城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

松尾城址(福岡県)

2013-02-11 | 城(城址)歩き
2013年2月10日(日)

この日は福岡県朝倉郡にある 松尾城址 を見学。

松尾城 は筑前豊前の国境に位置する。
戦国時代、秋月氏の家臣であったとされる 宝珠山山城守 の居城だったとされている。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功により、黒田長政 が入国。
翌年には筑前領内に六つの端城が設けられ、
その 黒田六端城 の1つとなったこの城には、中間統胤 が入城した。
その後、元和元年(1615年)の一国一城令により破城となった。

国道211号線小石原交差点近く、
今では廃校になっている小石原小学校の門を入っていく。
グランドに駐車できるようになっているので、広くて車を停めやすい。



13:13
すぐに案内板があり、山道を登っていく。
城址は150mほど登った場所にあると書かれてあった。





案内標識が所々にあるので分かりやすい。



最後の登り。



13:18
開けた場所に出ると、土手の上に石垣が見えた。
城の 主郭南側の石垣 となる。
この城の 主郭 はニ段(上段・下段)で造成され、石垣や土塁で城壁がつくられている。

【主郭南側の石垣】

更に登った、主郭下段南側の石垣の様子。
飛び出した所は 横矢 とよばれ、ここから城壁に迫った敵に対して側面から攻撃を加える。



城の 虎口 北側の石垣。
補充修復されていて、当時の様子がよくわかる。

【虎口(北側)石垣】

主郭周囲の石垣。
石垣の修復は現地に残る石材を用い、築城時と破城時をイメージして復元されている。



小規模な主郭だが、横矢を4ヶ所設けた戦闘的な造りとなっている。



これは破城時の石垣を再現したものだろう。



主郭北側は築城時の 土塁 が再現されている。



主郭下段からみた虎口の様子。



虎口より入ってすぐの所にある、主郭下段の 礎石
これら礎石や石垣は、
黒田長政の時代に筑前六端城として改築された際に造られたとされる。
主郭上段にも礎石がみられ、当時は建物があったと推測される。



南側の石垣からみた城の急な斜面。



城の斜面には 堀切畝状竪堀 が見られる。
いずれも侵入してくる敵の集団行動を防いだものと考えられる。

【東側斜面の三重堀切】

これらの堀は秋月氏の領土となった16世紀代のものと考えられている。

【北側斜面の畝状竪堀】

主郭上段にある 櫓台

【櫓台】



北側からみた櫓台。



櫓台からの眺望が素晴らしい。



雪化粧の英彦山が見えた。



主郭下段より、城全体をみる。



西側斜面より、虎口を見上げたところ。



この松尾城址、整備がいきとどいたきれいな城址だった。
眺望もよく、気持ちのいい場所だった。

長岩城址(大分県)

2012-01-23 | 城(城址)歩き
2012年1月22日(日)

大分県中津市耶馬渓にある 長岩城址
建久9年(1198)、豊前国守護職・宇都宮信房 は、弟の 重房 に下毛郡野仲郷を与えた。
重房は姓を 野仲 と改め、この地に長岩城 を築く。
その後、野仲氏の所領は宇佐郡、下毛郡の一部にまで拡大。
この城は野仲氏22代、約390年間の居城となった。

長岩城は高い山や深い谷、岩壁などの天険の要害を取り入れ、
石塁砲座塹壕などを築いて城の防備を強化している。
戦国時代の地方豪族の山城としてはとても規模が大きく、
九州最大を誇るといわれている。

この日、その長岩城址へと向かった。
山国川沿いの国道212号線を進み、県道2号に入る。
やがて川原口バス停付近の左に大きな 『長岩城址』 の看板がある。
駐車場などはなく、道の脇のちょっとしたスペースに車をとめた。

山道入口には柵が張られており、立入が禁止されているのかと思ったが、
これは農作物を荒らす猪や鹿に対する防御柵で、登城者はこれを外して山道に入る。

この日は人影を見ることはなく、
どうやら登城者は自分一人のようだった。



登城口手前には津民川が流れている。
英彦山辺りを源流とする、山国川の支流となる。



記帳所があり、川に架かる木橋を渡って登城口へと向かう。





登城口からすぐの所に防御柵があった。
これも猪や鹿の進入を防ぐためのもので、外して山中へと入る。



柵を入ってすぐに 一之城戸 があった。

【一之城戸】

山道に沿って石垣があり、周囲に多くの石が見られた。
この辺りの石垣はいつのものかは分からない。



林の中には多くの石が散らばっている。



しばらく歩くと
山の斜面に沿って三ヶ月形に掘られた 三ヶ月塹壕 の跡があった。

【三ヶ月塹壕】

すぐ側には石塁があり、そこは ニ之城戸 となる。
他にも二十余箇所に点在する石塁の長さは、延700m余にも達するらしい。

【ニ之城戸】

ニ之城戸の石塁から進行方向にも石塁が見える。



山道には岩がごろごろ転がっており、歩きにくい場所があった。



しばらく行くと杉の木の隙間から石塁が見え始める。
三之城戸 の石塁は、きれいなカーブを描きながら本丸へと伸びていた。
まるで天に昇る龍のうねりのようで迫力があった。

