まるちゃんの めざせ!快適シンプルLife

本当の幸せを見つけて・・・
  第2の人生を歩き出した
      まるちゃんの徒然日記
    
 

ようこそ

いらっしゃいませ! このブログは、まるちゃんのひとりごとを中心に テキトーに、マイペースで更新していきます。好きな読書記録や、菜園日記等もかねてます。一緒に元気になれるブログをめざしたいと思いますが、しょもないことも書いてます。ちなみに、いちおう人気ブログランキングと日本ブログ村に参加してます。遊びに来られたついでに、記事下か左サイドバーのボタンを2つポチ、ポチッとしてくださると嬉しいです。ゆっくり遊んでってくださいね。 あ、コメント・置き手紙・トラバ・ボケ・ツッコミご自由にどうぞ。

自然農法家   福岡正信

2013年05月31日 | 

自然農法を提唱した福岡正信さんのお話は、 深い! すばらしい!!

 

人間の知恵は自然を滅ぼす。人間のする事なす事全部が反自然。
砂漠をつくっているのは文明。

人間は自然の一部でしかありません。傲ってはいけませんね。

 

YouTubeにありましたので、お借りしました。

ちょっと長いですが、じっくりお聴きください。

https://www.youtube.com/watch?v=IXFJoTkEIWs

 

https://www.youtube.com/watch?v=aBtaRJvvsK0

草一本 人間がつくっているんじゃない。

自然がつくっているんだ。

 

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変わり続ける

2012年11月20日 | 

まるちゃんのブログはむずかしいと言われたことがあります。
たまに哲学的なことを書くからでしょうか。(ですます体にしても難しい?)

日々生きていると、色々と問題はあるわけで、田舎のただのおばちゃんも
ちょっと色々考えたりするわけです。で、ついつい自分の思いを書き込んでしまったりするわけです。
もう、ほんと個人的に書いてるものなので、読み飛ばしてくださって無視してくださっていいんですがね。
いろんな考えの人がいるなあって。

で、今日もちょっとうずうず哲学?したい気分・・・ (嫌な予感・・・て人、読まなくていいですよ!)


変わらないものは何一つない

私は私であって私でない

私は(まるちゃんは)生まれた時から、あらゆるもの、人との関係(つながり)の中で生きてきた。
私という器の中身は変わり続け、(器自体も変化しつづけてる。 最近はしみしわ白髪・・・老化が・・・)
産婆さん(古い)、親、兄、親戚、友だち、先生、近所のおばちゃん、学校、職場の人々、本、
テレビ、映画、あんな経験こんな経験、(うれしかったこと、つらかったこと)・・・あげればきりがない、
ありとあらゆる人々とのつながり、影響によって私はできている。

それは、今この瞬間も。昨日読んだ本、聞いたニュース、人と話したこと、言われたこと・・・すべての
影響を受けて今の自分がある。(何に影響を受けるか、それは人それぞれみんなちがうね)

自分という器の中の自分は、初めから何か自分というものがあったわけではなく、
あらゆるつながりの中でできているし、それは常に変化し続けている。

今の自分は昨日の自分とはちがう自分であり、そして、明日の自分は、今日の自分とはちがう自分になっている。また、昨日今日の自分から学んで次の自分をつくることもできる。よくもわるくも。

だから、どうせ変わるなら、変われるんだから、過去を悔いるのではなく、
常によりよい自分に変われるようにしたい。 (何か決意表明みたいだな

 

人は変わり続けるもの。 
変わりたくない、と抵抗しても無駄、苦しいだけ。昨日の自分には戻れない。 
白髪は染めて、シミは隠す。変化を受け入れよりよく変化させてるだけ。(話が逸れた?)

変わるということは、これで完全完璧というものはないということ。
ま、はなから、自分は完全完璧だという人はいないと思うけど。(自分は神様だと言う人くらいかな?)
みんな何かしら問題があって、苦しんで(苦しみの中に楽しみを見つけて)生きているんだよね。

だから、完璧正しいって人も、ものもないってこと。ちょっとずつ、直し直しやってる。

正しい、完全完璧なものはない

人はみんな一人ひとりちがう。同じじゃない。人と全く同じになることはあり得ない。
器の中身は人によってみんなちがうんだから。
私は自分の人生を生きてきて、自分の立ち位置からものを見て周りと関わってきたんだから、
あなたの人生を生きてきたわけじゃないのだから、ちがっていて当たり前。似ていることはあっても。

