残照日記

晩節を孤芳に生きる。

津波防災の日

2011-11-06 14:49:06 | 日記
≪津波防災の日、岩手で初訓練…宮城、福島行えず──国が今年から定めた「津波防災の日」の5日、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた岩手県などで防災訓練が行われた。宮城、福島県では「震災対応が一段落しておらず、手が回らない」(宮城県名取市)などとして実施されなかった。津波防災の日は、1854年11月5日(旧暦)の安政南海地震で、稲束に火をつけて村人を高台に導いた村があったことにちなみ、6月に成立した津波対策推進法で位置づけられた。…≫(11/5 読売新聞)

∇今月3日に、震源地が茨城県南部で、震度4のやゝ強い地震があった。東京、神奈川、埼玉と広い範囲で震度3を記録し、「巨大地震の予兆か」などと一部の報道で騒がれた。忘れかけはじめていた頃合の、タイムリーな警鐘と捉えよう。死傷者約2万人という東日本大震災の惨状とその脅威は、“喉元過ぎれば”宜しく、簡単に忘却の彼方に追い遣ってはいけない。5日の「津波防災の日」には、各地の自治体で、各様の防災訓練や、研修が行なわれたようだ。5日に限る必要はあるまい。定期的に催すくらいの配慮が欠かせまい。尚、記念日は、当初、法案が提出された時には、東日本大震災の起こった3月11日とする案だったそうだが、被害の状況把握途上であり、被災者の心情を勘案して11月5日となった由だ。読売新聞の、≪安政南海地震で、稲束に火をつけて村人を高台に導いた村があったことにちなみ≫は、周知の通り「稲むらの火」の逸話として知られる。──1854年安政南海地震津波の際、紀州・和歌山県広川町で起こった出来事と1896年三陸地震津波をヒントに、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、献身的な活動で村人を津波から救った感動的な物語「A Living God 」を創作した。それが後に、地元の小学校教員中井常蔵によって教材化され、「稲むらの火」という題で国語読本に採択され、1932年から約10年間小学校で教えられた、というもの。

∇2004年に起きた「スマトラ沖大地震」でも「稲むらの火」に似た例があった。インドネシアのシムル島では、甚大な津波被害にもかかわらず、7万8千人の住民のうち、死者は7人にとどまった。島は百年前、大きな津波に襲われた。「地震の後、波が大きく引いて、魚がぴちゃぴちゃと打ち上げられた。それを村人が拾っている時、大きな波がやってきて、何千人も死んだ。だから水が引いたら、山に逃げなさい」という「村の教え」があり、海岸沿いの住民がこぞって高台に逃げたからだ、と。岩手県三陸海岸地域にある津波防災伝承の一つである「津波てんでんこ」と酷似した先祖の教え・言い伝えが命拾いに繋がった。一方、05年1月起きた地震では、チリ中南部の港町コンセプシオンで、「津波が来る」とのデマが広がり、パニックに陥った周辺住民約1万2千人が高台に一時避難する騒ぎがあった。チリ内務省によると、「潮が引いたから津波が来るかもしれない」との漁師の間のうわさ話が騒ぎのきっかけとなった。その後、若者たちが「津波が来る」と大声で叫びながら街中を走り回ったことから騒ぎが拡大。インターネットのチャットなどでも情報が広がったという。当局が調査した結果、津波の兆候は確認できなかった。(読売新聞) 情報は正しさが一番だ。JR紀勢本線・湯浅駅近くに浄土宗・深専寺というお寺があって、その山門入り口の左側に「大地震津なみ心え之碑」という津波心得があるそうだ。寺田寅彦の「津波と人間」と併せ下掲しておく。肝に銘じておこう。

【大地震津なみ心え之碑】
≪嘉永七年(1854)11月5日当地に強い地震が発生し、「南西の海から海鳴りが三、四度聞こえたかと思うと、見ている間に海面が山のように盛り上がり、「津波」というまもなく、高波が打ち上げ、……家、蔵、船などを粉々に砕いた。其の高波が押し寄せる勢いは「恐ろしい」などという言葉では言い表せないものであった。この地震の際、被害から逃れようとして浜へ逃げ、或いは船に乗り、また北川や南川筋に逃げた人々は危険な目に遭い、溺れ死ぬ人も少なくなかった。既に、この地震による津波から百五十年前の宝永四年(1707)の地震の時にも浜辺へ逃げ、津波にのまれて死んだ人が多数にのぼった、と伝え聞くが、そんな話を知る人も少なくなったので、この碑を建て、後世に伝えるものである。また、昔からの言い伝えによると、井戸の水が減ったり、濁ったりすると津波が起こる前兆であるというが、今回(嘉永七年)の地震の時は、井戸の水は減りも濁りもしなかった。そうであるとすれば、井戸水の増減などにかかわらず、今後万一、地震が起これば、火の用心をして、その上、津波が押し寄せてくるものと考え、絶対に浜辺や川筋に逃げず、この深専寺の門前を通って東へと向い、天神山の方へ逃げること。 恵空一菴書≫。(防災研究所HP参照) 

【忘却の原理】
≪災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。≫(寺田寅彦「津波と人間」)