【三之城戸石塁】

大きな岩がある場所へ出た。
ここは分岐になっており、本丸へ向かうには右側へと進む。
左側へ進むと砲座跡などがあるが、まずは本丸へと向かった。



三之城戸の石塁が続く。
これらは重要文化財となっており、
『壊さないように触れないように』 など注意書きがあった。



本丸へ向かって山道を上って行く。
一旦、石塁は途切れるが、今度は平らな石を積んだ新たな石塁が見え始める。



山道は石塁の先端を回り込む。



そこには 東之台 という開けた場所があった。
陽が射して明るかった。

【東之台】

苔のような植物がびっしりと生え、東之台全体が黄緑色に明るく見えた。



山道は石塁に沿って伸びている。



三之城戸の石塁よりも長く、どうやら頂上(本丸)まで伸びているようだ。



それにしても長く続く石塁には圧倒された。
よくぞこの山の中にこれだけのものを築いたものだと思う。

この城のあまりに広大な城域と土木量は地方豪族が単独で築いたと考えがたく、
それ以前に築かれた古代の城の転用ではないかといわれている。



来た道を見下ろすとこのような感じ。
苔が敷き詰められた緑色の場所は、今歩いてきた東之台。



石塁は更に上に向かって続く。



石塁に沿って、竪堀 が掘られている。
これは敵の侵入を困難なものにしている。

【竪堀跡】

石塁には往時の原形が完全に遺っているものもあるという。



竪堀を見下ろしたところ。



竪堀と並行する山道を上りきると、本丸入口に着いた。



本丸入口となる 虎口(城門)。

【本丸虎口(城門)】

虎口を入って左側の 腰曲輪

【腰曲輪】

城の修復記念碑。



本丸に到着。

【本丸】

本丸周囲に腰曲輪が配置されている。



長岩城(永岩城)は標高540.7mの所にある。

【本丸②】

本丸には 礎石 が見られた。

【礎石】

本丸からみる腰曲輪。

【腰曲輪②】

腰曲輪からみる本丸石垣。



もう一つの本丸虎口。

【本丸虎口(城門)②】

本丸からもと来た山道を下り、陣屋跡方面へと行ってみた。
少し行くと石塁が見え、そこが 陣屋跡 だった。
杉林の中にひっそりと遺構がある。

【陣屋跡】

天正16年(1588)、長岩城は 後藤又兵衛 率いる黒田軍の精鋭3500騎の大軍に攻められる。
その時の城主である 野仲鎭兼 は一族郎党、及び与力雑兵1500余と共に籠城。
勇戦するも敵の圧倒的な数によって力尽き、城は落城してしまう。
野仲一族は自決し、一族滅亡となり、この城も廃城となった。

この城址はとにかく石塁の造形美が素晴らしかった。
うねるように続く石塁は、ずっとその場で見ていたい気持ちだった。
そしてここが実際戦場となった城跡であることが、更に魅力を深めている。

岸岳城址(佐賀県)

2012-01-09 | 城(城址)歩き
2012年の最初の城址散策は、1月8日、佐賀唐津の 岸岳城址 へと向かった。

城は北波多村の東端、相知町との境界をなす 岸岳(標高約300m)に築かれている。
細長く伸びる尾根を削って平らにし、延々1kmの 連郭式曲輪 が配列されている。



近くに、中国東晋時代の桃花源記に登場する理想郷 『桃花源』 が表現された場所があった。
城跡とは何の関係もないものだと思う。



比高200m程の登山口に駐車場があり、そこに車をとめた。
駐車場からは二通りの道があるが、まずは舗装された道から行ってみた。



舗装道路から登山口に入り、しばらく歩くと案内板が見えてくる。



なるほど、細長い縄張の城跡となっている。



階段を上って行くようになっているが、草が鬱蒼と茂り、ちょっと躊躇してしまった。



階段を上りきると、標識が立っていた。
とりあえず先に、向かって左側の旗竿石に行ってみた。



割と急な上りになっている。
ロープを使い、岩を登る所もあった。



岩にびっしり生えていた植物。



旗竿石(はたざおいし) と伝わる岩。
城の物見の場所といわれる。
岩の上に直径数センチの丸い筒状の穴があり、そこに旗を立てたとされる。
分かりやすいように竿が立っていた。

【旗竿石】

玄界灘を一望できる。とあるが…
眺めはよかった。



再び標識に戻り、今度は反対側の本丸跡へと向かう。
目の前に岩があり、その左脇を進むようになっていた。



岩から3分程で 三ノ堀切跡 がある。
堀切には木橋が架かっていて、往時もこのようにして堀切を渡ったものと思われる。
ここから橋を渡った先は、城の 三ノ丸 となる。

