々は一般的にそれを「極端に過ぎないこと」「バランスのよい」「ほど/\」の意に用いる場合が多い。アリストテレスの「中」ももとはそういう意味を含んでいるが、≪われわれは時として超過の方へ、また時としては不足の方向へ傾いていることを要する。≫の文章に注目したい。孔子の孫である子思(しし)の著したとされる「中庸」に、驚くほど近い哲理を蔵している。子思は「中庸」の中で、≪君子の中庸は、君子にして時に中す≫とか、≪天下国家を平治したり、爵禄を辞したり、敵陣に白刃を恐れず命を張って踏み込むことは確かに難事であるが、中庸を貫き通すことはもっと難しい≫と言っている。実はこの「時に中す」がキーワードで、いかなる場合にもT・P・O(時・所・状況)に適中することこそが「中庸を得る」ということの真意である。アリストテレスの≪時として超過の方へ、時としては不足の方向へ傾いていること≫が、寧ろ中庸実践上の「的中」に当る。「中庸と狂狷」が同一概念に帰結することを次回以降更に論及してみよう。