城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

角牟礼城址(大分県)

2010-05-06 | 城(城址)歩き
5月4日、大分県玖珠郡玖珠町の角埋山(つのむれやま)にある角牟礼(つのむれ)城祉へ出掛けた。
道路に案内標識もあり、場所はすぐに分かるが、山城だけにどんどん山道を登って行かなければならない。

角牟礼城は石垣のある山城で、三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。
1585~1586年の島津氏と大友氏の戦いでは、島津軍の数度の猛攻に耐え、唯一落城しなかった城として知られる。

山頂付近の三ノ丸駐車場に着くと、すぐに石垣が見えた。

1593年には豊臣秀吉が文禄の役で失態をおかした大友義統を除国。
豊後国は秀吉直轄の地となり、ここ玖珠郡に毛利高政を入部させた。
以後、高政は6年の間に本格的な築城を目指す。

現存する門跡や石垣は発掘調査により、この頃に築かれたものと考えられる。

【三ノ丸跡の石垣①(駐車場)】

辺り一面に石垣と崩れた石がゴロゴロ転がっており、ちょっと驚きの光景だった。

【三ノ丸跡①】

ここから、末廣神社へと続く道がある。

【三ノ丸跡の石垣②】

【三ノ丸跡②】

【縄張り図】

この城祉で最も立派な石垣とある搦手門跡石垣とその付近の石垣。
穴太(あのう)積みの特徴をよく残す石垣とある。

【搦手門跡石垣①】

【搦手門跡石垣②】

確かに…この辺りの石垣は素晴らしいと思う。
状態もいいし、苔生し方がいい感じ。

【搦手門跡石垣③】

井戸曲輪跡。これは多分、井戸の跡だと思う。

【井戸曲輪跡】

地元つのむれ会が立てた旗。
後で知ったが、今日はおとぎ登山という行事をやっていて、
猿の格好をした人達、子供達がゲームをしていたりと、ちょっと賑やかだった。



展望台からの景色もよかったが、木々のひらけた間から見えるここの景色も味がある。



この石垣は北東の方向へずっ~と伸びている。
城の縄張り図をみると水ノ手曲輪の石垣ということになると思う。

【水ノ手曲輪跡石垣①】


【水ノ手曲輪跡石垣②】

櫓跡。あまり大きな櫓ではなさそうだ。

【櫓跡】

神社があった。

【角牟礼神社】

多分、二ノ丸跡の石垣だと思う。

【二ノ丸跡石垣】

展望台からの景色。町全体と山々が見渡せる。



展望台から林道を歩いて本丸跡へ向かう。



本丸跡。標高577mの角埋山の山頂にあたる。

【本丸跡案内板】

周囲に土塁が巡らされ、北側には石垣がある。
発掘によって南側に階段状の虎口、東隅に櫓建物が検出されている。

【本丸跡】

(伝)大手門跡。西側にある城門。

【大手門跡①】

今のところ大手門跡となっているが、城全体の縄張りから、ここを大手門とするには疑問があるということらしい。

【大手門跡②】

下を覗きこむ。これも門の跡。

【大手門跡③】

関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封。
一時、黒田如水の預かり地となるが、代わって伊予の水軍大将だった来島長親(のち康親)が入部。
しかし、来島氏は小大名である為に城をもつことが出来ず、この城はそのまま廃城となった。



城をもつ事ができなかった来島氏は角埋山の麓に陣屋を構える。

【森陣屋】

角牟礼城祉の荒々しい造りの石垣をみると、当時の人々の力強さが伝わってきた。
この城が静かに山奥にたたずんでいる様子は、ちょっと感慨深かった。

佐賀城址(佐賀県)

2010-05-05 | 城(城址)歩き
5月2日の続き。
柳川から佐賀城址までは車で40分程で着いた。
到着が夕方4時前になってしまったので、中に入れるか心配だったが大丈夫だった。