【三ノ堀切に架かる木橋】

木橋から下の堀切を覗きこんだところ。

【三ノ堀切跡】

しばらく行くと低い石垣のようなものが見られた。
何かの土台かもしれない。



いきなり景色が見渡せる場所に出た。
測量時に三角点となった場所だった。





ここまではまだ城の三ノ丸となる。
二ノ丸に向かって、林の中を進む。



三ノ丸と二ノ丸の仕切となる、ニノ堀切 に到着。

【ニノ堀切】

このニノ堀切壁面に積まれた石垣は、戦国時代から残る本格的な石垣跡らしく、
切石 が積み上げられている。

【ニノ堀切壁面石垣①】

石垣は戦国時代以降のものだが、中世山城の面影も残す、重要な城郭遺跡となる。

【ニノ堀切壁面石垣②】

所々が崩れている。



堀切の中央に立ってみる。
左手が三ノ丸方面。 右手は二ノ丸方面。
敵が攻めてきた時、ここを越えるのは容易ではないだろう。



二ノ丸側からニノ堀切を覗きこんだところ。
ちょうど看板があった辺り。
石垣の向かって左側、鎖が張られている道を歩いてきた。



二ノ丸に入り、さらに林の中を歩く。
迷うことはないと思うが、登山道を示す赤テープが随所に見られる。



城跡全体に石が多く見られた。



埋まっている石垣跡。
崩れた石垣には、切石の跡が見られた。



二ノ丸 の看板がある、開けた場所に出た。

【二ノ丸跡①】

薄暗い林の中を歩いてきたので、広い場所に出てちょっとホッとした。

【二ノ丸跡②】

埋め門跡(うずめもんあと) とされる場所。
埋まっているので、これが門であるかは確認できない。

【埋め門跡】

二ノ丸の開けた場所から3分程歩くと 井戸跡 があった。





井戸跡を過ぎると本丸跡までは近い。
木々の間から陽光が射し、林の中も明るくなってきた。



本丸跡への山道から少しそれた方向を示す、やぐら跡 の看板があった。
せっかくなので、ちょっと行ってみることにした。



やぐら跡まで100m。
落葉が敷き積もる、少々角度のある斜面を下りて行くため、足がズルズルと滑る。
滑り落ちても落葉の絨毯を滑るだけなので、さほど危険ではないが、
木々に摑まり、用心しながら下りていった。

やがて木々の隙間に石垣が見えた。



山の斜面から突き出るように石垣があった。
櫓台となる石垣だろう。

【やぐら跡】

また何度か落葉の上を滑りながら、本丸への山道に戻った。

木に札が打ちつけてあった。
何か書かれていたのだろう。



陽光が明るい広場に出た。
ここが 本丸跡 となる。 中央に竹竿が一本立っていた。

【本丸跡】

本丸跡では久しぶりに青空が見れた。
ここはとても気持ちのいい場所だったので、
お茶を飲んだり、持ってきたチョコバーを食べたりしてのんびり休んだ。



ここ岸岳城の築城の時期は南北朝時代、1336~1392年頃と考えられている。
上松浦党 の棟領である 波多氏 17代が約450年間、盛衰を極めた城となる。

文禄2年(1593)には豊臣秀吉によって波多氏は改易され、
唐津藩主・寺沢広高 が領主となり、城は廃城となった。



本丸跡を歩いてみると石積みの祠があった。
お供えのカップに水を注ぎ、手を合わせた。



何か書かれてあるが、『波多』 の文字が読める。



のんびり休んだ後は、もと来た山道を戻った。
城の案内板まで戻り、そこから来た道と別の方へ行くと祠があった。



ここで、今日も無事に城址歩きができたことに御礼を言い、手を合わせる。
鬼子岳城址というのは、あて字だろうか。
この道はそのまま駐車場まで行けた。

岸岳城址では貴重な当時の石垣などが見れ、
山歩きとしてもとても面白い場所だった。

天草海道博 其の②富岡城址(熊本県)

2011-10-12 | 城(城址)歩き
10月9日、本日の最終目的地とした 富岡城址 は、
天草下島の北西、富岡半島の南東部丘陵上にある。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、
天草は唐津の 寺沢広高(てらさわひろたか) の領地となり、
寺沢氏は慶長7年(1602)、天草統治のため、富岡城 を築いた。
本城である唐津城が 『舞鶴城』 と呼ばれたのに対し、
支城である富岡城は 『臥龍城』 と呼ばれた。

寛永14年(1637)に勃発した島原の乱では、
肥前唐津藩の軍を敗走させ、勢いにのる天草四郎率いる天草一揆軍の攻撃を受けるも、
これを死守し落城を免れた。

現在、丘陵上には 富岡ビジターセンター があり、
櫓、石垣なども再現されている。
丘の下から眺めると、確かに攻めるには難しい城であったことがよく分かる。

【富岡城址】

城の堀の役目を果たしていた 袋池
木々に囲まれているにもかかわらず、不思議と一枚の葉も落ちていないため、
この池にはこんな伝説がある。

米屋を営んでいる父親が、あこぎな商売をしていたため、
それを悲しんだ娘がこの池に身を投げ、やがて一匹の龍になった。
それからというもの、朝早くまだ暗い頃に元の娘の姿に戻り、
水面を掃除しているのだという。

