アウワの残響

サウンドヒーラーのスピリチュアルな日々。

天津祝詞の太祝詞事

2006-06-30 15:36:32 | 言霊
大祓詞の前段の終わりに

「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

(天津神が授けた極めて効力の高い祓いの祝詞を唱えなさい)


とあり「此く宣らば~」の前に入るべき太祝詞事は、
完全に欠落空白になっている。


極めて効力の高い言霊なので、あえて口伝としたのは
まちがいなく、伝える人が伝えていいのか人を見極め
初めて伝えられたはずである。

だが、それは埋没してしまい真実が分からなくなってしまう
原因となってしまう。

効力のあるものが、選ばれた人でなければ使えないのであれば
ただの言葉の羅列にすぎず、
本当に効力があり、世の為となるののであれば、万人に公開されるべきで
あると僕は思うがその時期ではないのであろうか。


でも人間、秘密とならば知りたくなるものだ。

「絶対、この箱を開けないで下さいね。絶対ね!」
なんて、ウインクでもされて言われたら
見たくて見たくてしょうがないのだ。


某霊能力者が、ある神社の宮司さんに、たらふく酒を飲ませて
この太祝詞事を聞き出した話もある。(笑)


よってこの太祝詞事は、古来よりいろいろ説がある。


天津祓あるいは五大神咒とよばれる

 ト ホ カ ミ ヱ ミ タ メ

が太祝詞事であるという説。

語源は、

「遠祖神、恵み給め」 遠き御祖神、大いなる恵みをください

「遠神笑美給」 遠き御祖神、笑み給え

「遠神能看可給」 遠つ御祖神、御照覧ください

「ト」水、「ホ」火、「カミ」木、「ヱミ」金、「タメ」土の五大の働き

 とも伝えられている。

幕末から明治にかけて、神道の大衆化を目指した民間の神道家達によって
三種(みくさ)の祓詞が、大流行する。

津和野国学の大国隆正氏、黒住教の赤木忠春氏、吐善加美神道の伊藤要人氏
伯家神道の流派の一つの「すめら教」の鬼倉足日公氏らは
三種(みくさ)の祓詞の「とほかみゑみため」が太祝詞事であると指摘して
いる。

三種の祓詞は、

 とほかみ ゑみため
 寒言神尊 利根陀見 (かんごんしんそん りこんだけん)
 祓い給え 清め給え

第一行目 「天津祓」、第二行目 「国津祓」 第三行目 「蒼生祓」

で三種(みくさ)の祓詞となる。

しかし、二行目の国津祓「寒言神尊 利根陀見」は
周易の「坎艮震巽離今坤詫兌乾」(かんこんしんそんりこんたけん)
に由来しているので、漢意と考えられ、日本霊性を大事とする
吉田神道や伯家神道では、この部分を外して唱えられるようになる。

よって

 「とほかみ ゑみため 祓い給え 清め給え」となってしまう。


また、

 トホカミヱミタメ 
 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
 祓え給ひ 清目出給ふ


 トホカミヱミタメ
 子丑寅卯辰巳午羊申酉戌亥
 祓え給ひ 清目出給ふ

 トホカミヱみタメ
 乾(天)兌(沢)離(火)震(雷)巽(風)坎(水)艮(山)坤(地)
 祓え給ひ 清目出給ふ

 大自然の構成をあらわす「十干・十二支・八卦」をミックスした
 三種の祓詞もあり、これも大変ありがたそうなのである。


すめら教の鬼倉足日公氏は、この八言は
天之御中主神、高御産霊神、神産霊神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、
天之常立神、国之常立神、豊雲野神の八柱の神を表し、
大祓詞を奏上する場合には、この八音を黙唱すると著書に記している。
 

以前ちらりと掲載した「ひふみ祝詞」が
太祝詞事である説。
    
最初から何も書いてなかった説。   

と秘密のペールに包まれたままなのである。


ここで終わるとTVのミステリー特番の二時間見たけど
結局結論分からずじまいになってしまうので


「とほかみゑみため 祓い給え 清め給え」と三回唱える
のが有力ではないでしょうか。

僕も空間を浄化するとき大変効果ありますので。


大祓詞 (おおはらいのことば) 2

2006-06-25 22:19:48 | 言霊

 此く宣らば 天つ神は 天の磐門を押し披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに

 かくのらば あまつかみは あめのいわとをおしひらきて あめのやえぐもをいずのちわきに

 

