優緋のブログ

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〈子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯〉第3回:良観との祈雨の勝負

2022-11-17 11:06:53 | 動画(聖教新聞)


第3回:良観との祈雨の勝負
鎌倉幕府(武家の政府)の人たちは、
大あわてです。
「大変だ! このままでは、
日本が攻められてしまう!」
日本のすぐ隣の、
蒙古という巨大な国から
「我々の言うことを聞かなければ、
日本に攻め込むぞ」という手紙が届いたのです。
この話を人づてに聞いた日蓮大聖人さまは、口を固く結んで海を見つめています。

実は、大聖人さまが幕府に届けた
立正安国論<="" a><span="" >」の中で、<="" span><="" div>
他の国からも攻められてしまう
他国侵逼難<="" a><span="" >)”ということを、<="" span><="" div>
<span="" >すでに書いていたのです。<="" div>
<div="" class="image-f3-1" ><img="" ><="" div><div="" >「私が恐れていたことが、<="" div><="" >現実になってしまった。<="" >人々が争いに巻き込まれ、<="" >これ以上、苦しむようなことがあってはならない。<="" >あらためて、<="" >正しい教えを弘めていくべきである」<="" >早速、大聖人さまは、<="" >幕府の偉い人たちや鎌倉の大きなお寺の僧侶たちに話し合いを求めましたが、<="" >皆、それを無視しました。<="" >それどころか、<="" >大聖人さまへ、<="" >さらに強い迫害を加えていきます。<="" >その中心に、<="" div>
<a="">極楽寺良観という僧侶がいました。
良観は、鎌倉の人々に自分のことを
“立派な仏さま”であるかのように思わせておいて、
裏では幕府と手を結び、悪いことをしていました。
 そんな良観にとって、
本当の教えを説く大聖人さまは、
邪魔な存在でした。
ある夏のこと。
雨が全く降らない日が続きました。
日頃から“雨を降らすことができる”と
自慢していた良観は、
雨が降るように祈ることにしました。
そのことを知った大聖人さまは、
良観に
「7日のうちに一滴でも雨を降らせたならば、
私は良観どのの弟子になりましょう。
もし雨が降らなければ、
良観どのが法華経の教えを信じなさい」と、勝負を申し入れました。
良観は
「これで日蓮をこらしめられる!」
とニヤリ。
すぐに多くの弟子を集めて、
朝から晩まで毎日、
必死になってお経を唱え続けました。
ところが、
どれだけ祈っても雨は降りません。
さらに7日間、祈り続けても、
雨は降らないどころか、
激しい風がビュービューと吹き荒れました。
大聖人さまは、良観に厳しく迫ります。
「あなたは、
雨を降らすことさえできないのに、
どうして大事な成仏が、
かなうというのか」
 良観は、恥をかかされたと怒り、
顔を真っ赤にします。
 「日蓮め、絶対に許さぬぞ!」

 後に、良観は幕府の人たちへ、
「日蓮という悪い僧侶が、
人々をだましている」と、
うそを言いふらしました。
 その話を信じた幕府の人たちが、
大聖人さまをつかまえようと動きだしたのです。

[道しるべ]予言の的中

日蓮大聖人が文応元年(1260年)に
そこでは、
人々が悪法を信じて正法<="" a><span="" >を用いなければ、やがて<="" span><="" div>
<span="" >「自界叛逆難」と<="" >「他国侵逼難」の二難が起こると<="" >警告しています。<="" div>
 池田先生は語っています。 「大事を事前に察知する力は、
まさに智慧の発現です。
 その智慧は、
真剣にして深い慈悲の結実と言える。
民衆に不幸をもたらす大事を未然に察知する智慧は、
一切衆生を救済されんとする
御本仏の大慈悲に基づくものなのです」
 万人の幸福を願う、
御本仏の偉大な精神闘争――。
ここに、大聖人の予言の本質があると拝せます。
[地図・関連年表]