だから、人のことを完全に理解することも不可能。できなくて当たり前。
いくら言葉で説明しようが、言葉自体が不完全であり、その言葉を不完全な私が完璧に理解し、
その人のことを完全に理解することなんて無理。
自分の立ち位置から自分の経験などをもとに自分なりに想像する程度。
だから、違っている可能性も大。

つまり、みんなちがっていて当たり前だし、人のことをちゃんと理解できないのだから、
人を非難したり、決めつけたり、自分の考えを押しつけたり、ちがうからといって腹を立てたりすることはない。

(まあ、非難や押しつけをする人は自分が正しいと思ってたり、思い通りにならなくて腹を立てるわけですね。でも、よりよくなりたい人は自分を正しいとは思わないし、人はそれぞれだと思うので、できないし腹も立たない。腹が立ったり押しつけてしまったら反省してしまう。ほんと人それぞれだなあ。)

できることは、人に対してではなくて、問題点に対してまず自分なりに理解しようと努めることと、
どうすれば問題がよりよく解決するかを自分なりに考えるということだけ。



・・・・とまあ、ダラダラとひとりごとを書いてしまいました。
わかっちゃいるが、難しい。 だって、人間だもの・・・・・・

 

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殺してはいけない

2012年11月10日 | 

昨日のつづきです。(飛躍しすぎだ・・と思われるかも知れませんが)

幸せの反対、怒りの先にある最大の不幸はというと、戦争、破壊、殺戮、支配、差別ではないでしょうか。
(欲も絡みますが。欲が強いと怒りが生まれるのです)

昔、食事時の「いただきます」は命をいただいて生きているということだという話をしたことがありますが、もし、
こどもに「なぜ、人を殺したらいけないの?魚や牛は殺してもいいの?」と尋ねられたらどう答えますか?

私ならこう答えます。
人はみんな生きたい、生きてしあわせに暮らしたいと思っています。死にたいという人は本当は
幸せに生きたいのです。できないのなら死んだ方がましなどと思ってしまっているだけなのです。
自分がしあわせに生きたいと思うように、人もみんなしあわせに生きていたいと思っているのだから、それを奪ってはいけないのです。殺してはいけないのです。

悪いことをした人は死刑にされてもいいんじゃないかって?

初めから完璧に悪い人も完璧によい人もいません。人、この世のあらゆるものは必ず変わります。
悪いことをした人も全てが悪いわけでなく、必ずよい所もあるはずです。そして、99%悪いとしても
変わる可能性はあります。だから、殺してはいけません。
日本の社会(不完全な人が作った不完全な社会)の中では、死刑は認められていますが、
それは社会の都合(経済的、時間的他諸々)で仕方なくしているのであって、
ホントは殺してはいけない。
悪い心を改めるまで、どこかに隔離すればいいのです。社会の中で仲よく暮らせないなら独りぼっちを経験してもらえばいい。
でも、この社会では今の段階ではできないのです。社会が未熟だからです。人間が未熟だからです。
人間は間違います。間違ったら直せばいい。でも、殺したら終わりです。
みんないつか必ず死ぬのですから、殺すことはないのです。

ちょっと話が逸れた?


魚や牛、豚・・・は?

人間は食物連鎖の頂上にいるから、人間が食べる分にはいいんだ・・・という人がいますが、
私にはどうも納得いきません。

人間が勝手に人を頂上に置いてるのであって、人は自分たちは一番賢いから(文明を持ってるとか)
何でもできるんだ、と言ってるように聞こえます。これは、人間の傲りではないかと思うのです。

やっぱり、
どんな生き物でも殺してはいけない、人間はいけないことをしている(仕方なくでも)

と自覚したほうがいいと思います。


なぜなら、どんな生き物だって生きていたいのです。人間と同じように、生きてしあわせに
暮らしたいのですから。すべての命は平等なのです。その命を自分の都合で奪うのは、
してはいけないことなのです。殺してはいけない。
だから、ホントは「いただきます」だけじゃなくて「ごめんなさい」もいるんじゃないでしょうか。
そして、生きるのに必要最小限にとどめるべきだと思います。
命をもっともっと重く考えるべきだと思います。