伝説はともかく、よく見るとこの池には確かに一枚の葉も落ちていなかった。
本当に龍になった娘が、朝早く掃除しているんだろうか・・・。

【袋池】

ぐるりと丘を回りこむように道路を上がっていく。
途中の道路脇に石垣があった。



島原の乱後の寛永18年(1641)、天草は 天領 となり、
その時に初代代官として 鈴木重成(すずきしげなり) が赴任した。
丘の登り口辺りに、その重成の像がある。

全島の統治にあたった重成は、まず郡内の行政組織を整備し、
また、実兄の 鈴木正三(すずきしょうさん) の授けを得て寺社を復興させ、
乱後の島民の思想善導をはかった。

さらに、当時の天草の石高は四万二千石で過大であったため、
(このことが、島原の乱が勃発した原因の一つであった。)
その貢納の半減を幕府に申し出たが、容認はされなかった。

承応2年(1653)、全島民のため、更なる貢納の軽減を幕府に訴えていた重成だったが、
江戸飯田橋の屋敷にて、66歳の生涯を閉じる。
幕府に身をもって訴えかけるため、自刃したとも伝えられる。

重成の犠牲をもって、やがて幕府は減税を認め、
万治2年(1659)、重成の養子・重辰の頃に、石高は二万一千石に半減された。
その後、全島民は重成を偲び、各地に 鈴木神社 を奉祀している。

【鈴木重成像】

丘を上ると、アダム荒川殉教の地 の碑があった。

先ほど、殉教公園にも石碑が建っていたアダム荒川だが、
禁教令にも屈せず信仰を守って処刑されたのは、
富岡城下の海岸だったと当時の神父らが書き残している。
それがこの付近なのではないかと推測されているようだ。

【アダム荒川殉教ノ地の碑】

やがて丘を上りきった所に駐車場があり、そこからは歩いて上った。
すぐに巨大な 二ノ丸石垣 が目の前に現れた。

【二ノ丸石垣①】

天草は島原の乱後、山崎家治(やまざきいえはる) の領地となった。
この時、幕府は資金を与え、富岡城の修復を命じる。
幕府は海外列強からの侵略を恐れ、鎖国政策を進めていたため、
国内最西端に位置する富岡城を守りの最前線基地として位置づけたかった。

築城の名手といわれた家治は、約三年の月日をかけ、
乱で傷んだ城の修理と守りの強化のための縄張りの拡大を行い、
新たに 大手門百間土手 を築き、城の大修復を行った。
現在見られる、富岡城の形がこの時完成する。

【二ノ丸石垣②】

山崎氏の後、天草は天領となり、鈴木代官の時代を経て、
後に再び私領となり、戸田忠昌 が城主となる。
しかし、戸田氏の領地替えの際に城は破城となり、
再び天領となって、天草の行政の中心となった。



城の復元整備の際、西側の石垣部分で三重の石垣が発掘され、
寺沢氏、山崎氏の築いた石垣が確認された。
寺沢氏の築いた石垣には、一揆軍との攻防の跡が残っているらしいが、
確認することができなかった。

【二ノ丸石垣③】

二ノ丸跡へと向かった。



途中の階段から、二ノ丸石垣を見る。

【二ノ丸石垣④】

古いものか、新しいものか?
所々に石割の跡が見られた。

【石垣写真・壱】

【弐】

【参】

二ノ丸跡は、塀と柵で囲まれている。
それに沿って、二ノ丸内を歩いた。

【二ノ丸跡の塀と柵】

二ノ丸から見下ろすと、出丸 の跡が見渡せる。
城跡公園として、とてもきれいに整備されている。

【出丸跡】

袋池が城の南側の堀の役割を果たし、
東部には 砂嘴(さし) に囲まれた巴湾が天然の土塁となり、
海からの外敵を防ぐ役割を果たしていた。

【巴湾の砂嘴】

陸からの攻撃は 砂州(さす) のみしかなく、極めて攻撃し難い天然の要害となっていた。
(砂嘴・砂州・・・波と沿岸流によって形成される細長い堆積地形)

【二ノ丸からみた巴湾】

二ノ丸からみた袋池。

【二ノ丸からみた袋池】

二ノ丸跡には、4体の偉人の像が。
まずは、勝海舟頼山陽(らいさんよう) の像。
なぜこの二人の像があるかというと・・・

安政3年(1856)10月、勝海舟は長崎海軍伝習所の訓練中に観光丸で富岡に来航。
この時、宿泊した鎮道寺の柱に 『日本海軍指揮官 勝麟太郎』 と肩書きをつけた落書きを残している。
この時、彼はまだ伝習生にすぎないが、
若くして将来の日本を背負って立つ意気込みを感じさせる落書きとなっている。
彼は翌年3月にも来航し、その時も別の柱に墨書きを残しているらしい。

頼山陽は、『日本外史』 の著者として知られ、
幕末の 尊皇攘夷思想 に大きな影響を与えた。
川中島の合戦を詠んだ(不識庵撃機山図)詩人としても知られる。
文政元年(1818)、西遊の途中、富岡城下に開塾していた儒者・渋江龍淵(しぶえりゅうえん)を訪ね、
泊天草洋』 にて西海天草灘の展望を吟じた。
これにより、頼山陽は広くその名を知らしめることとなった。