 文永5年(1268年)閏1月(47歳)  蒙古の国書(外交文書)が幕府に届く  同年10月11日  北条時宗らへ諫暁の書(十一通御書)を送る  文永6年(1269年)11月(48歳)  再び各所に諫暁の書を送る  文永8年(1271年)(50歳)  祈雨の勝負で極楽寺良観を破る
 (聖寿は数え年)


「いい夫婦の日(11月22日)」に考えたい「いい結婚制度」とは

2022-11-17 09:02:38 | 動画(聖教新聞)




 


■日本の法律婚制度で生じている問題とは
駒崎 :「いい夫婦」を考える上で、
ズバリ言いたいことは、
“日本の法律婚制度をそろそろアップデートしよう!”
ということです。
婚姻届を出すことで夫婦となる日本の法律婚ですが、
日本の法律婚制度はとても古い制度なので、
今の時代の価値観との間でさまざまな問題が生じています。
駒崎 : 例えば、夫婦の姓については、
いまだ選択的夫婦別姓は実現できておらず、
強制的夫婦同姓の制度のままです。
現在の制度のもとでは、
多くの場合、女性が姓を変えることが多いことからも
男女間の不平等という問題があります。
また、日本ではどんなにお互いが愛し合っていたとしても、
同性のカップルに対しては結婚の制度が開かれていません。
この問題についても近年指摘されるようになってきました。
一方で、離婚についても
現在の制度では、
双方の合意がないと離婚できない仕組みになっています。
駒崎 : DVや強度のモラハラがあった時に、
被害を受けている配偶者側が離婚を申し出たとしても、
相手が合意しなければ離婚できません。そうなると、
事実上、ひとり親になっているにもかかわらず、
法的にはひとり親ではないので、
ひとり親の支援制度が受けられないという問題が実際に起こっています。

■「日本版PACS」制度の導入
駒崎 : ここで解決策として提案したいのが、「日本版PACS」制度の導入です。
PACSとは、
“Pacte Civil de Solidarité”の略で、
フランスで1999年に制定された
民事連帯契約制度のことです。
これは
「同性または異性の成人2名による、
共同生活を結ぶために締結される契約」
と定義されています。
つまり、市民同士がパートナーシップを組むことを制度で保障します
というもので、
法律婚に比べると自由度の高い制度です。
この民事連帯契約制度は、
あえて意訳をするならば
「認定事実婚」ともいえる制度です。
PACSは法律婚よりも規制が緩く、
同棲よりは法的権利等をより享受できる仕組みですが、
同性同士も当然認められていて、
パートナーシップの内容をカスタマイズすることもできます。
そのため100人いれば100通りのパートナーシップの在り方が描けるわけです。
パートナーシップを解消する際もどちらか一方が「別れます」といえば解消できるので、
パートナーシップを組む、
あるいは解消する時のハードルが非常に低くなっているというのが特徴です。

■少子化を止めるために
駒崎 : PACS制度は、
法的にも財産権などさまざまな権利をしっかりと保障しています。
当初は、同性カップルのために作ろうという動きから導入が求められた経緯がありますが、
いざ、ふたを開けてみると異性カップルの利用が多く、
その使いやすさからPACS婚が急増しました。
その点で同制度は、
マイノリティー(少数)が利用しやすい制度を作ったことによって、
マジョリティー(多数)の人も利用しやすくなるという典型的な事例だといえます。
フランスでは、
2018年の法律婚による婚姻件数23万4735件に対して、
PACS締結数は20万8871組にまで増えています(※1)。
どちらの制度がいいのか、
国民自らが選べる仕組みがフランス社会では定着しているのです。
フランスでは出生した子どもに占める婚外子の割合も非常に多く、
2017年には、
新生児のおよそ6割がPACSや事実婚を含む世帯での婚外子となっています(※2)。
駒崎 : PACSと同様の制度は国際的には他の国々でも導入されていて、
スウェーデンでは「サムボ」という
事実婚制度を経た結婚が9割にも及んでいるといいます(※3)。
日本で子どもの数がどんどん減っている背景には、
婚姻数が減っていることがあります。
だからこそ、
日本も諸外国のモデルから学び、
多くの人たち、
特に女性の負担を軽減するために、
新しい形の結婚制度を作っていくべきだと思います。
「いい夫婦の日」をより多くの人が実感できる社会となるように、
さまざまな選択肢を用意していくことが大切だと思います。
※1※2 一般財団法人自治体国際化協会パリ事務所 「コロナ禍で振り返るパートナーシップ制度『PACS』」より ※3 内閣府経済社会総合研究所「スウェーデンの家族と少子化対策への含意-スウェーデン家庭生活調査から-」より