すぐに国重要文化財の鯱の門と続櫓があった。
鯱の門は本丸表門にあたり、続櫓とともに1836年に再建された。
重厚で立派な櫓門だ。

【鯱の門・続櫓】

【続櫓】

【城内本丸からみた鯱の門】

佐賀城はもとは戦国大名の龍造寺隆信の村中城を家臣であった鍋島直茂が引継ぎ、改修工事を行った城。
1611年、次の藩主の鍋島勝茂が完成させ、本丸御殿に入った。
これより江戸時代を通じて、佐賀藩36万石の政治の中心となる。

現在、本丸御殿は 『佐賀城本丸歴史館』 として復元された。
第10代佐賀藩主・鍋島直正が再建した本丸御殿を一部復元し建てられた。

正面入口から入館するとすぐに畳敷きの長い廊下になっていた。

【本丸御殿内①】

外御書院。一之間から四之間まで320畳分の大広間。
佐賀藩の公式行事が行われていた場所。

本丸御殿(歴史館)内には、他に展示物や体験コーナーなどがあった。
利用料金はお客様の満足度分、帰りに料金箱に入れる仕組み。

【本丸御殿内②】

退館し、御殿の外周を歩いてみた。

御殿の中庭にあたる場所は復元しなかった建物遺構が一部表示されている。
写真左側が御座間とよばれる建物。
藩主鍋島直正の居室だった。

【本丸御殿外観】

御三家との面談、側近達との会議が行われていた御小書院。

【御小書院】

右の建物が小城家、蓮池家、鹿島家の御三家の部屋。
奥が天守台。

【御三家座と天守台】

御殿内から見えた櫓台を見に行った。
きれいすぎる櫓台は新しく修理されたものだと思う。
切石による亀甲乱積という手法で積まれた石垣らしい。

【南西隅櫓台】

西側土塁に沿って歩くと石垣の下を潜る水路の跡があった。
石材が丁寧に加工され、周りの汚れた水と混ざらないような工夫がされてあった事から、
案内板には本丸内に飲み水等を運ぶ設備であったのだろうと書かれていた。

【石製樋管と赤石積水路】

さらに土塁に沿って歩くと西門に着く。
南西隅櫓台からここまでの土塁の外側は石垣になっていて、二重の構造となっている。

【西門の石垣】

【西門本丸入口】

今度は本丸外側の石垣に沿って歩く。

【本丸外から見た南西隅櫓台】

城を囲む堀は幅約70mある。

【水掘】

西門のそばには天守台がある。
5層の天守閣は1726年に焼失。以降再建されなかった。

【天守台】

天守台の石段を登ると展望台がある。
城の写真集などで見ると、ここには協和館という建物が建っていたが、今はきれいさっぱり何もない。
最近になって取り壊されたんだろうと思う。

【展望台】

ぐるりと天守台の周りを一周すると、正門(鯱の門)に出た。

【正門側から見た天守台】

ここでは鯱の門と続櫓、天守台など歴史を感じさせる建物と、新しく整備された建物とを観る事ができた。
歴史館となった本丸御殿で、観光客を親切に案内しているボランティアの方々をみて、とても大事にされている城だなと感じた。

柳川城址(福岡県)

2010-05-04 | 城(城址)歩き
5月2日の続き。
福岡県久留米市から柳川市へ。車で約1時間ほどかかった。

柳川城は蒲池鑑盛(あきもり)によって城郭の基礎となるものが整備され、
秀吉の九州平定によって、1587年、筑後半国が与えられた立花宗茂が城を築いた。

城址は柳城中学の敷地内に天守跡の高台が残されていた。

【本丸跡の石垣】

天守跡にはポツンと案内板があった。



関ヶ原の合戦後、西軍に属した宗茂は改易、筑後一国の領主となった田中吉政が入城。
天守閣を備えた近世城郭へ再整備を行った。

【天守跡】

5重5階の天守閣は約8mの石垣の上に築かれ、高さは35mほどあったといわれている。

【天守跡の石垣】

柳城中学と柳川高校の間の路地を歩く。
柳川高校野球部が練習試合の最中か、活気のある声が聞こえてきた。

【小さな水堀】

本丸・二ノ丸外周には水堀がめぐらされ、今では水郷巡りの名所となっている。

【柳川城水堀】

戦国時代の乱世、2度に及ぶ攻撃に耐えた柳川城は水の利を生かした名城として知られる。

1620年、世継の絶えた田中氏にかわり、徳川家の信頼を得た立花宗茂が再び柳川藩主として復活。
この奇跡的な復活は戦国武将の中でも特異な存在として、宗茂の名を著名にしている。

