城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

天草海道博 其の②富岡城址(熊本県)

2011-10-12 | 城(城址)歩き
10月9日、本日の最終目的地とした 富岡城址 は、
天草下島の北西、富岡半島の南東部丘陵上にある。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、
天草は唐津の 寺沢広高(てらさわひろたか) の領地となり、
寺沢氏は慶長7年(1602)、天草統治のため、富岡城 を築いた。
本城である唐津城が 『舞鶴城』 と呼ばれたのに対し、
支城である富岡城は 『臥龍城』 と呼ばれた。

寛永14年(1637)に勃発した島原の乱では、
肥前唐津藩の軍を敗走させ、勢いにのる天草四郎率いる天草一揆軍の攻撃を受けるも、
これを死守し落城を免れた。

現在、丘陵上には 富岡ビジターセンター があり、
櫓、石垣なども再現されている。
丘の下から眺めると、確かに攻めるには難しい城であったことがよく分かる。

【富岡城址】

城の堀の役目を果たしていた 袋池
木々に囲まれているにもかかわらず、不思議と一枚の葉も落ちていないため、
この池にはこんな伝説がある。

米屋を営んでいる父親が、あこぎな商売をしていたため、
それを悲しんだ娘がこの池に身を投げ、やがて一匹の龍になった。
それからというもの、朝早くまだ暗い頃に元の娘の姿に戻り、
水面を掃除しているのだという。

伝説はともかく、よく見るとこの池には確かに一枚の葉も落ちていなかった。
本当に龍になった娘が、朝早く掃除しているんだろうか・・・。

【袋池】

ぐるりと丘を回りこむように道路を上がっていく。
途中の道路脇に石垣があった。



島原の乱後の寛永18年(1641)、天草は 天領 となり、
その時に初代代官として 鈴木重成(すずきしげなり) が赴任した。
丘の登り口辺りに、その重成の像がある。

全島の統治にあたった重成は、まず郡内の行政組織を整備し、
また、実兄の 鈴木正三(すずきしょうさん) の授けを得て寺社を復興させ、
乱後の島民の思想善導をはかった。

さらに、当時の天草の石高は四万二千石で過大であったため、
(このことが、島原の乱が勃発した原因の一つであった。)
その貢納の半減を幕府に申し出たが、容認はされなかった。

承応2年(1653)、全島民のため、更なる貢納の軽減を幕府に訴えていた重成だったが、
江戸飯田橋の屋敷にて、66歳の生涯を閉じる。
幕府に身をもって訴えかけるため、自刃したとも伝えられる。

重成の犠牲をもって、やがて幕府は減税を認め、
万治2年(1659)、重成の養子・重辰の頃に、石高は二万一千石に半減された。
その後、全島民は重成を偲び、各地に 鈴木神社 を奉祀している。

【鈴木重成像】

丘を上ると、アダム荒川殉教の地 の碑があった。

先ほど、殉教公園にも石碑が建っていたアダム荒川だが、
禁教令にも屈せず信仰を守って処刑されたのは、
富岡城下の海岸だったと当時の神父らが書き残している。
それがこの付近なのではないかと推測されているようだ。

【アダム荒川殉教ノ地の碑】

やがて丘を上りきった所に駐車場があり、そこからは歩いて上った。
すぐに巨大な 二ノ丸石垣 が目の前に現れた。

【二ノ丸石垣①】

天草は島原の乱後、山崎家治(やまざきいえはる) の領地となった。
この時、幕府は資金を与え、富岡城の修復を命じる。
幕府は海外列強からの侵略を恐れ、鎖国政策を進めていたため、
国内最西端に位置する富岡城を守りの最前線基地として位置づけたかった。

築城の名手といわれた家治は、約三年の月日をかけ、
乱で傷んだ城の修理と守りの強化のための縄張りの拡大を行い、
新たに 大手門百間土手 を築き、城の大修復を行った。
現在見られる、富岡城の形がこの時完成する。

【二ノ丸石垣②】

山崎氏の後、天草は天領となり、鈴木代官の時代を経て、
後に再び私領となり、戸田忠昌 が城主となる。
しかし、戸田氏の領地替えの際に城は破城となり、
再び天領となって、天草の行政の中心となった。



城の復元整備の際、西側の石垣部分で三重の石垣が発掘され、
寺沢氏、山崎氏の築いた石垣が確認された。
寺沢氏の築いた石垣には、一揆軍との攻防の跡が残っているらしいが、
確認することができなかった。