虫もそう。害虫という虫はいない。人間にとって迷惑だという意味。殺す以外の方法をとればいい。
殺す以外の方法を見つけることができなくて、やむなく殺してしまったら「ごめんなさい」というべき。
虫には何の罪もない。ただ生きてるだけ。

全ての生き物は、お互いに助け合うことで成り立っているのです。



地球上に、人間だけいて、動物も虫も細菌も植物も他に何もいなければ、人間は生きていられない。
そもそも、人間ははじめから人間だったわけではないし(進化論によれば)。
人間は、他の生き物もふくめて、互いに仲よくしなければ生きていられないのです。

そして、
悪いことをすれば、その結果は絶対よいことにはならない

つまり、人間は(肉食動物も他の生き物も)みんな罪を犯して生きている。
完全完璧な人間はいないということになりますね。

だから、
謙虚になって、少しでも罪を少なくする努力をすることが、しあわせに生きるためには必要だと私は思っています。

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怒りの感情は要らない

2012年11月09日 | 

今日はちょっと哲学?してみます。

「幸せ」は人それぞれだろうけど、私は幸せはとは、心がおだやかであること だと思っています。
しかし、自分の周りを見てみると、怒っている人のなんと多いこと。いや、日本、世界中に怒って
いる人がいる。この世は、怒りで満ちているといってもいいかも。

怒りからあらゆる不幸が生まれているのに。

怒りと言ってもさまざま。
他人に対する怒り 腹立ち、恨み、嫉妬、張り合うこと、軽視(バカにすること)、反抗、ケチ・・・
自分に対する怒り 後悔、自分に対する苛立ち、あせり・・・

まあ、怒りは人間の性質なので、ほっておくと自然と出てくるもの。でも、繰り返すことで強化され
怒りやすい性格を作ったりするのです。

怒りが出てくるのは仕方ない(だって人間だもの・・・)(完璧な人間なんていないんだし・・・)
でも、だから、怒りの気持ちが生まれたら、すぐに消そうと努力することが必要なんだよなぁ。
意識するだけでもいいから。

「怒り」で不幸になることを選ぶのか、「怒り」を消しておだやかに生きることを選ぶのか、
それは自分次第。

 

バカにされたら怒って当たり前?非道いことをされたら怒って当然?
仕方ないことではあるけど、そんなことはない。

「怒って当然」と思う人は「○○が自分を怒らせる。○○だから腹が立つのは当たり前、みんなそうだ」と
しょっちゅう怒っていて、その姿を見ると、
「そんなに怒ることないのになあ。苦しそうだなあ。気の毒だなあ」と思ってしまいます。
○○が怒らせるのでも、○○だから腹が立つのでもなく、
自分中心に考えるから(自分の思い通りにならないから)、怒ってしまっているだけなのです。
人は人、自分は自分。みんな違うんだから自分の思い通りになるわけがないのに。
人間は(自分は)完璧じゃないから、うまくいかなくても当たり前なのに。

怒るのは誰のせいでもないのです。
自分次第なのです。怒りの感情は自分でコントロールするものなのです。

 


我慢

我慢も怒りです。しかも、心の中に押さえつけているので、怒りのエネルギーがさらに強くなる。
我慢はしてはいけません。

ならば、吐き出すのか?「バッキャロー #$%&*?!!」と怒鳴るか?
相手に「あのねえ!!!!#$%&¥*」とやり返すのか?

怒りにまかせての言動行動は100%ロクな事になりません。

 

我慢するのではなく・・・・つまり、怒らなければいいのですよ。

平常心で、どうすれば問題が解決するのかを客観的に考えればいいのですね。
怒りの感情抜きで。
こっちから見たりあっちから見たり、他の考え方はできないか、とか。
問題だけに集中するのです。
考えた方法がよければ解決するだろうし、よくなければうまく解決しないだろうし。
うまくいかなくても当たり前。人間は(自分も相手も)完璧じゃないんだから。
誰かに協力してもらうのも、一つの方法かも。

つまり、やっぱり自分次第。


とにかく、
怒らず、心おだやかに生きることが自分にとってしあわせであるし、みんなが心穏やかに
助け合うことで、社会もよくなるのではないかと思うのですが。

怒りの感情は要らない。

なくす努力をしましょうよ。みなさん。

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自分のこころ

2012年08月18日 | 

 

http://www.youtube.com/watch?v=0p65KBdI6lg&feature=my_watch_later_videos&list=WL7469B3D8D3517FFD

 