城跡近くには観光客が多く訪れる 『御花』 とよばれる場所がある。
当時、『御花畑』 と呼ばれていたこの地に、5代目藩主・立花貞俶(さだよし)が別邸を設けたことから、人々が親しみを込めてこう呼ぶようになったといわれる。

以後、明治維新時の12代目藩主・立花鑑寛(あきとも)まで、柳川は柳川藩の城下町として栄えた。

【柳川御花正門】

14代当主の立花寛治(ともはる)は明治43年、迎賓館としての西洋館を整える。
その建物の周辺は、国指定の名勝 『松濤園(しょうとうえん)』 や御花資料館、レストラン、売店などがあり、観光客で賑わっていた。

【西洋館】

名の知れた戦国武将、立花宗茂の居城としては、ほんの一画に城の名残を残すのみとなった柳川城だが、城下町に巡らされた内堀・外堀と大小の水掘、それと活気ある町を見て、色んな意味で城の大きさを感じた。

久留米城址(福岡県)

2010-05-03 | 城(城址)歩き
5月2日、晴れ。
4連休初日は、久留米城祉→柳川城址→佐賀城址へと出掛けた。

それほど渋滞はなく、別府から2時間ちょっとで久留米城址に到着。
駐車場からすぐに立派な本丸高石垣を見ることができた。

【本丸高石垣①】

この城は、秀吉の九州平定により毛利秀包(ひでかね)によって築かれた。
関ヶ原合戦で、秀包は西軍に属していた為、合戦後は田中吉政の支城となる。

【本丸高石垣②】

その後、1621年に筑後北半21万石の大名となった有馬豊氏(とようじ)が入城する。
以降、幕末の廃藩に到るまで11代約250年の間、有馬家の居城として藩府が置かれた。

【本丸高石垣③】

駐車場のすぐ横には蜜柑丸という可愛いらしい名前の曲輪跡があった。
この場所には蜜柑の木が植えられていたということで、この名が付いたらしい。

【蜜柑丸跡】

城の外周を歩いて行くと、筑後川の土手に出た。
広々としていて、芝の緑がきれいだった。

【筑後川】

再び本丸高石垣。こちらには水濠があった。

【本丸高石垣④】

冠木門跡から入城する。左右に水濠が見える。
本丸跡には有馬記念館があるが、現在休館中だった。

【本丸高石垣⑤】



【冠木門跡】

三層建ての太鼓櫓があった場所。この辺りは多くの石碑が建っていた。

【太鼓櫓跡からみた水濠】

本丸御殿跡は篠山神社となっている。

【拝殿】

【神殿】

月見櫓跡。東門近くにある。
最初に着いた駐車場から石段を登ると、この櫓跡のすぐ横に出る。

【月見櫓跡】

月見櫓跡からは、久留米大学の建物が見える。

【月見櫓跡から見た景色】

東南隅に位置する巽(たつみ)櫓跡。
久留米城には七つの櫓が建っており、その中で最も大きかったのが、この櫓だった。

【巽櫓跡】

北東隅に位置する艮(うしとら)櫓跡。
それぞれの櫓の名前は方角を示す。

【艮櫓跡】

北西隅に位置する乾(いぬい)櫓跡。

【乾櫓跡】

本丸跡には多くの石碑があった。
中には聖徳太子の像も。

【聖徳太子像】

立派な高石垣が印象に残った城址だった。