なるほど、頼さんは天草にゆかり深いが、
勝さんは落書き残しただけ・・・。 (笑)

【勝海舟・頼山陽像】

鈴木重成 とその兄 正三和尚 の像。

重成の兄・正三は、関ヶ原の戦いなどで活躍し、旗本にとりたてられるも、
42歳で弟・重成に家督を譲って出家する。
63歳の時、代官となった重成からの依頼を受け、天草に3年間滞在し、
政策顧問として重成を支えた。
正三は、乱で荒廃した島民の心の安定が第一と考え、神社仏閣の復旧を重成に勧めた。

晩年は江戸に住み、明暦元年(1655)、77歳の生涯を閉じる。
天草の人々は二人の遺徳を偲び、島内各地に鈴木大明神、鈴木塚を祀り、
鈴木神社も造営されている。

【鈴木重成・正三像】

二ノ丸に建つ4体の像。
その向こうの本丸跡に建っているのは、富岡ビジターセンター。

【二ノ丸跡】

東側、二ノ丸から少し下がった所に枡形が見える。
そこを下りてみた。

【二ノ丸東下の枡形】

枡形から見上げる、本丸櫓。

【本丸櫓】

枡形から見上げる、富岡ビジターセンター。

【富岡ビジターセンター】

本丸石垣。

【本丸石垣①】

枡形へ下りていく途中、稲荷神社があった。

【稲荷神社】

枡形から本丸を見上げるとこんな感じ。
堅牢な城が再現されている。

【本丸石垣②】

再び二ノ丸へ戻り、本丸跡へ。
本丸石垣横の階段を上る。

【本丸石垣③】

階段を上ると、復元された がある。

【櫓】

その正面にある、これも復元された 高麗門(こうらいもん) 。

【高麗門①】

本丸内からみる高麗門。
門の向こう側に見えるのが、先ほどの櫓。
右手が本丸櫓の壁。

【高麗門②】

高麗門をくぐるとすぐに富岡ビジターセンターがある。
実在した富岡城本丸 多聞櫓 をモデルとして建てられた。
ここは天草地方の自然、動植物、海生生物、人々の生活、人物、歴史などを
写真や映像によって紹介する施設となっている。

【多聞櫓(富岡ビジターセンター)】

富岡城の城としての役目は約70年だったが、破城後は三ノ丸に代官所が設置され、
幕末まで天草の行政の中心となった。

現在、富岡城址はきれいに復元整備され、
歴史を感じさせる古い遺構はあまり見られなかったが、
城の縄張りなどは忠実に再現されており、
難攻不落の当時の城の規模を体感できたことはよかった。

宇土城址(熊本県)

2011-09-19 | 城(城址)歩き
9月18日、連休の日曜日、この日は曇り。
熊本県宇土市にある 宇土城址 へと向かった。

宇土城 は、天正16年(1588)、肥後南半国(宇土・益城・八代)の領主となった、
キリシタン大名の 小西行長 によって築城された。
行長は、関ヶ原の合戦 の際は西軍として戦ったため、
敗戦後、石田三成安国寺恵瓊 らとともに、京の六条河原で斬首される。
その後は、肥後一国(球磨・天草を除く)の領主となった 加藤清正 が、
宇土城の城主となった。

現地に着くと墓地があり、小道を挟んで向かいの小高い丘が城址だった。
城址は城山公園として整備されている。



最初の駐車場所は墓地に訪れる人が使用していたので、小道をさらに奥へと進んだ。
この小道は 内堀跡 、墓地が 二ノ丸跡 となる。



少し行くと、広い城山公園駐車場があった。
ここに石垣があったが、最近造られたもののようだった。



黒っぽい石垣は、どことなく熊本城の石垣のような色で、いい感じではある。



この石垣の上は、城山公園となっている。



車を降り、歩いて墓地の方へ戻ってみると、
今度は古いものらしき石垣があった。
宇土城跡の石垣 と書かれた立札が立っている。

【石垣①】

【石垣②】

発掘調査では、本丸に約2mの盛り土があり、
行長 の時代のものが、その下から出てきた事などから、
この石垣は、清正 の時代に積み上げられたものだとされている。

【石垣③】

道端に咲いていた彼岸花。
そういえば、もうすぐ御彼岸か・・・。



本丸跡へは、二ヶ所の駐車場のどちらからも上れるようになっている。
広い駐車場の方から上った。

芝がきれいに刈り込まれた、城址公園広場。
ここが宇土城 本丸跡 となる。

【本丸跡】

城は東西550m、南北500m、面積20万㎡の規模を誇る。
内堀によって囲まれた本丸は、標高約16mの丘の上に位置し、
西側に二ノ丸、南・東側に三ノ丸が配置されている。
これらを大規模な外堀が取り囲み、堅固な縄張りとなっている。