千別きて聞こし食さむ 国つ神は高山の末 短山の末に上り坐して 高山の伊褒理

ちわきてきこしめさん くにつかみはたかやまのすえ ひきやまのすえにのぼりまして たかやまのいぼり

 

短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ 此く聞こし食してば 罪と云う罪は在らじと

ひきやまのいぼりをかきわけてきこしめさん かくきこしめしてば つみというつみはあらじと

 

科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧 夕の御霧を 朝風 夕風の

しなどのかぜのあめのやえぐもをふきはなつことのごとく あしたのみぎり ゆうべのみぎりを あさかぜ ゆうかぜの

 

吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を舳解き放ち 艫解き放ちて大海原に押し放

ふきはらうことのごとく おおつべにおるおおふねをへときはなち ともときはなちておおうなばらにおしはな

 

つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の利鎌以ちて 打ち掃う事の如く 遺る罪は在

つことのごとく おちかたのしげきがもとを やきがまのとがまもちて うちはらうことのごとく のこるつみはあ

 

らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 

らじと はらえたまいきよめたまうことを たかやまのすえ ひきやまのすえよりさくなだりにおちたぎつ

 

速川の瀬に坐す瀬織津此売と云う神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば

はやかわのせにますせおりつひめというかみ おおうなばらにもちいでなん かくもちいでいなば

 

荒潮の 潮の八百道の 八潮道の 潮の八百会に坐す 速開都此売と云う神

あらしおの しおのやおじの やしおじの しおのやおあいにます はやあきつひめというかみ

 

持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と云う神 根の国 

もちかかのみてん かくかかのみてば いぶきどにます いぶきどぬしというかみ ねのくに

 

底の国に 気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根の国 底の国に坐す

そこのくにに いぶきはなちてん かくいぶきはなちてば ねのくに そこのくににます

 

速佐須良此売と云う神 持ち佐須良ひ失いてむ 此く佐須良ひ失ひてば 

はやさすらひめというかみ もちさすらいうしないてん かくさすらいうしないてば

 

罪と云う罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 国つ神 八百万神等共に 

つみというつみはあらじと はらえたまいきよめたまうことを あまつかみ くにつかみ やおよろずのかみたちともに

 

聞こし食せと白す

きこしめせともおす


大祓詞 (おおはらいのことば) 1

2006-06-24 18:46:18 | 言霊

今年も早いもので、全国の神社では、一年の折り返しにあたる6月30日に夏越祓(水無月祓)が行われ、半年間の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災が祈願される。

全国の神社で奉唱されるのだから、スゴイスゴイ日本は言霊の国なのだ。

 この祭儀に一般的に奉唱されている「大祓詞」の原型となる「六月晦大祓」(みなづきのつごもりのおおはらえ)別名「中臣祓」は、千数百年にわたって、ほぼ原型をとどめ現代にいたる。

 普段僕の使用している「祝詞 陀羅尼集」 原書房の大祓詞から前段を掲載する。

 

高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以ちて 八百万神等を 神集えに

たかまのはらにかむづまります すめらがむつかむろぎ かむろみのみこともちて やおよろずのかみたちを かむつどえに

 

集へ賜い 神議りに議り賜ひて 我が皇御孫命は 豊葦原水穂国を安国と平けく

つどえたまい かむはかりにはかりたまいて あがすめみまのみことは とよあしはらのみずほのくにをやすくにとたいらけく

 

知ろし食せと 事依さし奉りき 此く依さし奉りし 国中に荒振る神等をば 神

しろしめせと  ことよさしまつりき   かくよさしまつりし  くぬちにあらぶるかみたちをば      かむ

 

問はしに問はし賜い 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし磐根 樹根立 草の片葉をも

とわしにとわしたまい   かむはらいにはらいたまいて  ことといしいわね、 きねたち  くさのかきはをも 

 

語止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別きに千別きて 天降し依


ことやめて    あめのいわくらはなち   あめのやえぐもを    いずのちわきにちわきて    あまくだしよ

 

さし奉りき 此く依さし奉りし 四方の国中と大倭日高見国を 安国と定め奉りて

さしまつりき    かくよさしまつりし   よものくになかとおおやまとひだかみのくにを  やすくにとさだめまつりて

 

下つ磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉

たついわねにみやばしらふとしきたて  たかまのはらにちぎたかしりて  すめみまのみことのみずのみあらかつかえまつ

 

