オータムリーフの部屋

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自国民による自国民に対する戦争犯罪

2017-08-16 | 戦争
日本軍は、ミッドウェイ海戦、マリアナ沖海戦と大敗を期し、持てる空母を失っていく。しかし、この時は沖縄も日本本土にも戦火は届いていなかった。
論理的にここを敗られたらおしまいだよと言ってたにもかかわらず、いざ敗られると、本土決戦、玉砕と言う言葉が幅を利かし、戦争を終結することはできなかった。
マリアナ沖海戦の敗退から1ヵ月後新聞にある軍司令官の言葉が載った。1944年7月19日の読売新聞。
「体当たりの決意さえあれば勝利できる。量の相違など問題ではない」この人物こそ特攻の生みの親といわれる大西瀧治郎。
 
フィリピンレイテ沖で初めて神風特別攻撃隊が出陣した。敷島隊だ。隊長は関行男大尉。10月25日、ルソン島のマバラカットから飛び立った特攻隊は大成功を収める。ちなみにこの日は戦艦の武蔵が撃沈された翌日になる。レイテ島の東で4隻の敵の空母群を発見して対空砲火のなか敷島隊は体当たり攻撃をおこなった。当時まだ特攻に反対する指揮官もいたのだが、この成功?で今後も続けることになってしまった。
関さんは実は出撃前新聞記者にはこう語っていたという。
「ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA[妻のこと、海軍士官の隠語]のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」
初めは面食らって大きな被害を出したアメリカ軍も対空砲に工夫をして、砲弾が目標に当たらなくても、近くに行くと金属に反応して自分で爆弾が爆発するVT信管を開発した。その後、特攻作戦は目立った戦果を上げられなくなる。
 
特攻は主にフィリピンと沖縄での戦いで強行された。10ヵ月という短期間だが、3848人が犠牲になった。太平洋戦争の末期追い詰められた日本軍が戦局を打開するために強行した特攻作戦。
ここでは、検閲を通過した表向きの遺書ではなく、こっそりと書き溜められた真実の声、真実の姿を抜粋してみたい。
 
学徒出陣で特攻隊員になった上原良司さんはその時々にたくさんの遺書を残していた。
彼が書いた最初の遺書は昭和18年9月22日付で、これはよくある普通のタイプのものだ。上官に遺書を書くようにうながされ、「正式の遺書」を書いたのだろう。ただ、「私は戦死しても満足です。何故ならば、私は日本の自由のために戦ったのですから」という下りは注目される。「自由のため」という表現は、当時としてはきわめて異例だった。
上原の「最後のメモ・ノート」という手記には、彼の自由への熱き思いが語られる。昭和19年6 月8 日付のメモは「国家主義(全体主義)と個人主義」というタイトルで、次のように書かれている。
「個人が国家に尽くすというのは、結局、個人のためである。国家のためではない。この意味において、国家主義は個人主義の中に入る。自由は人間性なるが故に、自由主義国家群の勝利は明白である。日本は思想的に既に敗れているのだ。何で勝つを得んや。しかし吾人が、彼のアメリカの学生がその独立を守らんがため闘っていると同じく、日本の独立のためにあくまで闘うのだ。日本の自由のために、独立のために死を捧げるのだ」。
「最後のメモ・ノート」の昭和19年11月19日。
「日本軍隊においては、人間の本性たる自由を抑えることを修業すれど、謂く、そして自由性をある程度抑えることができると、修養ができた、軍人精神が入ったと思い、誇らしく思う。およそこれほど愚かなものはない。…いわゆる軍人精神の入ったと称する愚者が、我々に対しても自由の滅却を強要し、肉体的苦痛もその督戦隊としている。しかしながら、激しい肉体的苦痛の鞭の下に頼っても、常に自由は戦い、そして常に勝利者である。我々は一部の愚者が、我々の自由を奪おうとして、軍人精神という矛盾の題目を唱えるたびに、何ものにも屈せぬ自由の偉大さを更めて感ずるのみである。偉大なる自由、汝は永久不滅にて、人間の本性、人類の希望である」。
昭和20年1月23日。
「近き将来において日本は敗れるかも知れぬ。何故ならは、既に権力主義は敗退の一途をたどりつつあるからだ。権力主義の国においては、外からの圧迫が強くなり、締めている力が弛んだ時が滅亡である。即ち、内からの猛烈な力によって敗退するのである」。
同年2月7日。
「2・26以来、日本はその進むべき道を誤った。…権力主義者は己の勝利を願って、日本を永久に救われぬ道に突き進ませた。彼らは真に日本を愛せざるのみならず、利己に走って偉大なる国民に、その欲せざる方向を強いて選ばしめ、アメリカの処置をその意に訴えるが如き言辞を以て、無知なる大衆をだまし、敢て戦争によって自己の地位をますます固くせんとした。勿論、そは国民の犠牲においてであるが。かくて彼等は、一度は無知な国民の眼をあざむき得たが、時の経つに従い、天は自然の理を我々に示してくれたのである。彼等は、ジャーナリズムを以て、あくまでも国民の眼をあざむかんと努めたるも、自然の力にはその前に頭を下げざるを得なくなりつつある」。
「自由の国アメリカが、その最後の勝利を信じているのは当然であり、これこそ歴史の示す必勝の信念である。必勝の信念は思想の必勝の基礎の上におかるべきものであって、単に不敗であるということを基礎とするのや、科学力を無視した訓練等を基礎として生まれるべきはずのものでない」。
「最後のメモ・ノート」は昭和20年4月5日で終わる。その最後はこう結ばれている。
「特攻隊員(振武隊)となりて…悠久の大義に生きるとか、そんなことはどうでも良い。あくまで日本を愛する。祖国のために独立自由のために闘うのだ。天国における再会、死はその道程にすぎない。愛する日本、そして愛する冾子ちゃん」。
 
