バンビの独り言

バンビことけーちんの、あくまでも「独り言」デス☆

2017大晦日「笑ってはいけない」ベッキーへのタイキックについて

2018-01-13 17:53:44 | 居場所・学校・権利

娘たちが大晦日に欠かさず観ている番組がある。
ダウンタウンの「笑ってはいけない」。

「痛そう…ねぇカラダに悪いんじゃない?」
「私が妻だったらもうやめてって言うかも…」
といちいち言葉に出ちゃうけど、やっぱり笑って観てた。

去年の年末はほとんどテレビを観てなかったから知らなかったけど、その中でベッキーがタイキックをされたシーンがあったとSNSで読んだ。

「笑ってはいけない」のベッキーへの尻蹴りが笑えない理由
http://blogos.com/article/269758/

それはないわ!と異論を訴えたら「問題ないんじゃないか」という意見もあって、 更にてんつくマンは「ダウンタウンは愛の人。なぜその愛が分からないんだ?正論くそくらえ」と。
その投稿に対して1000を超える「いいね」がついた。

https://www.facebook.com/tentsukumansan/posts/1600471636673474 

 

私のFacebookの投稿に参加して下さった中で、人権問題についてもプロフェッショナルな「やまむらひろのさん」も意見を書いてくれて、ご自身のブログに分かりやすく説明してくれたものを転載します。

 

私の投稿も一緒に載せておきます。

…………………

2018.1.10
https://www.facebook.com/keiko.nakane.5/posts/1768646726478804?pnref=story

てんつくマンは「ベッキータイキック」について肯定的見方をしてた。
自分たちが悪者になってまでベッキーをテレビに出させたダウンタウンは愛の人でしかないと。

そこの部分だけみたら愛の人だと思う。
ベッキーはそういう扱いを受けてでもテレビに出たかったとしたら感謝でしかないよね。
ニーズに合ってる。

けど、てんつくマンは「人権」と「テレビの影響」についてどう思ってるのか聴きたいな。

◯◯レンジャーを週末に見た幼児が、月曜に登園すると戦うことで頭いっぱい。
誰かを悪者にしなきゃ正義のヒーローは成り立たないから、誰かを悪者にしてキックやパンチをすると嘆いていた保育士がいました。
(勝手に悪者にされて標的になる子はたまったもんじゃない)
大人のすることを、スポンジが水分を吸収するように何でも真似したがる(善悪の判断つかない)幼児期は特にテレビの影響はすさまじいんだろうな。

「誰かを痛めつけること」が笑いのネタになって、どんどん「面白ければいいんじゃない?」「視聴者が喜んでるんだからいいんじゃない?」ってなっていくことが恐いの。
そうやって空気が作られていく。

ひろのさんが、とても分かりやすくブログにまとめて下さってます。
ひろのさん、ありがとう♡

 

……………ひろのさんブログ転載……………

https://ameblo.jp/tamayuradou/entry-12342893631.html

 

「ベッキーが「禊」と称してキックされた件で、笑いと暴力と「表現の自由」について考えた」
2018-01-09 08:24:00 

 

FBでシェアされていた記事から
年末のテレビ番組で
そんなことが起きていたということを知りました

わたしの友だちにはリアルな関係でもネット限定の人でも人権意識のある人が多いので
「あれは酷いよね」
「まぁそういうの見るのが嫌でテレビ置いてないから…」
という論調なのですが
世の中にはいろんな考えの方がおられるのも事実で
実際twitter上でも
「そんな目くじらたてることかい?今更?」
「予定調和に硬いこというなよ」
というような意見も見られます

「表現の自由の範疇ではないのか?」という疑問をお持ちの方もありました

確かに「差別表現」など言葉狩りレベルになると「ちびくろサンボ」さえ発禁になっちゃってなんだか妙なことになりますが
そういうことじゃないの

「痛み」や「恐怖」「不安」という感覚を鈍らせていくことは命にとってそれなりのリスクを伴うことなのですよ
(病気や自傷行為、自殺に行きつきます)

逆になにに「安心感が満たされるか」「心地良さが満たされるか」にコンシャスであることは元氣のリソース確保につながります

特定の案件はさておき(私自身、テレビ見てないからね)今のテレビ番組、特に「お笑い番組」と世間一般で認識されている番組の内容にはひとこと(にならずめっちゃ長いですが)モノ申しておかねばならんと、おもったのです

以下、他人のタイムラインに書いたものを転載

  *   *   *

「このテの話題はめんどくさい」と思われる人がいると困るので、整理させてください。

まず、人を傷つける表現について。
「人を傷つける表現」はあらゆる物語のなかに存在します。
むしろそれを欠いてしまうと、物語として成立しなくなります。

なので、この「人を傷つける表現」すなわち暴力表現を排除することを目標にしているのではありません。

そもそも、どんな表現であれ傷つく人はいます。
たとえば「母乳って素晴らしいものです」というだけでも、母乳育児をしたくでもできなかった人の中には「傷ついた」という人はいます。