人は不合理、非理論、利己的です

気にすることなく人を愛しなさい


あなたが善を行うと利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう

気にすることなく善を行いなさい


目的を達しようとする時、邪魔立てする人に出会うでしょう

気にすることなくやりとげなさい


善い行いをしてもおそらく次の日には忘れ去られるでしょう

気にすることなくし続けなさい


あなたの正直さと誠実さがあなたを傷つけるでしょう

気にすることなく正直で誠実であり続けなさい


あなたの作り上げたものが壊されるでしょう

気にすることなく作り続けなさい


助けた相手から恩知らずな仕打ちを受けるでしょう

気にすることなく助け続けなさい


あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい

蹴り落とされるかも知れません

それでも気にすることなく最良のものを与え続けなさい


最後に振り返ると、あなたにもわかるはず

結局は、すべてあなたと内なる神との間の事なのです

あなたと他の人の間であった事は一度もなかったのです

                               by マザー・テレサ

 

神ではなく、「内なる神」。それは自分のこころ・・・

自分のこころが、本当に善であるかを問いましょう。

 

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自分と地球をしあわせにする食べ方

2012年08月17日 | 

体と地球にいい食事をしようと思っています。

 

左のブックマークのコーナーに新しく「じぶんと地球をしあわせにする食べ方」
というブログを加えました。

共感するところが多いです。

食事の仕方を少し考えるだけで、健康にも、地球(環境)にもいいことができるんです。

菜食、マクロビオティックホリスティック栄養学など、勉強すればするほど、
無意識のうちに健康にも地球にもよくない食べ方をしていたことがよくわかります。

どんな食事が体にいいかは、またできたら紹介します。


そして、食べ方は「生き方」にも通じる。

環境破壊(多くの森林が必要以上の肉食の犠牲になっている事実、地球温暖化も)や
飢餓問題(飽食の先進国が貧困に苦しむ人々を余計に苦しめている事実)と、
私たちの食べ方が大きく関わっているということを知ったのです。
見て見ぬふりはできません。

必要のない肉食のために、多くの生き物(特に牛、豚、鶏)が、
世にも恐ろしい虐待をされ惨殺され続けているという事実も。
(動画で見て、言葉を失ってしまいました・・・

 

なるべく、自分にも地球にもやさしく生きていきたい私は、
人間が生きるために必要ではない、牛や豚や鶏などの肉は食べたくなくなったのです。

食べなくても人間は健康に生きていけるのなら、食べる必要がない。

 

申し訳ないけど、必要な魚介類(養殖じゃないの)は動物性食品として少しだけいただきます。
放牧牛からの乳製品も時には分けてもらいます。地鶏の卵も少しだけ分けてもらいます。

でも、虐待されてる動物からの肉は、必要としません。

 


無理せず、自分にできることをできるようにやって、

平和におだやかに暮らしていけたら、私はそれだけでいいのです。

 

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好きなことだけ・・・

2012年07月08日 | 

   

   

こんなカレンダーを使っています。毎月、かわいい子猫がつぶやいています。

今月は・・・

うん、いいよ。

少なくとも、嫌なことはしなくていい。

好きなことなら、どんなにしんどくても、ストレスにはならないからね。

嫌だと思うことがストレスになるんだよ。

 

でも、好きじゃなくても、どうしてもしなくちゃいけないこともある。

生きていくために必要ならば・・・。(必要かどうかの見極めは大事だけど。)

本当に必要じゃなければしなくていい。でも、生きていけないなら好きじゃなくてもする。

とりあえず・・・。

ただし、できないことは無理にしなくていい。不可能なら。でも、できることならする。

もちろん、やっちゃいけないことは断固としてしない。(不幸になるからね。)

 

好きなことじゃなくても、嫌だと思わなければいいんだ。

ムリ?いやいや、ムリじゃない。

嫌だと思わずに、ただ、淡々とすればいいだけ。

何にも考えず、ただ、目の前のことを淡々とこなす。

工夫次第(考え方次第)では楽しくもできるけど、淡々でもOK。

とにかく、「嫌だ」という気持ちをもたないこと。

ストレスは自分の心がつくっているんだよ。自分次第。

 

好きなことだけして生きていけたら、こんな幸せはないだろうね。

みんな、幸せに暮らせたらいいね。

だって、人生は一度きりしかないんだから。

 

・・・てことを、ちょっと思った。

 

