さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

偏見という罪

2010年07月14日 09時48分43秒 | Web log
昨日はクリスチャンという男の子が家に遊びにきた。

学校に日本の文化を紹介に行った時に、人懐こくいろいろ発言したり、話しかけてくれたり、微笑んでくれたりした男の子だ。

ジョナサンが学校に行くと「ジョナサン~」と言って、ハグしようとしてくれる。

ジョナサンが喜んでいるかどうかわからないけれど、とても可愛らしい男の子だ。

でも、学校での評判がよくない。

ジョナサンも He is a naughty boy (言うことを聞かない、悪い子)という。でも、ジョナサンは『それはそれ、これはこれ』で割り切れる。
同じ興味をもっていて、一緒に遊べるなら、別に気にしないという神経の持ち主なのだ。

クリスチャンの評判は、お母さんたちの間でも、彼は素行が悪い、というのだ。

どうも私の受けた印象と評判とが食い違う。

この前は、クリスチャンともう一人の男の子が、クラスメートの男の子の誕生日に招待されなかった。お母さん曰く「けんかとか、面倒なことが起こるかもしれないから」という。

内心「まだまだ未完成の子供なのに、意外と厳しいジャッジをするんだなぁ」と思った。

いつだったか、クリスチャンのお母さんがジョナサンを家に招待してくれたのでいつか、いつかクリスチャンにも家に来てもらおうと思っていたので、今回招待した。

なぜか『きっと大丈夫だろう』という確信のようなものがあった。

そして、様子を伺っていると、思った通り、全然、普通な子だ。

お菓子をだすと、Thank you, Mrs. Suggitt なんて、他の子が言わないような、丁寧な対応をする。

誰しも自己防衛機能を持っている。

自分を危険にさらすものを避けようという本能だ。

情報を収集し、そして良、否の判断をし、そして否の判断を下したものには極力、最初から関わらない。

ま、普通のことだ。

特に女性は、そういうことに敏感な気がする。

ゴシップというソーシャルファンクションを通じて、情報交換をしあい、互いに身を守りあう。

でも、いつもその情報が正しいとは限らない。

リスクを背負いながらも、自分の目で、体で確かめる必要がある。

人の思考に便乗して安易な判断を下すことを避けなければならない。

ゴシップに耳を傾け、それを無条件に信じようとする誘惑にかられながも、できるだけ、自分自身で結論を出すように自分に言い聞かせている。

それにしても、自分が何か悪い経験をしたならともかく、情報だけで『悪い子』というレッテルを安易に貼り付けるってのは、どういうもんか。子供だよ、子供。

子供にそういうレッテルを貼るのを少しも悪いと思わないならば、大人に対してはもっと厳しい判断基準で望んでいるのだろうか。

着ている洋服

住んでいる家
収入 などなど

怖いね。

でも、そういうことでしか判断しないような人とは、別に仲良くなりたいとも思わないので、わたしには全然関係ないのだけれど、それが子供に影響を及ぼすのかと思うとちょっと(かなり??)悲しくなる。



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