【宇土城と城下町想像図】

本丸跡には、これといって城の遺構らしきものはなかったが、
初代城主 小西行長 の像が建っていた。



弘治元年(1555)、
堺(大阪府堺市)出身の商人・小西隆佐の子として、京都で生まれたとされる行長は、
キリシタンだった父の影響で、幼くしてキリスト教に入信する。

その後は備前国(岡山県)の土豪である 宇喜多直家 に仕え、
宇喜多家が 織田信長 に臣従すると、
天正8年(1580)頃から、信長配下の 羽柴(のち豊臣)秀吉 に仕える。
秀吉の下では、室津(むろつ)、塩飽(しあく)、小豆島(しょうどしま)を治め、
四国攻めや九州攻めなどで 水軍 を率いたことから 『海の司令官』 と称された。

天正16年(1588)には、秀吉から肥後国南部を与えられ、宇土城 の城主となる。
築城にともない、大規模な城下町の整備も行い、現在の宇土市街地の基礎をつくった。

文禄元年(1592)に始まる 朝鮮出兵(文禄・慶長の役) では、先鋒として出陣するも、
戦線が膠着すると、石田三成 とともに講和交渉を進めた。
しかし、この交渉は失敗し、さらに軍事優先の武断派 加藤清正 らとの対立が深まった。

慶長3年(1598)、秀吉の死後は、徳川家康 との関係を重視したとされるが、
2年後の 関ヶ原の合戦 では、石田三成 率いる西軍に参加。
主力として出陣するも西軍は敗れ、
行長は京の六条河原で斬首され、46年の生涯を終えた。

【小西行長の像】

関ヶ原の合戦の際、城は行長の弟・行景(ゆきかげ) が守っていた。
そこを 加藤清正 の軍に攻められ、交戦状態だったが、
西軍が敗れたとの一報が入り、城は明け渡された。
行景は自刃。
西軍の総大将・毛利輝元 に預けられていた嫡男も殺害され、
行長の家は途絶えることとなった。

城址のすぐ側には、宇土高校があり、
部活動をする生徒達の声がずっと聞こえていた。

その宇土高校側、本丸東側から下へ降りれるようになっていた。

本丸跡から一段低くなっていた場所。
腰曲輪らしき跡。



階段があったので、丘の斜面を下りてみた。
正面には宇土高校のグランドが見えた。



斜面を下りると、それほど高くはない石垣の上に立っていた。
飛び降りることもできるが、上るのが困難そうなので、本丸跡へと戻った。

本丸跡となる城址公園広場からの眺めは、
それほど高い場所ではないため、素晴らしい眺めというほどではないが、
見晴らしはいい。



再び駐車場に戻り、東側に歩いて行くと、
石垣と堀の跡があった。

【南東隅の石垣】

【堀の跡】

本丸東側にも石垣が残っている。



熊本城に建つ 宇土櫓 は、
江戸中期頃に宇土城の天守を移築したものとされていたが、
後の調査結果から、熊本城内で創建されたものであることが分かった。
ここ、宇土城に建っていた天守とは全く関係ないようだ。

【熊本城:宇土櫓】

関ヶ原の合戦後、肥後一円は加藤清正の領地となり、この城にも城代が置かれた。
清正はここを隠居地として宇土城の普請を始めるが、
慶長16年(1611)に死去してしまう。

翌17年には、幕府の命により城は破却。
のち、天草・島原の乱後は徹底的に破壊された。

正保3年(1646)には、宇土細川藩 によって治められるも、
築城は許されず、陣屋 を構えるのみとなり、
以降、ここに城が建つことはなかった。

島原城(長崎県)

2011-08-17 | 城(城址)歩き
8月15日、原城址を歩いたあとは、島原城 へと向かった。
相変わらず雨はやまず、車も多少混んでいたので、
到着するまで、1時間ほどかかった。

島原城に着くと、堀に架けられた通路を渡り、本丸へと入る。
本丸の石垣は高く、そのため車でググッと上る感じだった。
本丸に着くと、いきなり 天守閣 が目の前にあり、
その周辺が駐車場となっていた。
これには、ちょっと違和感を覚えた。

【天守閣①】

島原城の天守閣は、明治9年(1876)に一度解体され、
現在の天守閣は、昭和39年に外観復元された、五重の復興天守となる。

天守入口では、忍者姿や鎧を着た人達が観光客を案内している。
原城址の静かで神秘的な雰囲気とは違い、ここはとても賑わっていた。

【天守閣②】

城の外観をゆっくり見てまわりたかったし、時間もなかったので、
天守閣の中には入らなかった。

【天守閣③】

この地は森岳といい、この城も別名 『森岳城』 という。
天正12年(1584)、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい) にて、
日野江城主・有馬晴信 が本陣を構え、
佐賀の 龍造寺隆信 を討ち取った地でもある。

