個人の権利をしっかり主張するとは言っても、既存の社会構造でそれは果たして可能なのか?
と、思う。
年功序列とか退職金とか、長く勤めればそれなりのご褒美が待っているとなれば、
それを無駄にしたくないとか、転職してゼロからのスタートは、不利と思うと、
ある年齢になれば、転職するよりも自分や家族の経済的安定の為に、消去法で
会社に残ることを選択せざるを得ないとすれば、その組織の中で「 少しでも長く働く 」ことを
望むのは、当然のことだろうと思う。
そうなったら、個人の権利などは、2の次になってしまう。
組織にとって都合のいい個人であることが、最優先されてしまう。
オーストラリアでは、10年同じ会社に働けば Long service leave がもらえる。
はっきりとした期間は分からないが、半年から一年、有給で会社が休めるのだ。
10年という区切りが人間的だと思う。
20年、30年 退職まで会社に拘束された結果として、退職金をもらうというのは
考えようによっては、とても非人間的のような気がする。
人は変わる。考えも、興味も変わる。
何も分からなかった10代後半に決めたことが、後の数十年を決定するというのは、
何ということか?
理想、あるいは幻想を抱いて入った会社に幻滅したりなんてことは、あって当然だし。
やり直しがきかない訳ではないだろうけれど、やり直すにはかなりのエネルギーを要すること
を思うと躊躇してしまう。結局、経済力がモノを言うと思い込んでしまう。
でも、本当にそうなのか?
あれこれ天秤にかけて、ちょっとでも我慢してでも、留まったほうが得という結論になることが
多いのではないかと察する。
でも、本当にそうなのか?
それに、この会社が嫌だと思って次の会社に移ったからといって、そこにバラ色の将来が
待っているという保証もない。
だから、留まる。
会社は働くところであって、友達を作るところではない、とオーストラリアの人は言い切る。
労働力を提供して、お金をもらう。それだけ。
わたしが、フレンドリーに接しても 「 あんた何 ? 」という態度を取られたときもあったのは、そういうところから来ているのだと思う。
そういう意識からして、日本人とはちょっと違う。
自分の労働力を提供し、より条件のいいところを求めて転職を続ける。
結局、そうなってしまう。
そうなった場合に、結局、組織に期待するものは賃金であるからして、
それ以外は期待しない = 会社への忠誠心とか共同体意識などは全く消えてなくなってしまう。
組織力が落ちる
日本は、そういう意味で組織力はすごいと思うわけですよ。
会社のために組織が一丸となって動く。
それが日本の経済成長を支えてきたわけですから。
だから、欧米式の職業観は個人にとってはいいけれど、組織力が欠落してしまう。
日本式の職業観は組織力を圧倒的に守るけれど、個人の権利とか個性は抹殺されてしまう。
いじめはどこにでもありますが、でも、マイクは日本のいじめはすごいだろ?と言いますし
過労死とかそういう弊害を生み出しやすいのも 日本的な職業観からおきやすいだろうなぁ
と思うわけです。
日本の会社で働いたことがあるので、その一体感とか組織力とか、ある程度知ってまして
日本にいたときは、それに違和感やら「 そこまで卑屈に上に従う必要があるのか? 」と
感じたこともありますが、こうしてオーストラリアで働いてみると「 みんなそんな自分勝手で
自分のキャリアとか昇進とかにしか興味がなく、自分のテリトリーをひたすら守って
それ以外は 「 私の知ったこっちゃありません 」みたいなのでいいわけ? 」とか
思ったり。
結局、どちらにも 是と非があるんだなぁと思うのです。
何事もバランス。
どちらか? ではなく、どちらも・・・ なんでしょうね。
でもそれが一番難しかったりするわけですよね。
と、思う。
年功序列とか退職金とか、長く勤めればそれなりのご褒美が待っているとなれば、
それを無駄にしたくないとか、転職してゼロからのスタートは、不利と思うと、
ある年齢になれば、転職するよりも自分や家族の経済的安定の為に、消去法で
会社に残ることを選択せざるを得ないとすれば、その組織の中で「 少しでも長く働く 」ことを
望むのは、当然のことだろうと思う。
そうなったら、個人の権利などは、2の次になってしまう。
組織にとって都合のいい個人であることが、最優先されてしまう。
オーストラリアでは、10年同じ会社に働けば Long service leave がもらえる。
はっきりとした期間は分からないが、半年から一年、有給で会社が休めるのだ。
10年という区切りが人間的だと思う。
20年、30年 退職まで会社に拘束された結果として、退職金をもらうというのは
考えようによっては、とても非人間的のような気がする。
人は変わる。考えも、興味も変わる。
何も分からなかった10代後半に決めたことが、後の数十年を決定するというのは、
何ということか?
理想、あるいは幻想を抱いて入った会社に幻滅したりなんてことは、あって当然だし。
やり直しがきかない訳ではないだろうけれど、やり直すにはかなりのエネルギーを要すること
を思うと躊躇してしまう。結局、経済力がモノを言うと思い込んでしまう。
でも、本当にそうなのか?
あれこれ天秤にかけて、ちょっとでも我慢してでも、留まったほうが得という結論になることが
多いのではないかと察する。
でも、本当にそうなのか?
それに、この会社が嫌だと思って次の会社に移ったからといって、そこにバラ色の将来が
待っているという保証もない。
だから、留まる。
会社は働くところであって、友達を作るところではない、とオーストラリアの人は言い切る。
労働力を提供して、お金をもらう。それだけ。
わたしが、フレンドリーに接しても 「 あんた何 ? 」という態度を取られたときもあったのは、そういうところから来ているのだと思う。
そういう意識からして、日本人とはちょっと違う。
自分の労働力を提供し、より条件のいいところを求めて転職を続ける。
結局、そうなってしまう。
そうなった場合に、結局、組織に期待するものは賃金であるからして、
それ以外は期待しない = 会社への忠誠心とか共同体意識などは全く消えてなくなってしまう。
組織力が落ちる
日本は、そういう意味で組織力はすごいと思うわけですよ。
会社のために組織が一丸となって動く。
それが日本の経済成長を支えてきたわけですから。
だから、欧米式の職業観は個人にとってはいいけれど、組織力が欠落してしまう。
日本式の職業観は組織力を圧倒的に守るけれど、個人の権利とか個性は抹殺されてしまう。
いじめはどこにでもありますが、でも、マイクは日本のいじめはすごいだろ?と言いますし
過労死とかそういう弊害を生み出しやすいのも 日本的な職業観からおきやすいだろうなぁ
と思うわけです。
日本の会社で働いたことがあるので、その一体感とか組織力とか、ある程度知ってまして
日本にいたときは、それに違和感やら「 そこまで卑屈に上に従う必要があるのか? 」と
感じたこともありますが、こうしてオーストラリアで働いてみると「 みんなそんな自分勝手で
自分のキャリアとか昇進とかにしか興味がなく、自分のテリトリーをひたすら守って
それ以外は 「 私の知ったこっちゃありません 」みたいなのでいいわけ? 」とか
思ったり。
結局、どちらにも 是と非があるんだなぁと思うのです。
何事もバランス。
どちらか? ではなく、どちらも・・・ なんでしょうね。
でもそれが一番難しかったりするわけですよね。