城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

森陣屋(大分県玖珠郡)

2011-02-28 | 城(城址)歩き
耶馬溪の史跡めぐりからの帰り道。
玖珠の角牟礼城址麓にある森陣屋に立ち寄った。

末廣神社駐車場から児童公園の中を横切ると、旧久留島邸庭園がある。

瀬戸内海の水軍だった久留島氏は、1万4千石の小大名であったため、城を持つことができなかった。
そのため、角埋山の麓に館(陣屋)を構え、神社の境内を城仕立に造りあげた。
(一般的に、城が持てたのは3万石以上の大名だったといわれる)

【旧久留島邸庭園①】

庭園には水が張られてなかったが、石組みの立派な庭園だった。
土佐出身の築庭師・橋本東三作・江戸時代後期に造られたものであるらしい。

【旧久留島邸庭園②】

庭園から清水御門へ向かう。
石垣が見えてくると城址の雰囲気が出てきた。
土手の数箇所に防空壕の穴があった。



石段を上がれば末廣神社の境内へと続くが、
まずは 『清水御門』 の方へと向かった。



城仕立の境内の表玄関となる清水御門。
最も印象に残った場所だった。

【清水御門①】

門の向かって左側の土手からは、年中涸れることなく清水が湧き出ている。
この清水は 『玉水』 と呼ばれ、お茶をたてるのに適した水だといわれている。

【清水御門②】

玉水の上の広場には、かつて 『清水茶屋』 があった。



【清水茶屋からみた清水御門】

【裏側からみた清水御門】

とても急な石段で雨も降っていたので、滑らないよう慎重に下りた。
今度はその石段を上り、清水御門から末廣神社境内へと向かった。



境内に入ると玉濃井という井戸がある。
大正10年の大洪水で破壊されるも、昭和4年に復旧された。

【玉濃井】

末廣神社の御神殿は、
精巧に造られた内殿を包むよう外殿が覆う造りになっているため 『鞘堂』 とよばれる。

【鞘堂造りの御神殿】

慶長6年(1601)、初代森藩主・来島長親(のち久留島康親と改名)により、
藩の守護神として来島氏の故地である愛媛県の伊予大三島・大山祇神社の祭神を勧請し、
三島神社が造営される。

その後の天保8年(1837)、第8代藩主・久留島通嘉が、
三島神社の改築を口実に、石垣や茶屋・栖鳳楼(せいほうろう)を増築。
藩主御殿庭園、栖鳳楼庭園、清水御門庭園なども造らせ、城構えのように整備した。

明治5年になり、以前よりこの地に祀られていた 『妙見宮』 を合祀し、『末廣神社』 となった。

【末廣神社】

大分県の有形文化財に指定されている、楼閣形式の茶屋・栖鳳楼(せいほうろう)。
森藩の記録には、紅葉の御茶屋と記録されているとのこと。
神社祭典のための参篭(御通夜)や月見、花見などの宴にも使用されていた。

【栖鳳楼・裏側】

老朽化により、平成12年から3年かけて従来の姿に改修された。
普段は雨戸が締まっている状態でしか見ることができない。

【栖鳳楼・表側】

8代藩主・通嘉により、城の天守に見立てて建てられたといわれている。

【栖鳳楼と石垣】



通嘉は財政再建を主とした藩政改革を目指し、藩主としての手腕を見せた人物。
城を持つことはできなかったが、ほとんど跡の残っていない小城に比べ、
立派な神社として現在まで残っているのだから、
城を持つことよりも、その威厳を守ったことに意味があったのでは・・・なんてことを思った。

平田城址(大分県)と耶馬渓の文化財

2011-02-27 | 城(城址)歩き
2月27日、今年初めての城址めぐりに中津市耶馬溪に出かけた。
中津市の山国川沿いには、中世の山城の遺構が多く残っているということで、
いくつかの城址と周辺の史跡を散策してみようと思った。

まず、黒田武士・栗山大膳が少年期を過ごしたといわれる平田城址を目指した。

平田城は 『白米城』 とも呼ばれ、どうやらこちらが正当な呼び名らしい。
昔は白米がよく収穫された豊かな土地であったことから、この名が付いた・・・とのこと。

【登城口】

案内板の前に駐車し、小高い丘を歩いて登った。



石垣? と思って注意して見たが、それとは違うようだ。



途中、昭和天皇記念碑など、いくつかの石碑が建っていた。

【昭和天皇行事記念碑】

5~6分で登りきると、ひらけた場所に忠霊塔が建っていた。
神社のような建物もあるが、ここが城の本丸にあたる場所ということになるのだろう。
春には桜の名所となり、地元の人達の憩いの場となるらしい。
今日は小さい子を連れた、親子連れ一組と出会っただけだった。