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つぶやきまるちゃん

2012年05月16日 | 

あっという間に午後の部の家事終了。

さて、ウクレレでも弾こうか、本でも読もうか、ブログでも書こうか…

残りの時間がせまってくると、何だか何をしたいのかわからなくなる。

やる気は心の余裕と比例するのですな。

自由度が高ければ高いほどやる気は出てくるモノなのだ。

だから世のお母さんがた、子どもに「ああしてこうして」とか、
「こうじゃなきゃダメだかんね」などと言ってはいけません。

「自由にやれい~」「やりたいようにやれ~」 これが一番です。

適度なプレッシャーは、自分で自分にかけるのがよろしい。

人にかけられても人にかけてもダメですな。

 

久しぶりに歩いたからか、左のひざが痛い。

老いはやってくるねえ。若くても(若いと思う人はみんな若いのだ)老いは老い。

生まれた時からみんな平等に老いていくのだ、とはいえ健康な方がいい。

不思議なことに、痛みは、楽しいことしてる(思っている)と感じなくなります。

「病は気から」はホント。

私はあまり細かいことを気にしない方だと自分でも思ってたけど、

忘れっぽい(記憶力が劣っている?)のは事実だけど

気にしないように気をつけているだけで実は気にしいなんじゃないかと思ったりする。

 

阿川さんの「聞く力」という本を買った。

私はしゃべるのが苦手なので、じゃあ聞くのが得意なのかと言われたら、

聞くのは好きだけど聞き上手ではないなあ。

話し上手、は諦めたけど、できたら聞き上手になりたいなあ。

(姪がこっちに帰ってきてしばし中断。 アイスとお菓子を食べて米を持って帰った)

人の話を聞くのも人間力だね。話すのも聞くのも要は人柄かな。

阿川さんの「サワコの朝」(6チャン土曜朝7時半)という番組が好きだ。

さて、久しぶりにビール飲むかな・・・

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愚かな人間

2012年03月11日 | 

自然は ただ流れていく

地震も津波もしかたがない 

しかし 自然の中にいるはずの 人間の何と愚かなこと

愚かな人間の作った 欠陥だらけの原発のために どれだけの苦しみが生まれているか

そして また愚かな人間のために 放射能を浴びた家畜が動物が 殺処分されようとしている

何という 思い上がり 傲慢 エゴ

我が子が放射能を浴びたら殺すのか?

生命をなんだと思っているのか?

何様のつもりか・・・

 

復興に向けて 「絆」という言葉が言われている

だけど 「絆」は人間だけのものではないはず

すべての生命が繋がっているのだ

すべての生命は支え合い補い合い助け合って成り立っているのだ

思い上がった人間が そのつながりを断ち切るとき

また 新しい苦しみが返ってくるにちがいない

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「なりきりごっこ」注意事項

2012年03月01日 | 

昨日書き忘れたのだが

「なりきりごっこ」には注意することがある つまり・・・

みんなが「なりきり教」(いつ出来ただ?)の信者であればいいのだが、まあフツーの人が見たら

「何 かっこつけてんの」とか「イキっとる」(これ井原弁)、又は「ついに脳ミソやられたか・・・」となる

なので、

なりきりごっこは 一人のときにすること(信者がいない場合) 

フツーの人がそばにいる場合は 頭の中だけで(動作控えめに)すること

この2点に気をつけられたし!!(ま、気にしなくてもいいんだけどね・・)

ちなみに 日常生活の中 あらゆることでできる

シャンプーするとき・・・ 「痒いところはございませんか」「おしりのあたりがちょっと・・・」(一人でね)

ウォーキング・・・ アスリートになる ただの息切れでも「これがランナーズハイか!?」とつぶやきながら歩く

雨や風の中を歩くとき・・・ 台風中継のアナウンサーになってもいいし 雨が大好きな幼児になってもいいし(ただのアホか?いやアホでいい)

これで毎日がハッピー まちがいなし 妄想は無限に広がる・・・

だたし、はまりすぎて素の自分に戻れなくならないよう(ビョーキです)お気をつけて

(中2の姪に話したら “それいいなあ”って なりきり教の信者ひとりゲットか?)