りて 天の御陰 日の御陰と隠り坐して 安国と平けく知ろし食さむ 国中に成り

りて   あめのみかげ   ひのみかげとかくりまして  やすくにとたいらけくしろしめさん   くぬちになり

 

出でむ 天の益人等が 過ち犯しけむ種種の罪事は 天つ罪 国つ罪 許許太久

いでん  あめのますひとらが  あやまちおかしけんくさぐざのつみごとは  あまつつみ  くにつつみ  ここだく

 

の罪出でむ 此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を本打ち切り 末打ち断ちて

のつみいでん   かくいでば   あまつみやごともちて    あまつかなぎをもとうちきり   すえうちたちて  

   

 千座の置座に置き足らはして 天つ菅曾を 本刈り断ち 末刈り切りて 八 針に

  ちくらのおきくらにおきたらわして   あまつすがそを    もとかりたち  すえかりきりて   やはりに 

 

取り辟きて 天つ祝詞の太祝詞事を宣れ

とりさきて      あまつのりとのふとのりごとをのれ


なまけ者のさとり方

2006-06-22 17:44:39 | 
なまけ者のさとり方 PHP文庫

PHP研究所

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この本は、薄い。

髪は、ウスクない方が出来ればよろしいのだが、
本は、薄くて読みやすい方がイイ。
123ページほどなので、すぐ読み終わる。

だけど、中身が濃いのです。

英語版は、五十万部にも達しているベストセラーのようです。

ベストセラー本のたちまち五十万部突破!なんて
コピーにだまされ、内容スカスカ本を買ってしまうことの
多いこと。多いこと。


ベストセラー請負会社なんてところもある世の中なので、
いかに羊のごとく正直誠実うそつきません我々は、
情報操作されているのでしょうか?

TVの番組の合間に入るCMの爆音よろしくこれ買って買って
攻撃をかわしつつも、無意識のうちに近所のスーパーで買って
しまうダメな私・・・



基本的にナマケモノなので、タイトルに引かれ数年前に購入。

簡潔な文章なのだが、内容が深い深い。
おかげで、何度も何度も読まされました。

「さかわらないこと」
「あるがままに愛しなさい」
「今のあなたのままで、できる限り愛しなさい」


禅の言葉にも通じるような内容をユーモアあふれる文章で
淡々と書かれています。

愛の解釈の仕方を愛するを越える「スーパーラブ」の
感覚で読まないと、
「愛でご飯食べれますか。」という疑問が出てくる僕は
やっぱり愛のバイブレショーンが低いのでしょうか。

「そうしている自分をそのまま丸ごと、愛してあげて下さい」と
本にも書かれているので、自分を丸ごと愛することにします。

文庫本も出たようです。☆☆☆☆☆星五つあげちゃう。





カルマを越える

2006-06-21 18:30:14 | スピリチュアル
一般的にカルマ(業)といえば、
過去に自分の行った行為のつけを支払うことである?
(人、それぞれによって解釈が違うようです。)

人生において、さまざまな悩みや不幸にであう。
自分もそうだった。

突発性血小板減少性紫斑病やら不安神経症に悩んだ。
親は、大変だったに違いない。(感謝しています。)


あらゆる治療や病院をまわっても治らず、代替医療や
こんどは、藁にも摑まる思いで、
風水、四柱推命、霊能力者・超能力者等さまざま
巡り巡った。

それぞれが、最もらしいことをいい、なるほどと
思ったのは、つかの間で、いい結果は、得られず。

子狐が2匹憑いていますっていうのもあったけど。
家には、白蛇がとぐろをまいてここにも、あちらにも。
動物園かよって感じ。(笑)

それでも、いい結果が得られず、今度は自分で書物を漁った。
おかげで、精神世界に詳しくなる。

次第に、過去生に犯した罪を今生で償っているのだなと
考える様になった。

なるほど、自業自得で納得した。

そして、カルマの無限ループに落ちていく。

自分に良くないことが、起きれば
「あっ、カルマか。」と考える様になった。
過去生では、先祖に悪いことをしたのだと。
今の出来事は、過去のカルマを清算しているのだなと。

まあ、いい勉強になったが、それでなにが変わったかというと
本質的に何も変わらなかった。何にも・・・
かえって不安や恐怖が増した。


でも、ある時ふと気が付いた。


この世は、自分の思考の結果であり、何十万通りの結果が生じる。
すべて、自分次第なのだ。


カルマがあると思えば、ある世界に生きることになり、
自分に今、悪いことが起きたとき過去生のカルマだと思えば
そのような世界に生きることになる。


従って、自分のおかれた世界は、自分の考えた結果である。
と、いうことは運もカルマも自分次第ということになるだろう。


過去生があったとしても、普通の人はどんな過去生を
送ってきたか、分からない。
分からなくてあたりまえなのだ。
(過去生に関する本は、今何冊も出ていますが。)