帝王切開だったことを無念に思っている人の中には、経膣分娩のメリットを話題にするだけでも「否定された」と感じるひとがいます。

なので、どんな言葉や振る舞いも受け取り方、やその人の背景、経験次第で、暴力的な要素になり得るのだということを知っておく必要もあるわけです。

ですが、社会的な不利益を実際に被っているクラスターに属する人に関しては、特に注意が必要だということも先進諸国ではコンセンサスが進んでいます。

たとえばアフリカ系の人たちが奴隷として長く抑圧されてきたこと、今なお暴力の対象になっている(KKKなど)ことを踏まえ、肌の色の違いそのものをネタにすることに関してとてもナーバスです。

そしてLGBTのひとたちも、理解が進んできたとはいえ、まだまだ家族にさえカミングアウトできない人も多く、
日本では同性カップルは家族として認められない地域がほとんどで、実際に社会的不利益を被っています。

こういった、いまなお不自由さの渦中にいる人たちを「笑いのネタ」にすることは、
さらにカミングアウトを難しくさせる可能性をはらんでいるので慎みましょう、という配慮が世界的コンセンサスなのです。

特定の民族や宗教、文化といったクラスターに属する人への誹謗中傷をやめましょう、というのはそれが無知による偏見に過ぎないからです。

「黒人が嫌い」という人に「地球上のすべての黒人を知ったうえで言っているのですか?」とたずねて「YES」と言える人はいません。

アフリカにルーツを持つ人に好感を持ったことがないだけなのです。
全ての「ヘイト」と呼ばれる行為に共通することです。
よく知らないだけの相手に恐怖を与える権利も、傷つけて良い権利もだれも持ちません。

そして2点め。
「暴力を助長する可能性のある表現」についての解釈です。

 上記の理由により、「暴力表現」と「暴力を助長する可能性のある表現」は別物です。

「暴力表現」がストレートな場合そこには恐怖、痛み、悲しみ、屈辱感、怒りなど、暴力を受けたときの情動や感覚も同時に伝わってきます。
暴力を行った側の葛藤、その後の正当化しようとする足掻き、後悔も時間軸の中で表現されることも多いです。
戦闘シーンや、殺人を扱ったストーリーなどがこれにあたります。

これは暴力を助長することは絶対にないとまでは言い切れませんが(特異的な物語において模倣犯が登場します)、日常レベルへの影響力はあまりありません。
行う側、受ける側、どちらに感情移入しても「葛藤」から逃れようがないからです。
ですが、暴力が「笑い」や「性的快楽」、「政治的な正義」と結びついた時、とてつもない破壊力を持つことがあるのです。

笑い、性的快楽、正義は専門的な話になりますが脳の報酬系に作用して、依存性を発揮しやすいからです。
「政治的な正義」と結びついた典型例が第二次世界大戦のときのナチスであり、特攻隊賛美でした。

「笑い」と結びついたことで、暴力をふるった側に「冗談の通じないやつ」という言い訳を与えたのはお笑い番組です。
暴力的なセックスを女性も求めているという勘違いをさせたのはAVです。
女性を「モノ」として扱ってもOKとする広告はDVを助長している側面があります。
というように暴力行為を行う側に力を与える情報はテレビをはじめ、いろんなメディアが大量に供給し続けていますが、それにより痛みを覚えた人をエンパワーする情報はあまりにも少ないのです。

なぜ、そのアンバランスが生じるのかといえば、資本主義だからでしょう。
視聴率の取れる番組づくりをしないと、スポンサーがつかないわけですから、
視聴者に合わせた番組作りを基本として、視聴率を上げているのでしょうが、今回ばかりは「行き過ぎた」のだと思います。

だからネット上で批判が噴出したし、局にも電話が殺到したのでしょう。

奇しくも年末にウーマンラッシュアワーの村本さんがテレビカメラに向かって国民の意識の低さを指摘したように、
暴力をふるう側へのおもねった態度、忖度、波風立てない集合意識が日本の現状を作り出しました。
それが変化しようとしている兆しを感じます。

   *   *   *

以上、「暴力表現一般の影響」と「表現の自由について」の考えです

表現の自由はどこまで守られるべきなのか明確に線を引くことなんてたぶんできないと思います
だからこそ「わたしはここまでだよ」というラインを越えて侵入されたときに忌憚のない議論がなされることに価値があると思います

「普通」と「一般的」と「正常」が同義で使われる日本ではことばにならない違和感がじんわりと普通になっていつの間にか「表現の自由」に守られたインパクトの強い暴力表現で痛みや恐怖に麻痺や抑圧が起きないとも限りません

もうひとつこのベッキーの件についてわたしが個人的に一番気に障ったのは「禊」という言葉の使い方です

アベシンゾーが「そもそも」という言葉の意味を勝手に解釈して正当化するのを許しちゃう国でお仕置き、リンチ、体罰的な暴力のことを「禊」って言っちゃっていいの?

そんな風に日本語が変わっていっちゃうのはみんなOKなの?
いいたいことはいっぱいあるけどここらへんで…

あ~~~(@ ̄Д ̄@;)やっぱりめんどくさいわ…
読んでくださってありがとうございます

ひろの拝


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