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なりきりごっこ

2012年02月29日 | 

何かするとき(掃除でも料理でも畑仕事でも何でもいいんだが) その道のプロ、達人になったつもりで

いや 人格ごとなりきってすると イヤな仕事でもかなりモチベーションがあがる

たとえば 料理・・・

「私は フランス名門レストランのシェフ」と 目をつぶって(もつぶらなくてもいいが) あの白い服(なんてゆうの?)と帽子を着ている自分を想像(妄想)する で 意味もなく「トレビア~ン」とか「ジュブジュボ~ン」とかつぶやいてみる

野菜を切るときは 高速でトントントントントントンッ って口で言って(実際はトン4回に1回でも) 最後フィニッシュのポーズ(包丁を高く上げてみるとか)を決める 

塩は必ず手を頭上までもっていき 上から(顔は斜め後ろに)ねらいを定めてパラパラとふりかける

または 岩塩のつもりで 卓上塩をごりごり回しながらかける(こしょうも)

味見は指で ・・・・ とにかく プロのシェフがやってそうなことはやる

そうすると たとえインスタントラーメンでも ものすごい料理ができそうで 楽しい

たとえば 畑仕事・・・

農業のプロは 土が命 とにかく土を握る やたらと握る うなずく

土を握って「いい土になってきたなあ」といってなめる(ふりをする)

言葉のおしりに「~だべ」「~ずら」をつけるのも何となく気分が出る(これ ダメ?)

掃除なら・・・ 

たとえば「みがき職人」になる で 細部に、仕上がりに、徹底的にこだわる 

「私 プロですから! この道一筋30年」とつぶやきながら・・・

 

これが茂木健一郎さんのいう「根拠のない自信」ではないかと思ったりするのですが・・・

いかがでしょう

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お節介おばちゃん

2012年02月26日 | 

「本当に好き。やっていて楽しい。」と思えるものをもつことは生きていく上ですごく大切なこと(味方 心の支えになる)。その時、人と比べて上手だとか劣っているとかを気にする必要はない。「本当に」好きなら、ただ楽しい。
だから、ずっと○○でやっていてもいい(先生から教わるだけで)。
でも、もっと上手になりたいのなら++はチャンスだと思う。「お手本」(先輩や上手な人)がたくさんあるし。お手本と思えるならば、本当にもっと上をめざすのなら、もっと大きく強くなりたいのなら。

不安とか劣等感とか思うなと言われてもそれが生まれるのは仕方がない。人間だもの。しかし、自分の考え方次第で感じなくなるのも事実。

だって 人と自分はちがって当たり前。人は人 自分は自分。人の目なんかいいかげんなもの。どう言われようと、思われようと(思ってるかどうかは分からないし)言う人の勝手。人は不完全なんだから。もちろん自分も不完全。今、うまくできなくても当たり前。人も自分も必ず変わっていく。

不完全なもの同士、しかも、みんな変わっていくのに、比べても意味がない。先のことは誰にも分からない。だったら、今 本当に好きで楽しいと思うことを、本当に楽しいと思えるやり方でやればいい。
もっと上手になりたい 上をめざしたい 大きくなりたい と思うなら++
今のままでーーーができれば十分(物足りないと思わない)と思うなら○○

ママは**ちゃんに「強く大きくなってほしい」と願っている。「将来、何か壁にぶち当たった時、くじけてしまわない力をつけてほしい」と。だから、あえて++に挑戦してほしいと思うのだ。それは「願い」。子どもの成長を願う親の愛情であることは理解してあげてほしい。ただ、強制はできない。

**ちゃんの人生は**ちゃんが作るものだから。自分の人生の主人公は自分。
どちらを選ぶかは**ちゃん自身。もう少し時間がかかるのであれば時間をかけてよく考えて決めればいい。ちょっと見てみるとか、人の意見を聞いてみるとか、試してみるとか(データ、判断材料を集める)・・・・
      決めるのは自分だけど、一人で考えすぎないこと とにかく動いてみること
      とりあえずやって、ダメならちがう方法を見つけて変えていく
      比べない  人は人自分は自分  みんな不完全
      自分の人生は自分で作る  データを集める 
      変わる 変えられるんだから「とりあえず」でもいい

経済的に無理なら、無いなりにお金をかけずに続ける(本人の意志でできる)
続けるお金がないなら仕方がない、自分で稼げるようになるまで待つ。(優先順位)

とりあえず参考まで・・・
  (ちなみに、これは“お節介”です。こんな考え方もあるということで・・・選択の自由(苦しむ自由悩む自由も)は**ちゃんにあるのですから)