【天守閣④】

慶長17年(1612)、
有馬晴信が、岡本大八事件 をきっかけに追放、死罪となると、
元和2年(1616)、
大和五条(奈良県)から、松倉重政 が入封する。

重政は当初、日野江城に入るも、
その日野江城と支城の 原城 を廃し、資材や石垣の石などを転用して、
元和4年(1618)、島原城の築城にとりかかった。

【天守台石垣】

原城の城歩きでも記したが、
この島原城は総石垣で、4重5階の天守と櫓49棟を建てた、
4万3千石の大名には過分な城だった。
その結果、領民に重い税の負担を強いることとなり、
それが、島原の乱 が起こった原因のひとつとされている。

【天守閣⑤】

この地の地盤は、火山灰や溶岩流で形成されており、築城には危険な工事が伴った。
本丸には、松倉重政の祠が建っており、
重政と築城工事中に亡くなった人々が祀られている。



現在、本丸には三つの櫓が復元されている。
その一つ、
昭和35年(1960)に本丸南西の位置に復興された、西ノ櫓
現在の天守よりも先に完成したことになる。
島原の乱時、この櫓に蓄えていた鯨の肉が役に立ったという話がある。

【西ノ櫓・表側】

【西ノ櫓・裏側】

この西ノ櫓付近には、
18世紀末以降に桜門外の水源と三ノ丸との間に布設されていた、
石の水道管などが置かれていた。



西ノ櫓の正面にある、御城ノ鐘。

【御城ノ鐘】

本丸東に位置する、現在は民具資料館となっている、丑寅ノ櫓

【丑寅ノ櫓】

巽ノ櫓 は、昭和47年に復元された三重櫓。

【巽ノ櫓】

御馬見所(おんうまみしょ)とは、藩主が藩士の訓練状況をみたという場所。
三ノ丸にあった建物が、現在は本丸に移築されている。

【御馬見所】

本丸北側の駐車場から天守閣をみた。

この辺り、石垣の前にゴミ箱があったり、物置小屋があったり、
雑然としていたのがちょっと残念。



寛永14年(1637)、島原の乱時、
この城は 天草四郎 率いる一揆軍の猛攻を受け、これをしのいだ。
本丸には原城にあったものと同じ姿の、天草四郎像が建っていた。

【天草四郎の像】

外郭は、4キロ四方にわたり、矢挟間をもつ練塀で囲まれている。



塀に沿って歩いてみた。
一段下がった場所であるため、間近に本丸石垣が見れる。

【本丸石垣】

木がじゃまだと思う・・・。



島原城本丸から見る 雲仙普賢岳 は、
この日はずっと霧に包まれたままだった。



また雨が強くなったので、売店で雨やどり。
しばらく休んで、城の外周と堀を見るため、本丸を出た。

本丸では、歴史的な価値を考えるとちょっと物足りなさを感じたが、
石垣、堀を見ると立派なもので、やはり大がかりな城であることが実感できる。

【堀①】

屈曲した石垣が並び、段々状に見える。

【堀②】

城の南東から東側の水堀には、蓮がびっしりと茂っている。

【蓮池】

南東方向からみた天守。
手前は巽ノ櫓。



天守の東側に位置する、丑寅ノ櫓。

【丑寅ノ櫓】

本丸石垣側から、二ノ丸方面をみる。

島原城は、本丸、二ノ丸、三ノ丸を一直線に配置した、
連郭式の縄張の城だった。

二ノ丸石垣の上に建っている建物は、島原文化会館。
他にも森岳公民館などが建っている。

【二ノ丸遠景】

本丸と二ノ丸の間の堀。
きれいに整備され、歩けるようになっていた。
菖蒲園になっている場所もある。

【本丸、二ノ丸間の堀】

今度は、二ノ丸側から本丸石垣をみた。

本丸と二ノ丸は堀を隔てて、唯一廊下橋によって繋がっていた。
緊急時はこの橋を落とすことにより、本丸が独立できるようになっていた。



丑寅ノ櫓と本丸石垣。
草に覆われた石垣は、なかなかいい感じ。

【丑寅ノ櫓と本丸石垣】

上の写真、カメラを左にずらすと本丸東側の堀の様子がわかる。

【本丸東側の堀】

北東隅から北側の本丸石垣。

【本丸石垣】

二ノ丸石垣の南東隅。
大雨の中、車で移動しながらの外周見学だったので、
この時は堀の中を歩く気もしなかった。

【二ノ丸石垣】

堀から道路を隔ててある、武家屋敷・佐久間邸跡



島原藩二代藩主・松平忠雄 時代に 佐久間太郎左衛門 が家臣に召抱えられ、
知行100石とこの屋敷を下賜された。
往時の屋敷は300坪あまりの立派な武家屋敷だったようだ。

天草にて、住民約5000人がキリシタン信仰の疑いで幕府に取り調べを受けた際、
郡方勘定奉行として江戸へ上り、
穏便な解決を図るようかけあったのが、この佐久間太郎左衛門という人。
優秀な人物だったようだ。

ちなみに佐久間家は代々、太郎左衛門の名を世襲したらしい。
これではどの太郎左衛門さんなのか分からない。(笑)



島原城は築城の際、領民から重い税を摂取して建てられた。
島原の乱の時、この城は何万人もの命を奪った幕府側の城だった。
原城の遺構と歴史に触れた後、ここを訪れると、
この城に対して、どうしてもいい印象を持てない。