今限られた肉体、現状の中で自分なりのベストを尽くすしかない。
結果は、気にしない。

すると、自分の中に自分の求めるの本当の答えがあることに気づく。
自分のおかれている環境も劇的に変わリ始める。




八咫鳥(ヤタガラス)

2006-06-12 08:47:49 | スピリチュアル
日本サッカー協会のシンボルマークは、いわずと知れた
八咫鳥(ヤタガラス)である。

明治時代、日本に近代サッカーを紹介した中村覚之助氏の出身が
八咫鳥を祀る熊野大社のある和歌山県那智勝浦町であったため、
氏の功績を称え、八咫鳥のデザインが採用されたようだ。

「古事記」に天照大御神の子孫である神武天皇率いる東征軍が
熊野から大和に攻め入る道中で迷ったとき、高御産巣日神の命を
受け、八咫鳥は、一行を大和までナビゲートしたということが記載
されている。

神の使いであるから八咫鳥は、デカイ。

咫とは親指と中指を広げた長さの単位で一咫が18cmであるから、
144cmの体長となる。(この144も鍵となる)

そして、熊野大社の牛王神符の中の烏点に見られる様に三本足である。

三本足は、「智」「仁」「勇」という三徳を表しているとか、
「天」「地」「人」また、「現在」「過去」「未来」を表していると
される。

時空も越えちゃうのである。

おカラス様は、一般的に黒く見えるのだが、見る人の霊性により
色が変わって見える。

顕界(うつしよ)であるこの世では、黒く見え陰の鳥だが、
幽界(かくりよ)のみえないホントの世界では、陽の鳥となり、
透明であったり、金色であったりする。


普段お住まいになっているところは、どこかというと
太陽に住んでいて、ときおり黒点となって飛んでいるのが
みられるのであります。

八咫烏様は、火の鳥フェニックスなのです。

太陽神の使者として世界各地にも
世界に新秩序と甦りをもたらす烏として
伝えられている。

サッカーボールである三十二面体(バッキーボール)を
足で押さえる霊の本の国のシンボルマークとしてのカラス様のお姿は、
TVで観戦する全世界の人々の脳裏に今日また焼付けられる。

勝ち負けの関係ないボーダーレスの世界のために・・・










聖なる者

2006-06-06 17:22:17 | スピリチュアル
IV~聖なる剣
TOTO
ソニーミュージックエンタテインメント

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私達は、聖なる者である。

自然界において、動植物、鉱物、宇宙、もちろん人体は
ある一定の比率によって形造られている。

また、人工の建造物や絵画、彫刻にもその比率がみられる。

この世で「美しい」と思えるものには、黄金比 1:1.618という比率が
隠されている。

人体を例にすると、身長をへそから床までの長さで割る、または、
肩から指先までの長さを肘から指先までの長さで割る・・
人体は、黄金比の宝庫だ。

「ありがとうございます」「感謝します」とカウンター片手に
一日千回連呼する必要も無い。

肉体を痛めつけて苦行する必要やクンダリーニを上げたり
チャクラを開発する必要も無い。

ここに存在し、ニコニコ毎日を生きるだけで
人体の中では、奇跡が起こっている。

見えないだけなのだ。

自分の外に聖なるモノを求めている限り
それは、決して現れない。



神社に参拝に行く。
三つの鳥居をくぐり抜け、参道(産道)を通って
拝殿にたどり着く。

御神体は、神社によってまちまちだが、
イワクラであったり、剣や石等だが、
多くは、鏡であることが多い。

参拝に伺って、鏡に映る姿はあなた自身である。
あなた自身の中に神を見るわけである。

天皇が毎朝早朝になさる儀式がある。
「御鏡御拝の儀」といわれ、宮中に伝承なさった
八咫の鏡に対し、御拝をなさる儀である。

自己がこの世でもっとも聖なる物であり
愛すべきものであると気づくこと。

すべては、そこから始まる。



これでいいのだ

2006-06-03 17:13:03 | 
天才バカボン (1)

竹書房

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赤塚不二夫氏が描いた「天才バカボン」。
バカボンのパパを中心に毎回一騒動がおきるが
最後は、一見落着ですべてハッピーエンド。


ママは美人で、長男のバカボンは、おっちょこちょいだが素直で
次男のはじめちゃんは、天才。いうことなし!