    人は迷惑をかけずには生きられません 悪意でなければ、迷惑はかかって当たり前
    迷惑と思うのではなく 助け合うのだと思いましょう

 

子どもに強くなって欲しい親と、葛藤し尻込みする子ども・・・こんな手紙を書いてしまったお節介おばちゃんです

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客観的になる

2012年02月22日 | 

楽しいなあ 面白いなあ うれしいなあ 気持ちいいなあ って感じるのは幸せなことだ

でも、そんなことがなくなったとき平常心で落ち着いていられればいいのだが、寂しい 空しい 悲しい気持ちで胸が苦しくなったり、不安になったりすることがある。さらに、されたくないことをされたり、プレッシャーでストレスが溜まったり、我慢しきれなくて腹が立ったりする。また、自分を見て自分がイヤになったり、後悔してまた苦しくなったり・・・ 

人間だから、こういう気持ちになるのは当たり前のことなので、全く気にしなくてもいいのだが、こんな気持ちが続いて苦しい、解放されたい(浸っていたい場合はどうぞ)なら、とことん客観的になることだ。そして こんな気持ちになるのは、周りのせいではない。どんな時でも自分の考え方、見方次第でどうにかなるものだと思うこと。

客観的になる・・・物事をすこし離れた位置からみる、時間的(待つのがいい)にも。 「良い」とか「悪い」とか「好き」とか「嫌い」とかの主観を入れず、事実だけをみる データを集める 分析する。

ちょっと難しそうに見えるかもしれないが、意識するだけでもちがう。ただ、「我」の強い人は難しいかもしれないなあ。 「自分は正しいのだ!(周りが悪いのだから。私は被害者なのだ。この気持ちをどうしてくれる!)」みたいな人。周りがいくらプレッシャーかけようとヤなことばっかりしようと、平気な人は平気なのだ。だって、自分の感情をつくっているのは自分なのだから。

誰かに「あんたは我が強いね」と言われて「うん、我が強いと思う」という人は、自覚しているからいい。それほど強くないという可能性も。

「いやッ、我が強いなんて思わんッ」と ムカッとくる人は、多分我が強い人。ムカッとくるのは「あんたは悪い(とか、間違っている)」と言われたと思うからだろう。物事を「よい」と「悪い」(ほとんどが主観だし)で判断する癖があるので気をつけたい。

「そうかなあ。そうかも分からんが、我が強いの“強い”って何と比べて?」とか疑問に思ったことを尋ねる。で、「比べたことはないし、比べるつもりもない(みんな違うし)から強いかどうかは分からんけど、我はあるだろうなあ、人間だもの。あんまり強くならないように気をつけてるけど・・どんな時にそう思った?」と自分についてのデータを集めたりして・・・「なるほどなあ、そういう見方もあるのか(面白いなあ・・となぜか面白くなってくるんだな)でも、それは実は~なので自分としてはちょっと違うんだけどな」又は「気をつけよう」etc・・・・・と時間をかけ客観的にみると あら不思議 全く腹が立ちません

今自分はこの記事を書いたことを後悔している なぜか そう簡単にいかないとも思うから 軽い自分が書いた記事だから中身も軽いと思うから ではどうすればいいか もう少し深く考えてから書き直す とりあえず削除する とりあえず行動に移す [削除!]・・・・こんなこともあるさ 人間だもの ほっ

例が分かりにくかったかもしれないけれど

ストレスをためない、生まない方法は色々ありますが まずはあんまり考えすぎないでやってみることかな??

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「怒り」も「心配」も「ストレス」も・・・原因は自分

2012年02月20日 | 

お節介でも悪行為とはならない場合もある

た・ま・た・ま、困っている人の求めているものとぴったり重なり「本当に助かった、ありがとう」という場合

それと、お節介を受けた人がストレスを感じない、もしくは困ったとしてもお節介をする人に対して善意を感じて嫌ではない場合も悪行為とまでは行かないだろう

新採時代の未熟な私は 2?3?4?次会の店に電話されて「恥ずかしい、やめてくれ・・私はそんなに信用ないのか?」と、ちょっと腹も立った。父を見て「してくれと頼んでもないことを勝手にしておいて、自分から感謝を強要し、思う反応がないからと勝手に怒るなよな。結局自分の我がままのためにやってるのか・・」と思ったりもした。