【忠霊塔】

平田城は建久9年(1198)、城井宇都宮氏一族の豪族である長岩城主・野仲重房によって築城され、
城番として置かれた平田掃部介の居城となった。
長岩城は九州でも最大級の山城といわれる城で、この平田城は長岩城の支城ということになる。

重房は豊前守護・宇都宮信房の弟で、野仲郷を領して野仲氏を名乗っていた。
野仲氏は戦国時代、大内氏と大友氏の間を渡り歩き、勢力拡大を目指した。



やがて、九州制圧を成功させた豊臣秀吉によって新たに知行割りが行われ、
中津には黒田如水・長政父子が新しく領主として入部してきた。

これに城井宇都宮氏が抵抗を示し、それに野仲氏も加担したため、
天正16年(1588)、黒田の大軍に長岩城を攻め落され、滅亡することとなった。



長岩城攻めで戦功のあった黒田軍・栗山備後利安が、新たに平田城主となる。
後に 『黒田騒動』 を引き起こす利安の子、栗山大膳利章はこの城で少年期を過ごした。

後に黒田氏が筑前移封となると、この城は廃城となった。



曲輪らしき山道を下って行くと、先ほど歩いてきた登城口に戻った。



城の遺構はほとんど残っていなかったが、
巨城・長岩城から見て、この平田城は山国川からの敵襲を見張るという重要な砦だった。
また、黒田官兵衛についての小説などを読むと、
そこでは播磨以来から黒田家に仕えてきた家老である、栗山備後の活躍が描かれている。
その子である栗山大膳が10歳まで育った城であるということで、
とても興味深かった城址を見ることができた。



平田城址から裏耶馬渓にある 『後藤又兵衛の墓』 を目指した。
運転しながら、途中、城の石垣のようなものが見えたので寄ってみた。



久福寺というお寺だった。
ここの境内左手の円通洞と称される岩窟の中には 『勝宮守と子戸自売の墓』 があるという案内板があった。
見てみたかったが、柵が張ってあったので入ることはできなかった。



約1200年前の天長4年(827)、
勝宮守と子戸自売の夫婦は下毛郡を治める 『擬大領』(郡の長官) として都からやって来た。
そして蕨野(本耶馬溪の多志田)に居を構え、ここに久福寺を開いた。

妻の子戸自売は15歳で勝宮守と結婚。
勝宮守が若くして亡くなってしまった後も、一人で職務を果たし、日本後記にも名を残した。
美しい賢女だったといわれる。
48歳で亡くなり、ここ久福寺には二人の遺品と墓があるらしい。

門前には室町時代のものといわれる宝塔が建っていた。

【久福寺門前宝塔】

久福寺から車で20分ほどで、戦国武将・後藤又兵衛の墓に着いた。



今まで後藤又兵衛といえば、
大坂夏の陣の道明寺合戦で、真田・毛利隊と合流する前に徳川軍に突撃し、
鉄砲隊に撃たれて壮絶な討死をした・・・
と思っていたので、ここに墓があることに関しては半信半疑だった。



案内板によると・・・
敗戦後、放浪の旅の末に縁故のあるこの地に落ち延び、隠棲の中で豊臣家再興を期していたが、
豊臣家廃嫡の不運を知って自刃した・・・とある。

しばらくして村人が、この自刃した武士が後藤又兵衛だと知って墓を建て、
後に墓の荒廃を見かねた伊福茂助という人物が、墓を建てかえたということらしい。

これが事実なら面白い話だけど・・・
歴史にはロマンがあるな・・・なんて思った。

【伝・後藤又兵衛の墓】

次に向かった一ッ戸城址は、残念ながら登山口に柵が張ってあり、登城することができなかった。
次の機会に登ってみることにした。

【一ッ戸城址入口】

耶馬溪は景勝地として知られ、大正4年(1915)に新日本三景の一つに選ばれている。
車の中から見る景色はきれいで、何度も脇道に車を停めて眺めたりした。

この辺りは何千万年前もの大昔に火山活動によってできた、凝灰岩や凝灰角礫岩、熔岩からなる台地となり、
その侵食によってできた、奇岩が多く連なった場所となっている。
途中、道路脇に石の名前と番号が標されていて、奇岩見学コースができている。



その大きさにびっくりした姫岩。
車と比較してみるとよくわかる。



耶馬溪は、以前に何度か来たはずだが、
こうやって史跡めぐりをしていると、とても見所が多い場所だった。
また、何度かドライブに来たい。