オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

日系移民社会の勝ち組・負け組抗争

2014-09-07 | 戦争
BSで放送された『遠い祖国~ブラジル日系人抗争の真実~』はあまり知られていない日系移民社会の戦後の抗争を報道していた。

国内での困窮から脱するため、政府の言葉を信じてブラジルに渡った移住者は、19万人にも上り、農奴のように働かされ、帰りの船賃を貯める余裕もなく、過労と病気でどんどん死んでいく。彼らを守るはずの日本領事は、太平洋戦争の開戦と同時に自分たちだけ帰国、大勢の移住者は「敵性国民」として取り残されてしまった。日本語新聞は禁止され、日本語学校は強制閉鎖され、ラジオまで取り上げられ、サンパウロ州の奥地で開墾していた日系人は孤立する。

 その後、1945年8月に日本から「敗戦」の知らせが届くが、それを信じたくない移住者は「これは敵のデマだ、本当は日本は勝ったのだ」として、敗戦を受け入れた移住者を敵視する。そういう「日本の敗戦を信じたくない日本人」を目当てに、嘘の情報を印刷して売る「業者」が現れ、読者が読みたがる現実逃避の創作物語を「事実」として販売したという。1946年のサンパウロ新聞の正月号の社説には「日本戦勝の春」と題する社説さえ掲載された。
 奥地で情報遮断されていた日系人は、「日本の敗戦は米国とブラジル政府が仕組んだデマではないか」と敗戦を認めようとしない。これを「勝ち組」と呼び、一方、都市部で商店などを営んでいた日系人はポルトガル語のできる人が多く、戦況に触れていたので、敗戦を認め、奥地の日系人にもそれを知らせようと「認識運動」を展開する。ところが、「勝ち組」はこれを裏切りととり、彼らを「負け組」と呼んで、対立する。ついには、この対立は何十人もの殺人事件にまで発展する。

「勝ち組」の人間による殺害の動機は「あいつらは天皇の悪口を言ったりご真影を粗末に扱ったから」というものだったが、「負け組」に属していた人やその家族は「そんなことは絶対あり得ない、一体誰がそんなデマを流したのか」と憤る。憎悪に思考を支配されると、その憎悪を正当化したり増幅させる情報しか耳に入らなくなり、際限なく攻撃的になり、「悪いのは相手だから殺しても構わない」という論理に飛躍する。

 終戦から2ヵ月後の1945年10月3日、日本からはじめて敗戦を伝える公式文書が届いた。それには「朕は帝国政府ヲシテ北米合衆国・大ブリテン国・支那...右諸国共同宣言ノ条項を受諾ス...」とポツダム宣言を受諾する旨が書かれてあった。その文書に添えて、秘密結社興道社の指導者でバストス産業組合理事長であった退役陸軍大佐の脇山甚作ほか計7名の署名の敗戦を認める文書も作られ、サンパウロ州に散在する日系移民社会に配布された。当時日系移民の9割は、西方の奥地に暮らしており、そのほとんどが日本の勝利を信じ、「勝ち組」と呼ばれる人々であった。彼らの多くが、「日本は勝つ」と考えていた。当時の「勝ち組」のひとりである中野文雄はNHKの取材に応じて「今から考えれば、一種の迷信を信じた、ということになるのだが、神国日本が戦いに負けるはずはない、と思った」と言い、絶対的な信仰状態だったと語った。サンパウロ州奥地の移民の多くが、この終戦伝達書を偽書と見なした。勝ち組は2万人におよび、「認識運動」を行う人々の家の門や玄関に「国賊」と落書きする、商売の邪魔をする、脅迫状を投げ込むことまで始めた。
 
1946年には、ブラジルの勝ち組と負け組の間で大規模な抗争事件が起こり、死者も出た。1946年3月7日にサンパウロ州北西部のバストス産業組合の理事、溝部幾太が暗殺され、犯人はバストスに住む「勝ち組」の青年だった。この溝部幾太の暗殺をきっかけとしてサンパウロ州全域で襲撃事件が多発し、「負け組」による報復も起きた。 敗戦伝達書に筆頭者として署名した脇山甚作も「勝ち組」に襲われ、自宅で射殺された。
 脇山甚作は日本を勝利させ"大東亜共栄圏"に日本人を再移住させることを移民たちに説いてきた人物だった。8月15日直後の玉音放送を聞き、心情的には日本の負けを認めたくなかったものの、放送を聞いた以上事実として認めざるを得ず、ひどく落胆したものの、自身は移民のリーダーとして事実を移民たちに伝える責任があると考えた。サンパウロ州奥地の移民たちは、日本は絶対に勝つと移民たちを鼓舞してきたのにもかかわらず、突然に「日本は敗れた」と言いだした脇山甚作のことを、敵国の側についた裏切り者だと見なした。奥地から出てきた青年数人組が脇山の自宅をおとずれ「自決勧告書」なる「敵側が発するニセの文書に騙され、それに署名することは万死に値するから自殺しろ」という内容を主張する文書を渡し、ピストルで射殺した。犯人は自首し、殺人犯として逮捕され、投獄された。「勝ち組」によって殺された人々は少なくとも15人にも及んだ。
 脇山を暗殺した一人がNHKの取材に応じている。教育勅語の皇国史観は彼の中に未だに深く根付いているようであった。
 「誰に命令されたのでもなく、自分の意思で暗殺に加わった。2008年にブラジル移民100周年で皇太子がブラジルを訪問したとき、感極まった。人生で一番うれしい時だった。俺たちのことを忘れないでいてくれたのだから・・・」一方、「俺たちのことなんか虫けら程度にしか思っていなかっただろうが・・・」とも述懐していたが、後悔している様子はなく、未だに皇国民のように見えた。
 
 ブラジルでは1970年代初期まで、勝ち組と負け組の対立による後遺症が存在していた。1973年にブラジルから日本に帰国した「勝ち組」の家族3組が「ほら見ろ、日本はこんなに豊かになっている、やっぱり日本は勝ったんだ。」といった時代錯誤の発言をした者もいたという。
 ペルーでも日系ペルー人の間で両者に抗争が起きた。ハワイでは、終戦から10年経過した後も「勝ち組」は存在したと言われている。
 
 その後、正しい情報の流入によって日本の敗戦の現実を知り、自然消滅したが、これは遠い昔の話でなく現代の日本に繋がる話だと思う。
 情報操作によって、こんなにも簡単に国民の分断が起こり、人々は自分の信念に整合する情報しか信じなくなるのだ。この情報操作に最もひっかかりやすく過激になりやすいのは若者達である。暗殺事件を起こすのは若者が多いし、イタリアでファシズムを主導したファシスト党の民兵組織であるムッソリーニの黒シャツ隊、ナチス親衛隊、10年に渡る文化革命時に台頭した紅衛兵すべて理想を希求していると信じていた血気盛んな若者たちだった。
 情報操作の専門家、新聞の戦争責任も大きい。連戦連勝の報道によって国民を戦争協力者に仕立て、戦意高揚に大きな役割を果たしたが、誰も責任を追及されていない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