〈子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯〉動画

2022-11-16 10:13:04 | 動画(聖教新聞)


第2回:「立正安国論」提出

[道しるべ]一念の変革
相次ぐ自然災害や深刻な飢饉、
疫病の流行。
塗炭の苦しみにあえぐ民衆を救わんと、
日蓮大聖人が著されたのが
「立正安国論」です。
文応元年(1260年)7月16日、
大聖人は本書を、
実質的な最高権力者・北条時頼<="" a><span="" >に<="" span><="" div>
<span="" >提出されました。<="" div>
悪法を信じていることにあると述べ、
災厄の元凶として念仏思想を鋭く破折。
速やかに妙法に帰依<="" a><span="" >するように促されています。<="" span><="" div>
<div="" class="body-text-f3-1" >その当時、<="" div><="" div>
<span="" >現世の安穏を諦め、<="" >死後の安楽を願う念仏思想がまん延し、<="" >人々から生きる意欲を奪い去っていました。<="" >そうした誤った思想を打破して、<="" >人々の生きる力を呼び覚ますべく、<="" >大聖人は、<="" >妙法弘通の大闘争に挑まれたのです。<="" >池田先生はつづっています。="" 「大聖人は、<="" >念仏破折をもって、<="" >あきらめ、<="" >現実逃避、<="" >無気力といった、<="" >人間の生命に内在し、<="" >結果的に人を不幸にしていく<="" >“弱さ”の根を<="" >絶とうとされたのである」<="" >大聖人は「立正安国論」の結びで<="" >「汝早く信仰の寸心を改めて」<="" >(御書32ページ)と仰せです。<="" >自身の「心」、<="" >信仰の「一念」が変われば、<="" >いかなる状況も必ず変えていくことができる―<="" >日蓮仏法は<="" >“一人の人間の無限の可能性”を示す、<="" >希望の哲理なのです。<="" ><b="" >[地図・略年表]<="" b><="" div><br="" ><div="" ><img="" ><="" div><div=""> 正嘉元年(1257年)8月(36歳)  鎌倉で大地震  文応元年(1260年)7月16日(39歳)  「立正安国論」を北条時頼に提出  その後、松葉ケ谷の法難  弘長元年(1261年)5月12日(40歳)  伊豆流罪  文永元年(1264年)11月11日(43歳)  小松原の法難  (聖寿は数え年)
帰依<="" a><span="" >するように促されています。<="" span><="" div>
<div="" class="body-text-f3-1" >その当時、<="" div><="" div>
<span="" >現世の安穏を諦め、<="" >死後の安楽を願う念仏思想がまん延し、<="" >人々から生きる意欲を奪い去っていました。<="" >そうした誤った思想を打破して、<="" >人々の生きる力を呼び覚ますべく、<="" >大聖人は、<="" >妙法弘通の大闘争に挑まれたのです。<="" >池田先生はつづっています。="" 「大聖人は、<="" >念仏破折をもって、<="" >あきらめ、<="" >現実逃避、<="" >無気力といった、<="" >人間の生命に内在し、<="" >結果的に人を不幸にしていく<="" >“弱さ”の根を<="" >絶とうとされたのである」<="" >大聖人は「立正安国論」の結びで<="" >「汝早く信仰の寸心を改めて」<="" >(御書32ページ)と仰せです。<="" >自身の「心」、<="" >信仰の「一念」が変われば、<="" >いかなる状況も必ず変えていくことができる―<="" >日蓮仏法は<="" >“一人の人間の無限の可能性”を示す、<="" >希望の哲理なのです。<="" ><b="" >[地図・略年表]<="" b><="" div><br="" ><div="" ><img="" ><="" div><div="">