上原は「最後のノート・メモ」に示された思考を、昭和18年に書いた最初の遺書とは別に、「第二の遺書」としてまとめている。
「左の引出に遺書があります。右にある釘をぬいてから引出して下さい。良司」。その引出しにあった「第二の遺書」には、家族への感謝の言葉が綴られているが、それ以上に自分の思考の吐露が行われている。
「私は明確にいえば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に聞こえるかも知れません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。戦争において勝敗をえんとすれば、その国の主義を見れば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦(かちいくさ)は火を見るより明らかであると思います。日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。この上は、ただ日本の自由、独立のため、喜んで命を捧げます」。
この「第二の遺書」の末尾には、
「離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。開かなかったら左の引出しを開けて釘を抜いて出して下さい」とある。
こうした何重ものガードの末、親しいものだけが読むことのできた本当の遺書、「第三の遺書」が「所感」である。これは上原が出撃前夜(5月10日)に書いたもので、そこには、彼の思考の到達点が示されている。
「権力主義、全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家において見る事が出来ると思います。ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツもまた、既に敗れ、今や権力主義国家は、土台石の壊れた建造物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ、過去において歴史が示したごとく、未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思われます」。
「空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事は確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事でも強いて考えうれば、彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何も云う権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。こんな精神状態で征ったならもちろん、死んでも何にもならないかも知れません。故に最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です」。
「飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽わらぬ心境は以上述べたごとくです。何も系統だてず、思ったままを雑然と述べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。云いたい事を云いたいだけ云いました。無礼を御許し下さい。ではこの辺で。出撃の前夜記す」。
出撃前夜、手記を信頼していた軍の報道班員に託した。
良司さんにはかわいがっていた妹がいた。
最後の別れのために故郷に戻った良司さんは登志江さんだけに言葉を残した。
「俺が戦争で死ぬのは愛する人たちのため、戦死しても天国へ行くから、靖国神社には行かないよ」
 
国のために命をなげうった人たちをどう悼むのか。明治政府の出した答えが、東京・九段の靖国神社への合祀(ごうし)だった。戦後72年のいま、自衛隊の活動範囲が広がる中で、「戦死」が現実味を帯びてきた。国のために闘った人たちは、自分の死の意味を考え続けた。それは、天皇のため、国のため、家族のためと言う期待された応えの中に納まるはずもなく、敗戦後の自由な日本を希求したものだった。
 
