【清廉な生き方を貫いた三人を、歴史の中から掘り起こした感動作。
穀田屋十三郎-伊達藩の貧しい宿場町に生まれた商人。同志をあつめて一家離散を覚悟で大金を集め、それを伊達藩に貸し付けて、その利息で、滅びようとする郷里を救おうと奔走。
中根東里-江戸時代を通じて空前絶後の詩才の持ち主ながら、栄達を求めず、極貧のうちに村儒者として死す。
大田垣蓮月-津藩家老の娘として京都の花街に生まれた絶世の美女。家庭に恵まれず、尼僧として京都郊外に庵をむすび、当代一流の文人墨客と交流。
大ヒット映画「武士の家計簿」に続き、気鋭の歴史家が描く日本人の誇るべき美徳。】
「無私」とは「無我」と同じだと思いますが、私利私欲をもたないということでしょう。慈悲喜捨、布施の精神。
そういう人は、権力者よりも、一般庶民の中にいるんですね。しかも、こういう人たちは”自分”というものを残そうとはしません。歴史に名を残そうだとか、さらさら思わない。「無私」ですからね。
「無私」とは、滅私奉公とか愛国心や愛社精神などの押しつけなどとは違って自発的なもの。利害関係ではなく、もっと広い人間ひとりひとりに対する慈悲の心。
ブラック企業は、無私(”私”を敢えて”滅する”のではなく、ただ無い)と滅私奉公とを混同していたり、社訓(または空気?)などで強要してしまって真逆の事態になってますね。国家主義の政府も同じです。愛国心などは、個人が大事にされることや、恩や暖かい関係性を感じることによって自然に生まれるもので、”与党の人たち”や”文科省の人”が指導要領によって”教える”よう指示される類のものではないのです。
育つ土壌(要因)がなければ育たないし、”強要”などできないもっと理性的なもの。無私(無我)は事実なのだけれど、私たちはそれになかなか気がつかないのですね。
著者は、現代の日本を憂い、次世代にこの「無私」の精神(つまり慈悲や布施の精神だと思います)を伝えたかったそうです。人を思いやる心、慈悲の心というのは、本当に強いものです。”お上”さえ動かします。
>ー夫れ、人は天地の心にして、天地万物は、もと、われと一体なり。・・・・・人を視ること、おのれの如く、国を視ること、家の如くにして、天地万物をもって一体となす。
>・・・・もともとこの世に他人事というものは存在しない・・・・
>「・・・・・はじめから、聖人だけにかぎることはない。わたしたちも勉めるべきではないでしょうか。みな、それぞれ、できるところで、心のなかの美しい玉をみがけばいい。玉には大きい小さいがあって、聖人のように大きな玉は磨けないかもしれないが、小さい玉でも磨けば美しく光る。・・・・」
>自他平等の修行
資料が少なくて著者は苦労したそうですが、その人徳は地元の人々によって語り継がれています。記録に残らなくても、心に残るのですね。
星5つ
子どものころから目立ちたがり屋。
たいして目立ったことはしていませんが、今も直りません^^
したっけ。
無邪気な人って、見てて楽しくていいですね。
私利私欲が目立つと見たくなくなりますが、自然と目立つ人って、何か徳があるのかもしれませんね。
(ちなみにワタシは目立ちたくない性格でした。今も前に出るのはカンベンです^^;)
こちらにも失礼します。
磯田さんは歴史学者さんで、TVでしか知りませんでした。こういった本にはひかれます。本屋を覗いてみます♪
滅私奉公や愛国心を植えつけたい人たちがいるようですが、無私(無我)というのは真実(真理)なので教えこんだり強制することはない。自ら気づくこと。
「愛国心を育てよう!」といった時点ですでに(本当はない)「我」を育てることになるのだと思います。争いや苦しみの元です。
無私、無我というのは、自他を分けない慈悲の心、自他を平等に思いやる心だと思います。
オススメです。^^
今夜、読みました。
有難うございました。
こちらこそ有り難うございます。