残照日記

晩節を孤芳に生きる。

ヘロドトス回顧

2011-11-02 16:14:04 | 日記
【温故知新】(「論語」為政篇)
≪子曰く、故きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし。≫ (孔子が言うには、「歴史に習熟し、現実の問題を認識する。それでこそ人の師となれる」と。)

∇ユーロ圏でのギリシャ支援策が決まり、やっと前に歩みだした、と安堵したのも束の間、突然パパンドレウ首相が支援受け入れの是非を「国民投票」で問う、と発表した。ギリシャの財政危機への懸念が高まったことから、2日午前の東京株式市場は、ほぼ全面安の展開となった。 明日開幕の主要20カ国・地域(G20)首脳会議(サミット)にも大きな影響を及ぼす。今日緊急に、独仏両主脳が、パパンドレウ首相と対応を協議することになった。≪国民投票で受け入れ反対が多数を占めれば、国家破綻(債務不履行=デフォルト)や、ユーロ圏からの離脱の可能性も出てくる。 ロイター通信などによると、パパンドレウ首相は与党議員を前に「国民が自分たちのことを決める。それが民主主義のやり方だ。私は国民の判断を信じる」と述べた。実施には国会の承認が必要。…首相にとっては大きな賭けだ。 ギリシャは、厳しい緊縮策で不況が深刻になり、抗議のデモやストが頻発。野党の抵抗も強い。政府には、国民の合意を一度得なければこれ以上の緊縮策を打ち出せないという危機感があるとみられる。≫(11/1 朝日新聞)

∇ 古代ギリシャの政治について、紀元二世紀後半に活躍したアイリアノスが「ギリシャ奇談集」(岩波文庫)でこう述べている。≪アテナイ人は国制の面では非常に移ろいやすく、何よりも変革というものに気質がよく合っていた。(かつては)上手に王制に耐え、ペイシストラスト一族の時代には僭主制を経験し、400人による支配に至るまでは貴族制を採用した。その後、10人の市民が一年ずつ国を治める形態もとったし、最後には30人政権樹立の頃の無政府状態でもあった。こんな猫の目のように考え方が変わるのを褒めるべきかどうか、筆者には判断できない。≫と。折角苦労してユーロ圏が合意に漕ぎつけた支援策を、ギリシャ自身が受け入れるのか否か。古代アテナイ人のDNAを受けついだせいか、現代ギリシャ人のコロ/\変わる≪気質≫が、欧州連合にそして世界市場に不信感を投じている。事の重大性を認識する冷静さを取り戻せるのかどうか。ヘロドトスが「歴史」に描いた紀元前5、6世紀頃のギリシャ人たちは、賢明だったようだが……。

∇小アジアを征服したクロイソス王の絶頂期、当時の名士たちが続々王宮を訪れた。ギリシャの賢人・ソロンもその一人だった。王はソロンを歓待し、宝庫の財宝をことごとく見せた上で、「この世界で誰が最も幸福な人間か」と問うた。自分こそ一番だと答えるのを期待して尋ねたのだが、意外にも、ソロンはアテナイのテッロスだと答えた。理由は、優れた都市アテナイに生まれ、立派な子供に恵まれ、その孫たちも健在であった。その上ギリシャの標準から見て生活は裕福だった。そして隣国との戦いで味方の救援に赴き、敵を敗走せしめた後、華々しく戦死を遂げた。そのため彼は国葬の栄誉を以て戦没の地に埋葬されたからである、と。クロイソス王は次は誰か、と問うた。ソロン曰く、「クレオビスとビトンの兄弟でしょう。彼らは生活にも不自由せず、体力に恵まれて体育競技に優勝しました。又、次のような話が伝わっています。かつてヘラ女神の祭典があった折、彼らの母親を牛車で会場まで連れてゆかねばならないことになりました。ところが不都合が起きて、牛を手当てできない。そこで兄弟二人が牛がわりに車を曳き、十キロの道程を走破して会場に時間通り着いたのです。