 《愚劣なりし日本よ 優柔不断なる日本よ 汝(なんじ)いかに愚かなりとも 我らこの国の人たる以上 その防衛に奮起せざるをえず
 オプティミズム(楽観主義)をやめよ 眼を開け 日本の人々よ 日本は必ず負ける
 そして我ら日本人は なんとしてもこの国に 新たなる生命を吹き込み 新たなる再建の道を 切りひらかなければならぬ……》
 京都大生から学徒出陣で海軍航空隊員となり、戦死した林尹夫(ただお)さん(享年23)の遺稿集「わがいのち月明(げつめい)に燃ゆ」。この一節をはじめ、最期の叫びを集めた「やすくにの遺書」という冊子が今春、靖国神社や在外公館などで配られ始めた。英訳もついている。
 「靖国神社に祀(まつ)られているのは、赤紙一枚でひどい戦争に参加させられた人がほとんど。本当の姿を読み取ってほしい」。まとめたのは言論誌「月刊日本」の南丘喜八郎さん(71)。
 南丘さんの実父は中国戦線から生還したが、夜にうなされ、恐ろしいほどのうめき声を上げて跳び起きることがあった。「苦しんでいたと思う。生き残った人はみんなそうだったんでしょう。殺す訓練なんかしてなかったわけだから。それは、今の自衛官も同じ」
 掲載する遺書を選んだ際、「天皇陛下万歳」といった職業軍人に多いタイプのものは、できるだけ外した。「国や故郷、家族、恋人、友人への思いが表れたものを選んだ」という。
 英仏独語を操り、絶望的な戦況を理解していた林さん。「ダメな日本だと言いながら、命を賭して戦う。信じがたい境地。壮絶な葛藤だっただろう」と、資料収集や編集にかかわった伊藤武芳さん(37)は言う。
「やすくにの遺書」には、先の大東亜戦争で戦死された方々の遺書を、英文との対訳で掲載されている。
私達が、この和英対訳の「やすくにの遺書」を発刊したのは、祖国を守る為に、戦地に赴き、斃れられた方々の思いを、何としても海外の人々に知ってもらいたいと考えたからです。
 
彼らの死を悼み、涙するだけでは、戦争の教訓を学んだことにはならない。本当に彼らの死を悼み、二度と戦争を繰り返さないという強固な反戦の意思を育てることが彼らの死に報いる唯一の方策だ。
赤紙一枚で徴兵され、無残に殺された若者たち。その悲劇は特攻隊員だけではない。この世の地獄としか言いようのないインパ-ル作戦をたどってみよう。
 
1944年初頭に入ると、戦局の趨勢は誰の目からも明らかになっていた。日本陸軍の主要敵国は、あくまでも中国であり、アメリカとの戦いは副次的なもので海軍の責任であった。だから、陸軍は、百万近い大軍を動員して、中国大陸とインドで大攻勢を行なった。インドでの作戦が悪名高きインパ-ル作戦だ。
インパールというのは、ビルマ(現ミャンマー)との国境にあるインドの街で、イギリス軍の最前線基地になっていた。アメリカとイギリスは、中国に対して戦略物資の援助を行なっていた。その物資は、英領ビルマから蒋介石軍に届けられていた。1942年初頭、イギリス軍は、強力な日本軍の前に成す術も無く敗走し、ビルマを放棄してインドに逃げ込んだが、1944年に入ると、状況は大きく変化し、連日のように続く空中戦で、日本のパイロットは次々に失われていく。圧倒的な物量を誇る連合軍は、いつしかビルマの制空権を一手に握っていた。彼らは中国との連絡路の奪回に動き出し、少数精鋭のゲリラ部隊をビルマ北部に潜入させ、これに空から補給を行なって、中国軍と連携させることに成功した。
 そこで、日本陸軍は、イギリスの最前線基地であるインパールを攻略し、彼らの計画を挫折させようとした。しかし、兵站を考えると成功はほぼ不可能なことが指摘され、最初から無謀な作戦だった。ビルマとインドの国境には、チンドウイン河という大河が横たわり、それを超えた後はアラカン山系という、標高2000メートル級の山々が聳えていた。もちろん、まともな道路はない。自動車はもちろん、荷車だってロクに通れない。どうやって、前線部隊に武器弾薬や食糧医薬品を渡すのか?強烈な個性を持った一人の将軍牟田口廉也が強硬な精神論を掲げ、5000人の犠牲(日本軍)でインパ-ルを落とせるなどの言葉がビルマ司令部では飛び交っていた。牟田口は、「軟弱なイギリス軍など、あっというまに倒して見せる」と豪語し、短期決戦でやれば歩兵の携帯用食糧だけで十分と考えた。兵站の専門家は、反対したが、反対したものは更迭された。親友であり、上司であった河辺は「牟田口くんがやりたいなら、やらせてあげたい」と言ったのだ。日本軍の命がかかった作戦が日常的な軽口で決まってしまった。さらにシンガポールで、美食と観光三昧の生活を送っていた「南方軍」の寺内寿一元帥は「良きに計らえ」という対応だった。東京の東条は「やれるならやりたまえ」。こうして、まともな検討もなされぬまま、作戦は願望だけで走り出した。
 さすがに携帯食品だけで無理と感じたのか、途中の農村から大量に牛を徴発して、これに荷物を運ばせようとした。武器は分解して、牛の背中に乗せた。
兵隊は、腹が減ったら牛を殺して食えば良い。牟田口は、ジンギスカンの故事に学んだつもりで、己の教養をひけらかしたという。チンドウイン河で牛の半数が溺れ死に、残りの半数も山道を進むことができずに、放棄されたという。それでも、牟田口は意気軒昂として「日本人は、もともと農耕民族で草食動物なのだ。ジャングルの中で草を食えば、補給などいらぬ!」と公言したという。
 無知蒙昧と不見識も、ここまで来ると、狂気だが、今だって苦労知らずのお坊ちゃま政治家はこんな程度だろう。
 日本軍はアラカン山系を突破して、インパールの街を、北、東、南の三方から包囲したが、戦う体力も武器も十分とは言えず、殆ど戦わずして敗退することになる。自殺と言える突撃が繰り返され、死屍累々の戦場のフィルムがイギリスで保存されていた。この作戦は日本ではなく、イギリスで検証され、牟田口も聴取された。戦後の国内で四面楚歌だった牟田口はインパ-ル作戦に悩まされたというイギリスの検証結果を読んで、大いに喜んだという。
日本軍の大砲は、5月の段階で、一日に一門当たり3発の砲弾しか発射できなかったそうだ。この時点で、作戦の失敗は明白になっていたにもかかわらず、牟田口は苦戦する2個師団を「軟弱」と決め付けて、師団長をクビにした。こうしている間に、前線の日本軍は、まさしくジャングルの草を食って生きている状態になってしまう。ジャングルの獣やハゲタカ、あろうことか仲間にとどめを刺され、食されてしまうもの、それを目撃して、証言する者もいる。
 コヒマの佐藤師団は、銃剣で戦車に渡り合うという苦境に陥り、独断で、全部隊を撤退させてしまった。牟田口は、これを口実にインパール作戦の中止を言い出す。部下が背いたから負けたのだ、という言い訳が出来るからだ。いつしか7月に入り、雨季が到来し、ジャングルは疫病の巣と化す。骸骨のように痩せ衰えた日本兵は、次々に病と飢餓に倒れていく。この作戦での3万人に及ぶ作戦の死者のうち、6割は撤退後に死亡したという。日本軍の退却路は、死体の山が散乱したことから、「白骨街道」と呼ばれた。生還した佐藤師団長は、日本刀を引っさげて牟田口司令部に乗り込んだ。佐藤は、軍法会議で死罪になることを覚悟して、その裁判の壇上で、牟田口や河辺の「犯罪」を弾劾してやろうと準備していたそうだ。しかし、軍法会議も裁判も行なわれなかった。佐藤中将は、「精神病」という事で、その行為は不問にされた。
 