しかし、今の私なら、困ることはあっても腹が立つことはないだろう(多分、めったなことでは)し、嫌な気持ちになることもないだろう(多分、めったなことでは)。それに余計な心配をして妄想することもないと思う。

なぜか。それは・・・

腹が立つ イヤな気持ちになる 心配でたまらなくなる ストレスが溜まる etc・・ という「自分の感情」を作っているのは「自分」である

どうしようもない、どんな状況でも、自分の心だけは自分で管理できる(我慢ではない。我慢することでストレスは溜まるのだ。我慢しなくてもよくなるということ)

ということを知ったから。つまり、どんな感情になるのも全て自分がしていること。原因は自分だと分かったから。分かれば落ち着いていられる。(よいとか悪いとかではなくてただの原因)

人や社会は思うようにならなくても、自分ならなんとかなる。自分でコントロールすればいいんだ。「自分」は変えられない(自分を変えたくない、自分は正しい)と思っている(これを我が強いという)から変わらない(だから苦しい)のであって、変わろうとすれば変えられるんだから(というか変わるのッ)

な~んだ簡単じゃん。

そもそも 「人は人自分は自分 みんなちがっていて当たり前 こんな人がいてもいい こんな自分がいてもいい」・・・と思っているから自分にも人にも腹は立たない というかちがっていることがおもしろい

「世の中に完全完璧なものはない 人も自分も 人間が作った社会も」・・・と思っているから 人から何言われても そうかもしれないしそうじゃないかもしれないし 腹は立たない

「できることはできるががんばってもできないものはできない そこは不完全な人間同士補い合えばいい」・・・と思っているから 自分にも人にも腹は立たない

「何があっても自分の心だけは人の自由にはならない」・・・と思っているから 大丈夫

そうはいっても やっぱり自分の心をコントロールするのは難しいという人がいるかもしれない

いえいえ大丈夫 こうすればいいんです

   とことん客観的になる

   「変わらない」とか「私は正しい」とか思わない

      (「すべては変わる」「正しい、完全なものはない」と思う)

・・・つづく

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「心配」と「お節介」

2012年02月20日 | 

新採のころ、 ある飲み会で帰りが遅くなったことを心配して、母が私の居場所を探して電話をしたことがあった。大学時代、高知で親から離れ自由に生活していた私は、これが親と一緒に暮らすということか・・・と驚き、がっくりし、つい親に説教?(あなたの心配も分からないではないが、大の大人が飲み会に行き夜中まわった位で心配することもないし、したとしても電話して探したり起きて待っていたりしないでほしい)してしまった。

「心配」とは・・・心細い 不安 さらに、“もしかして・・では?ああ・・”という妄想に悩まされている気持ちであり、それは本人の心の問題である 〈まる辞苑〉

まあ、母もただの人間であるからしかたないというか、気の毒なんだけど・・・

ちなみに、本人の心の問題であるので、本人次第で解決できるのだが(これは後ほど・・・)

この、心配のあまりよくやらかしてしまうのが「お節介」である

「お節介」とは・・・善行為のつもりで悪行為をやらかしてしまうこと つまり相手の幸せのため「だけ」でするのではなく、(ちょっとでも)「自分のため」(自分が心配だから、自分の気が休まるから または感謝されたいとか!)が入ったら悪行為になってしまう(ことが多い) 〈まる辞苑〉

これはよく父がやることだが、“(自分の価値観で)こうした方がいいのにしないのはできないからだ、かわいそうだから?援助してやろう”といって勝手に援助?を申し出たり、してやったりする。で、それに乗ってこなかったりすぐに感謝の態度を表さないと怒る。(なんだそりゃ) 怒られる方は、思わぬ事で困惑する上に怒られる、二重苦を味わわされる羽目に・・・

いくら親しくても、人のことは(自分では分かっているつもりでも)本当に分かることはないものだ(だって自分じゃないんだから) 分からないのだから、相手が助けを求めているかどうかをまず確かめるのがいい

困っているときに差し伸べてくれる手があるのは有り難いものだが、強制されるのは困る。その手を握るか握らないか、どの手を握るかの選択の自由が困っている人にはあるのだ。

心配になるのはしょうがないけど(お大事に・・・)、お節介はしないように気をつけた方がいい

ちなみに、お節介を「されて困る」人も「心配」も、「自分は自由なんだ」と分かっていれば、腹を立てたり嫌な気持ちになることはない。このことについては、また・・・

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