優緋のブログ

HN変えましたので、ブログ名も変えました。

『法華経の智慧』  随喜功徳品

2022-11-03 10:44:35 | 「法華経の知恵」に学ぶ
🌟 五十展転の功徳は絶大
 
須田 : 「五十展転」のところは、
このように説かれています。
まず弥勒菩薩が
「この法華経を聞いて随喜する者には、
どんな功徳、
福徳がありますか?」
と質問します。
これに対して、
仏が答えます。
如来の滅後に
─その真意は末法ということです─
法華経を聞いて随喜する者がいるとする。
それがだれであれ、
年寄でも、
若くても、
町へ行き、
田舎に行き、
静かな所、
にぎやかな所、
いろんな所へ行って、
父母、親族、友人、知人に対して、
聞いた教えを、
自分の力に応じて説く(随力演説)とする。
 
そうすると、
聞いた人々は、
また随喜して、
次の人に教えを語る。
それを聞いた人がまた随喜して、
教えを語る。

このように「転教」し、
「展転」していって
第五十番目の人に至ったとする。
 
遠藤 : 五十番目ともなると、
随喜といっても、
もうかなり薄まっているでしょうね。
 
須田 : それでも、
その人の功徳は莫大である
というのが
「五十展転」の趣旨です。
 
池田 : どのくらい莫大かというと、
日蓮大聖人が
「五十展転の随喜は
八十年の布施に勝れたり」
と言われているところだね。
 
遠藤 : はい。
「八十年の布施」というのは、
「四百万億阿僧祇の世界」に住む、
生きとし生ける者に対して、
それぞれの欲しがるものを、
何でも与える人がいたとします。
金、銀、瑠璃、瑪瑙、珊瑚など、
もろもろの宝を与え、
立派な乗り物を与え、
七宝で飾った宮殿を与える。
八十年間、それを続けます。
 
このように、「物」を与えるだけではなく、
この人は、衆生がだんだん年老いてきて、
髪が白くなり、しわが増え、
死期が近づいてきたのを見て、
仏法を教えるわけです。
 
斉藤 : 物を与えるのは「財施」。
法を教えるのは「法施」です。
物だけでは、どんなに豊かになっても、
「老」そして「死」という
人生の根本問題を、
どうしようもない。
そこに、
法を教える必要があるということですね。
 
池田 : もちろん、
この大長者が衆生に教えた大法は、
法華経以前の教えです。
 
遠藤 : はい。
そこで教えを聞いた衆生は、
皆、阿羅漢の悟りなどを得ます。
声聞の悟りです。
が、それでも「すばらしい境涯」
と思われていたものです。
 
須田 : これだけの「財施」と「法施」をやり抜いた人の功徳というのは、
「どうだ、弥勒よ、どう思う。
大変な功徳と思うか?」。
仏がそう聞きます。
弥勒は「この人の功徳は、
はなはだ多くて、無量無辺です」
と答えます。
 
すると仏は、
「この人のその大功徳よりも、
先ほど言った
『五十番目の人が法華経の一偈を聞いて、
随喜した功徳』のほうが、
もっと大きいのだ」
と説くのです。
その「百倍、千倍、百千万億倍」の、
それ以上の
無量の大功徳があるというわけです。
 
池田 : いわんや、
第一番から四十九番目までの人の功徳をや
ということです。
妙法の偉大さです。
第五十番の人は、
文字通り解釈すれば、
自分が随喜するだけで人には語っていない。
他の人に語る
「化他」の行動はないわけです。
それにもかかわらず、
それだけの功徳がある。
いわんや、
もっと歓喜し、
「化他流通」に励む人の功徳は
「無量無辺阿僧祇にして、
比ぶること得べからず(比べられない)」
(法華経五二一ページ)と説いてある。
 
「法華経の一偈」を聞いてとあるが、
文底から言えば、
「南無妙法蓮華経」
ということです。
御本尊ということです。
御本尊の話を聞いて、
「すごいな」
「すばらしいな」
「ありがたいな」─
そう思っただけで大功徳がある。
 
いわんや喜びにあふれて御本尊を拝し、
妙法を、
力に応じて「随力弘通」する人は、
絶対に、
祈りとして叶わざるなく、
福運として来らざるなく、
願いとして所願満足にならぬものはない。
そういう文証です。
 
「五十展転」──。
 
大聖人は、
一生の間に一回でも題目を唱えたり、
また題目の声を聞いて喜び、
さらにその喜びの声を聞いて喜び、
このようにして五十番目となる人は、
智慧第一の舎利弗の如き人よりも、
文殊菩薩や弥勒菩薩のような
大菩薩の如き人よりも、
百千万億倍の功徳があるのだと仰せです
〈「月水御書」、御書一一九九ページ、
趣意〉。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。