銃を乱射するおまわりさん、ウナギ犬、レレレのおじさん、
家に遊びに来るパパの大学時代の友人は、一癖も二癖もあるけど
どこか憎めない個性あふれる登場人物。

バカボンは、婆伽梵=釈迦という解釈もあるから面白い。

このマンガからは、生き方を学んだ。


明日のことは、明日になってみなければ誰にも分からない。

だから、自分でイイと思ったことは、なんでもやってみる。
やりたいことは、すべてやってみる。

人間は、すぐれたセンサーを天から標準装備でつけてもらっている。
使用料金は、タダ。

Oーリングテストなるものあるが、指の力加減や一人でやるには
難しい。

迷ったら目を閉じて心を鎮めて、温かい感じがする。明るい色を
感じる。呼吸が深くなるモノをチョイスするとまちがいない。
コツは自分を信じること。

でも、まちがったら・・・

神さまだって間違う。「古事記」「日本書紀」を読むと分かるが
伊邪那岐と伊邪那美の男女二神は、天降って国生みの際に、
先に女神の伊邪那美神から誘いの言葉をかけてしまい
(女性からお誘いを受けてみたいもんですが)
水蛭子(ヒルコ)を生んでしまう。(ホツマツタヱでは
ここ違う解釈をしています。)

まちがったので、次に男神の伊邪那岐神から誘いの言葉を
かけてやり直した。

また、国生みの際に伊邪那美神は、火之迦具土(ほのかぐつち)と
いう火の神を産んだことから、みほとを焼かれて死んでしまう。

死んだ妻に会いに黄泉国へと伊邪那岐神は、旅立つのだが
妻の姿を見てはいけないと言われても我慢できないで
姿を見てしまう。

黄泉国に行ったので、身が穢れてしまったので、九州の日向の
阿波岐原に行って、禊祓をする。


これらの話から、まちがったら
やり直せばいいんだよ。と僕は解釈している。


まちがっても、いいのだ。
間違いに気づいたら、やり直せばいいだけ。
他人に迷惑をかけたら、すぐ誤る。「ごめんなさい。」
絶対隠さない。気づいたらすぐに誤る。
そして、やり直す。

結局最終的には、良い様になる。遠回りしても、
ゴールは同じ。速いか遅いかの違い。
遠回りしたほうが、自分の為になることが多い。

すると、最初から間違いと言う観念は無くなってしまう。
ストレスなんてなくなる。


でも、最終決定は自分で決める。
絶対、他人まかせにしない。
自分を信じる。

これでいいのだ!





生きる

2006-06-02 12:18:30 | スピリチュアル
ただ、淡々と生きる。
それが、最高の先祖供養となる。

人は誰でも父親と母親がいなければ生まれてこない。
そして、父親と母親にもそれぞれ父と母がいる。

単純計算しても、10代前の先祖の人数は、1,024名、
20代前になると1,048,576名の先祖がいることになる。
30代前となると・・・・

その一人でも欠けてしまうと私は、存在しないことになる。

その先祖の知恵や文化等総結集体のピラミッド上の頂点に立つ
のが私であり、ウルトラスーパーデラックス人間なのである。

先祖が驚いたり、楽しんだこと、悲しんだことなども今を生きる
私の細胞に刻まれている。

先祖は、肉体が無くなっても今ここに生きていのだ。

自分の細胞や五臓六腑や眠っていてもフル活動している脳、
肺、心臓に感謝する。

自分のカラダに言葉で感謝する。

他人に感謝しなさいと良く言うが、もっと自己チュウーに
自分に感謝しまくる。今の自分に感謝する。

僕もそうだったが、外に原因を求めようとする。

先祖は祟らない。肉体から開放されているから。

僕が、先祖であったなら、どんなに飲んだくれで
アホでお間抜けであっても、子孫がかわいいし、助けたい。
たとえ、先祖を敬わなくても。

すべて自分に原因があり(過去生を追及してもそれは、過去に
意識を向けることであり、ここでは、今の自分の考え方とする)
そしてそれを解決できる素晴らしい答えは、結局すでに
自分の中にあり、自分しか導き出せない。

そのことに気づくと世界が変わる。薔薇色の世界に。
今ここが天国に。