∇アルゴスの人々は、この兄弟の体力と、二人を産んだ母親を大いに称賛しました。母親は息子たちの奉仕と、二人の良き評判とをいたく喜んで、神像の前に立ち、かくも自分の名誉を揚げてくれた二人の息子に、人間として得られる最善のものを与えたまえ、と祈ったのです。この祈りの後、諸行事が終わると、息子たちは深い眠りについて、再び目覚めることはありませんでした。アルゴス人は、この二人を最も優れた人間として、銅像を作り、デルポイの神殿に奉納したのであります。」と。クロイソス王は苛立ち、「アテナイの客人よ、私をそのような庶民どもにも及ばぬと申すのか。そなたは私のこの幸福は何の価値もないと思うのか」。ソロンが答えて言った。「クロイソス王よ、私は、神と申すものが妬み深く、人間を困らすことのお好きなのをよく承知しております。人生70年としても、人間の生涯はすべてこれ偶然なのです。莫大な富を保有する者でも、棺(ひつぎ)に蓋をするまでは、はたして幸福であるかどうかは保証しがたいのものです。大きな富はなくても、健康や立派な子供に恵まれ、最後に良い往生を遂げた者こそが最も幸福ではないでしょうか」と。

∇ヘロドトスの「歴史」は、≪ソロンのこの話がクロイソスの気に添うはずはなく、現在ある福を捨ておいて、万物の結末を見よ、などという男は馬鹿者にちがいないと思い込んだクロイソスは、一顧も与えずにソロンを立去らせたのであった。≫(以下も中央公論社版)と書いた。そして更にその後日譚が載っている。その後、クロイソス王は勢いに乗ってペルシャのキュロス王を討つべく兵を進めた。が、キュロス軍の急襲を受けてクロイソスは捕虜となった。かくしてクロイソスは在位14年、攻囲を受けること14日間、遂に大帝国に終止符を打った。キュロス王は巨大な薪の山を積み上げさせ、クロイソスを火あぶりの刑に処した。死に際にクロイソスは、ふとソロンの言った「人間は生きている限り、なんぴとも幸福であるとはいえない」という言葉が、いかに霊感に満ちた言葉であるかということに思い至った。そして深いため息をもらし、悲しみの声をあげ、三度までソロンの名を呼んだ。キュロスはその理由を聞きただした。しつこく尋ねるので、クロイソスは以前ソロンが自分の所に来て、かくかくしかじかといって、一向に自分の富に感心しなかったことの意味が分ったのだと告げた。

∇≪キュロスは通訳からクロイソスの語った話を聞くと、気持が変わり、自分も同じ人間でありながら、かつては自分に劣らず富み栄えたもう一人の人間を、生きながら火あぶりにしていることを思い、さらにはその応報を恐れ、人の世の無常をつくづくと感じたので、燃えている火をできるだけ早く消し、クロイソスと彼の道連れの子供たちを降ろすように命じたという。家来たちは命ぜられたとおり試みたが、もはや火勢を制することができなかったそうである。≫(「歴史」)──ヘロドトスは、≪アジアの専制支配者の莫大な富と豪奢をきわめた生活に対してギリシャの市民の簡素な生活を対比させ、幸福者の軍配を後者にあげている。≫(ヘロドトス「歴史」の村川堅太郎の解説より) 生活に事欠かぬだけの財産、良い子供と孫、健康、そして公共的条件(名誉の戦死を含むポリスへの貢献)、さらに安らかな死、そうしたものを与えられた人間は幸福者である。つつましい自由な一市民としての生き方、それが前5、6世紀頃のヘロドトス的「幸福者」のイメージだった。某国際報道エディターが喝破した≪欧州連合の補助金や低利の借金を享受しながら、公務員天国や税金逃れを放置し、産業育成を怠ったつけが回るギリシャ。≫ 今こそ“温故知新”の時ではないか。