5月2日の続き。
福岡県久留米市から柳川市へ。車で約1時間ほどかかった。
柳川城は蒲池鑑盛(あきもり)によって城郭の基礎となるものが整備され、
秀吉の九州平定によって、1587年、筑後半国が与えられた立花宗茂が城を築いた。
城址は柳城中学の敷地内に天守跡の高台が残されていた。
【本丸跡の石垣】
天守跡にはポツンと案内板があった。
関ヶ原の合戦後、西軍に属した宗茂は改易、筑後一国の領主となった田中吉政が入城。
天守閣を備えた近世城郭へ再整備を行った。
【天守跡】
5重5階の天守閣は約8mの石垣の上に築かれ、高さは35mほどあったといわれている。
【天守跡の石垣】
柳城中学と柳川高校の間の路地を歩く。
柳川高校野球部が練習試合の最中か、活気のある声が聞こえてきた。
【小さな水堀】
本丸・二ノ丸外周には水堀がめぐらされ、今では水郷巡りの名所となっている。
【柳川城水堀】
戦国時代の乱世、2度に及ぶ攻撃に耐えた柳川城は水の利を生かした名城として知られる。
1620年、世継の絶えた田中氏にかわり、徳川家の信頼を得た立花宗茂が再び柳川藩主として復活。
この奇跡的な復活は戦国武将の中でも特異な存在として、宗茂の名を著名にしている。
城跡近くには観光客が多く訪れる 『御花』 とよばれる場所がある。
当時、『御花畑』 と呼ばれていたこの地に、5代目藩主・立花貞俶(さだよし)が別邸を設けたことから、人々が親しみを込めてこう呼ぶようになったといわれる。
以後、明治維新時の12代目藩主・立花鑑寛(あきとも)まで、柳川は柳川藩の城下町として栄えた。
【柳川御花正門】
14代当主の立花寛治(ともはる)は明治43年、迎賓館としての西洋館を整える。
その建物の周辺は、国指定の名勝 『松濤園(しょうとうえん)』 や御花資料館、レストラン、売店などがあり、観光客で賑わっていた。
【西洋館】
名の知れた戦国武将、立花宗茂の居城としては、ほんの一画に城の名残を残すのみとなった柳川城だが、城下町に巡らされた内堀・外堀と大小の水掘、それと活気ある町を見て、色んな意味で城の大きさを感じた。
福岡県久留米市から柳川市へ。車で約1時間ほどかかった。
柳川城は蒲池鑑盛(あきもり)によって城郭の基礎となるものが整備され、
秀吉の九州平定によって、1587年、筑後半国が与えられた立花宗茂が城を築いた。
城址は柳城中学の敷地内に天守跡の高台が残されていた。
【本丸跡の石垣】
天守跡にはポツンと案内板があった。
関ヶ原の合戦後、西軍に属した宗茂は改易、筑後一国の領主となった田中吉政が入城。
天守閣を備えた近世城郭へ再整備を行った。
【天守跡】
5重5階の天守閣は約8mの石垣の上に築かれ、高さは35mほどあったといわれている。
【天守跡の石垣】
柳城中学と柳川高校の間の路地を歩く。
柳川高校野球部が練習試合の最中か、活気のある声が聞こえてきた。
【小さな水堀】
本丸・二ノ丸外周には水堀がめぐらされ、今では水郷巡りの名所となっている。
【柳川城水堀】
戦国時代の乱世、2度に及ぶ攻撃に耐えた柳川城は水の利を生かした名城として知られる。
1620年、世継の絶えた田中氏にかわり、徳川家の信頼を得た立花宗茂が再び柳川藩主として復活。
この奇跡的な復活は戦国武将の中でも特異な存在として、宗茂の名を著名にしている。
城跡近くには観光客が多く訪れる 『御花』 とよばれる場所がある。
当時、『御花畑』 と呼ばれていたこの地に、5代目藩主・立花貞俶(さだよし)が別邸を設けたことから、人々が親しみを込めてこう呼ぶようになったといわれる。
以後、明治維新時の12代目藩主・立花鑑寛(あきとも)まで、柳川は柳川藩の城下町として栄えた。
【柳川御花正門】
14代当主の立花寛治(ともはる)は明治43年、迎賓館としての西洋館を整える。
その建物の周辺は、国指定の名勝 『松濤園(しょうとうえん)』 や御花資料館、レストラン、売店などがあり、観光客で賑わっていた。
【西洋館】
名の知れた戦国武将、立花宗茂の居城としては、ほんの一画に城の名残を残すのみとなった柳川城だが、城下町に巡らされた内堀・外堀と大小の水掘、それと活気ある町を見て、色んな意味で城の大きさを感じた。
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