7/3午後、ケアネットワークの10周年記念講演に参加してきました。
うちのじーじ(84歳)ばーば(80歳)は2人ともまだ元気だけど、いつ看護や介護が必要になるか分かんない。
いつ誰がどうなるかは、若くたって分かんないしね。
だから、そうなったときのために心の準備と予備知識があった方がいいように思う。
思い返せば、私は若い頃から、将来のことをいつも考えちゃう子だったわ。
わたしが中学生の時に、3人姉妹のうちの2人の姉が嫁いでしまったので「私は跡取りになる」と中学生の頃から決めてた。
自分の親が孤独死するとか考えただけで無理。
せめて自分が後悔しないように、わたしが側に居たいと思った。
だから20歳過ぎてからは「あぁこの人のこと好きになっちゃうかも」って思ったら兄弟構成を聞いて長男じゃないことを確認してた(それが後に結婚した元夫っす)。
男の人は世の中にたくさんいるけれど、親はこの二人しかいない。
だから私は、親と一緒に暮らしてくれる相手でないと結婚できないと20歳の時にはもう思ってた。
結局、2度目に結婚した相手(けーすけ)はバリバリの田舎の長男坊だったから、私は親から離れることになってしまったけれど、うちのじーばーと義父母は20歳くらい離れているので、介護のタイミングは違うだろうという計算(そうだといいな)。
そして、長女を妊娠したときは、これからの育児のために、妊娠中に100冊くらいの本を読んで、とりあえずたくさんの知識といろんな体制を整えてた。
さて、子どもたちもすっかり大きくなったし、次なる準備は「介護」である。笑
今回、お話を聴かせてもらって、老齢の親と関わるための心構えは、自分が子育てで学んできたことがすごく役に立つ気がした。
(介護は経験してないから今の私はまだきれいごとの段階だけど)
講演レポート書きまーす。
失敗しても怒られない環境を作る。
失敗しても自立できることが大切。
サポートしてもらいながら、自己決定して過ごせる環境を。
自分の意見が言える環境を。
一般的に「診断された時から認知症=介護問題」。
けど、目が悪い人にもいろいろある。
0.7の人もいる、0.1の人もいる、0.01の人もいる。
なのにみんな一律で度の強いメガネをかけさせるのと同じ。
認知症にもいろいろあるし、進行度合いだって違う。
認知症の人を目の前にして「この人は認知症で」と言われたら落ち込んでしまう。
聴く力だって、考える力だって残っているのに。
「認知症になったら怒りっぽくなった」のではなく「怒れる環境になってしまった」場合もある。
本人がやりたいことは何かを聴く。
一緒にやる。
やりたくないことをやらせることは無駄。
失敗することが当たり前とは思っていないけど、
失敗を許してくれる社会になるといいな。
そうしたら失敗を恐れなくて良くなる。
「認知症の人に何ができる?」ではなく
「認知症の方と共に何ができるか」を考えていこう
認知症の方が「山登りしたい」と言ったら低い山に連れていってしまう。
「釣りがしたい」と言ったら一番近い釣り堀に連れていってしまう。
これでは本人が満足できない!
リスクを取り除くことしか考えていない。
「お弁当を食べましょう」となった時、認知症の方のお弁当を、蓋まで取って箸を渡し、すぐ食べられる状態にまで用意してしまう。
そんなことをしていたら何もできなくなってしまう。
認知症の方に家族みんなの弁当を取りに行ってもらう、お茶の用意をしてもらえばいい。
力を奪ってはいけない。
行政やサポーターは「(家族に)協力してもらう」のではなく「一緒につくっていく」ことが大切。
認知症の方に大切なことは、
「普通の生活」
「自立した生活」
「やりすぎない」
こと!
普通の人が転んだとき、人のせいにはしない。
自分の不注意だから。
なのに、認知症の方が転んだら誰かのせいになる。
なぜ?
認知症になると財布を持たせてもらえなくなる。
でも認知症の人だってガチャガチャが買いたい(笑)。
女性は化粧品だって自分で選んで買いたい。
認知症だからと免許を取り上げるのではなく実地試験をさせた上で決めてほしい。
ぶつからない車なら運転できる?と、どうやったら乗り続けられるかも考えて欲しい。
病院やコンビニにも行けなくなって引きこもってしまう方もいる。
免許を家族が取り上げるのではなく、認知症の人同士が「運転免許について考える」時間を持つといい。
やめた人がメリットやデメリットを話してくれる。
「公共交通が少なくて不便」と言ったデメリットもあるが「不安が取れて、お金もかからなくなってね」と言ったメリットも話してくれる。
それを聴くと、自分から「運転は辞めよう」と思える。
取り上げようとするから大変なんだ。
本人が納得して決めることが大切。
認知症になったらできることが減っただけ。
楽しいことの再構築するためにも、異変を感じたら相談窓口へ。