【二ノ丸石垣③】

二ノ丸跡へと向かった。



途中の階段から、二ノ丸石垣を見る。

【二ノ丸石垣④】

古いものか、新しいものか?
所々に石割の跡が見られた。

【石垣写真・壱】

【弐】

【参】

二ノ丸跡は、塀と柵で囲まれている。
それに沿って、二ノ丸内を歩いた。

【二ノ丸跡の塀と柵】

二ノ丸から見下ろすと、出丸 の跡が見渡せる。
城跡公園として、とてもきれいに整備されている。

【出丸跡】

袋池が城の南側の堀の役割を果たし、
東部には 砂嘴(さし) に囲まれた巴湾が天然の土塁となり、
海からの外敵を防ぐ役割を果たしていた。

【巴湾の砂嘴】

陸からの攻撃は 砂州(さす) のみしかなく、極めて攻撃し難い天然の要害となっていた。
(砂嘴・砂州・・・波と沿岸流によって形成される細長い堆積地形)

【二ノ丸からみた巴湾】

二ノ丸からみた袋池。

【二ノ丸からみた袋池】

二ノ丸跡には、4体の偉人の像が。
まずは、勝海舟頼山陽(らいさんよう) の像。
なぜこの二人の像があるかというと・・・

安政3年(1856)10月、勝海舟は長崎海軍伝習所の訓練中に観光丸で富岡に来航。
この時、宿泊した鎮道寺の柱に 『日本海軍指揮官 勝麟太郎』 と肩書きをつけた落書きを残している。
この時、彼はまだ伝習生にすぎないが、
若くして将来の日本を背負って立つ意気込みを感じさせる落書きとなっている。
彼は翌年3月にも来航し、その時も別の柱に墨書きを残しているらしい。

頼山陽は、『日本外史』 の著者として知られ、
幕末の 尊皇攘夷思想 に大きな影響を与えた。
川中島の合戦を詠んだ(不識庵撃機山図)詩人としても知られる。
文政元年(1818)、西遊の途中、富岡城下に開塾していた儒者・渋江龍淵(しぶえりゅうえん)を訪ね、
泊天草洋』 にて西海天草灘の展望を吟じた。
これにより、頼山陽は広くその名を知らしめることとなった。

なるほど、頼さんは天草にゆかり深いが、
勝さんは落書き残しただけ・・・。 (笑)

【勝海舟・頼山陽像】

鈴木重成 とその兄 正三和尚 の像。

重成の兄・正三は、関ヶ原の戦いなどで活躍し、旗本にとりたてられるも、
42歳で弟・重成に家督を譲って出家する。
63歳の時、代官となった重成からの依頼を受け、天草に3年間滞在し、
政策顧問として重成を支えた。
正三は、乱で荒廃した島民の心の安定が第一と考え、神社仏閣の復旧を重成に勧めた。

晩年は江戸に住み、明暦元年(1655)、77歳の生涯を閉じる。
天草の人々は二人の遺徳を偲び、島内各地に鈴木大明神、鈴木塚を祀り、
鈴木神社も造営されている。

【鈴木重成・正三像】

二ノ丸に建つ4体の像。
その向こうの本丸跡に建っているのは、富岡ビジターセンター。

【二ノ丸跡】

東側、二ノ丸から少し下がった所に枡形が見える。
そこを下りてみた。

【二ノ丸東下の枡形】

枡形から見上げる、本丸櫓。

【本丸櫓】

枡形から見上げる、富岡ビジターセンター。

【富岡ビジターセンター】

本丸石垣。

【本丸石垣①】

枡形へ下りていく途中、稲荷神社があった。

【稲荷神社】

枡形から本丸を見上げるとこんな感じ。
堅牢な城が再現されている。

【本丸石垣②】

再び二ノ丸へ戻り、本丸跡へ。
本丸石垣横の階段を上る。

【本丸石垣③】

階段を上ると、復元された がある。

【櫓】

その正面にある、これも復元された 高麗門(こうらいもん) 。

【高麗門①】

本丸内からみる高麗門。
門の向こう側に見えるのが、先ほどの櫓。
右手が本丸櫓の壁。

【高麗門②】

高麗門をくぐるとすぐに富岡ビジターセンターがある。
実在した富岡城本丸 多聞櫓 をモデルとして建てられた。
ここは天草地方の自然、動植物、海生生物、人々の生活、人物、歴史などを
写真や映像によって紹介する施設となっている。

【多聞櫓(富岡ビジターセンター)】

富岡城の城としての役目は約70年だったが、破城後は三ノ丸に代官所が設置され、
幕末まで天草の行政の中心となった。

現在、富岡城址はきれいに復元整備され、
歴史を感じさせる古い遺構はあまり見られなかったが、
城の縄張りなどは忠実に再現されており、
難攻不落の当時の城の規模を体感できたことはよかった。

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2 コメント

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勉強になりました。 (ツン)
2013-08-28 10:32:11
いま富岡ビジターをテレビで見ていましたが銅像が分からず検索して見ました。分かりやすい写真付きで勉強になりました。ありがとうございます。
わざわざありがとうございます! (atsushi)
2014-02-05 19:22:33
天草はとてもいい所でした。
また行きたいです!
今度は教会めぐりをしたいです。

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