 この状態で、部下を救う最善の方法は連合軍に投降して、捕虜になることだったと思う。事実、牟田口の秘書官として克明な日記をつけていた斎藤少尉は、牟田口と撤退中にマラリヤにかかり、置き去りにされた。捕虜になることで助かった斉藤はNHKスペシャルの最後、病床で力弱く語った。戦後は戦争を語らず、幸せな生活を送ったはずの彼の悲痛な姿に衝撃を受けた。自国民による自国民に対する戦争犯罪が、今なお裁かれる法制もなく、戦場で虫けらの如く、死んでいく。これが国民を守るという建前で行われた戦争の実態であることに絶望的な虚しさを感じる。指揮官は自国民を戦争で無駄に大量に殺しても犯罪として認定されることも責任を問われることもなく、ひとかけらの反省もなくのうのうと長寿を全うするのである。
 
こんなことが合法的に行われるのだから、戦争が始まったなら、あらゆる悪知恵を働かして、逃げ回るのがよろしい。誠実な民間人ほど、最後まで職場を守って自決したり、玉砕したり・・・
日本人は戦争に向かない。
10日放送の「報道ステーション」で、西村京太郎氏が発言した。
ノンフィクション作品『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』発売を機に、西村氏がVTR出演し、自身の戦争体験を振り返った。西村氏は陸軍のエリート将校養成学校である「陸軍幼年学校」在学中に、14歳で終戦を迎えたという。西村氏は『十五歳の戦争』の中で、他の国が「現代の戦争」を戦っているのに対し、日本は「際限のない精神主義、根性主義である。これは信仰に近かった」「特攻と玉砕に酔う人たちである」と綴っている。「現代戦争ってね、生き延びなくてはいけない」と語る。日本人には今も「死んでなんとか勝つぞ」といった精神性が伏流していると指摘し、そうした国民性から「戦争はしない方がいい」と強調する。一度戦争が始まったら、「みんなが死んでるのに、俺だけ生きてるわけにはいかない」という考え方をしてしまう。

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