城の案内板には、
~城の復元は、長年の島原市民の夢である~ ようなことが書かれてあった。
ちょっと皮肉めいたものを感じたが、現在は観光地として多くの観光客が訪れ、賑わっている。
きっと島原市民の生活にも、いい影響を与えているのだと思う。



【おまけ】

盆休みを利用して、島原の2つの城を歩いてみたが、
大雨に悩まされ、運が悪かった。
その分、印象に残った城歩きだったが・・・。

帰り道、信号待ちの時にちらっと櫓風の建物・・・島原駅が見えた。



晩飯に川登SAで食べた、佐世保バーガーは美味かった。


原城址(長崎県)

2011-08-16 | 城(城址)歩き
8月15日、長崎県の島原へと向かった。
寛永14年(1637)に勃発した、
史上空前の大規模一揆といわれる、島原の乱
その舞台となった、原城 の城跡を見るのが目的だった。

この日は現地に近づくにつれ、だんだん雲行きがあやしくなり、
長崎県内に入った頃には、断続的な大雨となった。
島原湾沿いを走る、『がまだすロード』 を走っている時などは、
車の前方がほとんど見えないほどの豪雨だった。

雲仙岳 を眺めながらのドライブも1つの楽しみだったが、
その姿はほとんどが霧に包まれ、残念ながら見ることはできなかった。
「城歩きなんてできるのか?」 と不安になったが、
ここまで来たら、とりあえず行ってみようと思った。

やがて雨の中、原城址 に到着。

一度は本丸駐車場に車をとめるも、雨足は強くなり、近くで何度か落雷があった。
こんな、だだっ広くひらけた場所にいては危ないと思い、
付近のコンビニの駐車場で、雨が弱まるのを待つことにした。



ちょうど昼時だったので、コンビニおにぎりを食べながら車中で過ごした。

原城は、多くの キリシタン信者 が死んでいった場所。
激しい雷雨は、まるで人が来るのを拒んでいるかのようだった。

原城が舞台となった 島原の乱 は、
江戸幕府の領民に対する過酷な税の搾取と、キリスト教弾圧に対し、
民衆の怒りが爆発したために起きた、大規模な一揆だった。

戦国時代の天草・島原地方は、
有馬晴信小西行長キリシタン大名 が領主を務めていた。
そのため、領民の多くがキリスト教の信者だった。
しかしその後、豊臣秀吉 によってキリスト教は禁じられ、
慶長17年(1612)以降も、江戸幕府による禁教の時代は続いた。

元和2年(1616)、
大坂夏の陣 にて戦功のあった 松倉重政(まつくらしげまさ) が、
肥前日野江4万3千石を与えられ、島原藩の領主となる。
従来あった 日野江城 を廃し、島原城 の築城を開始した。
この島原城は、禄高に見合わない大規模な城であったため、
領民の限界を超える、過酷な税の搾取が行なわれた。

元和8年(1622)、
幕府により、長崎の西坂でキリシタン55名が火刑と斬首によって処刑される。
日本の歴史上、最も多くのキリシタン信者が一度に処刑された事件だった。
のちにこの事件は、元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう) とよばれる。
宣教師をかくまった信者の一家全員を処刑したため、その中には幼い子供も含まれていた。
長崎の西坂では、秀吉時代にも多くのキリシタンが処刑された。
二十六聖人の殉教 とよばれる事件では、
少年らが十字架に磔の末、処刑されている。

元和9年(1623)、
徳川家光 が3代将軍となると、キリシタン弾圧はさらに強化された。
島原城主・松倉重政も、それまではキリスト教を黙認していたが、
その事を家光に指摘され、厳しいキリシタンの弾圧を始めた。
寛永4年(1627)、キリシタンとその家族16名を雲仙地獄に投げ込み処刑。
年貢を納められない農民に対しても、拷問、処刑を行った。

寛永7年(1630)、重政は急死。
処刑された領民らの祟り、もしくは悪政に見かねた幕府による暗殺ともいわれた。

原城は戦国初期、日野江城 の支城として 有馬貴純(ありまたかずみ) によって築かれた。
この頃の原城には、天守 が存在したといわれる。
海上にその影が映った情景は美しく、その姿から別名 日暮城 ともよばれた。

しかし松倉重政により、島原城が築かれると、
一国一城令の影響もあり、原城は日野江城とともに廃城となった。

20分ほどで雷は遠のき、雨も小降りになったので、
この隙に、再び城址へと向かった。



本丸へ向かう道沿いに、三ノ丸石垣 の跡があった。

【三ノ丸石垣跡】

石垣は途中で破壊され、土台の土が見えている。
島原城築城の際に石垣や建造物は転用されたとされ、
また、島原の乱後には、幕府によって残存する石塁などは破却されている。

【三ノ丸跡】

三ノ丸石垣を上から見ると、何かの石碑があった。



松倉重政の死により、家督は嫡男・勝家(かついえ) が継いだ。
その勝家も引き続き、キリシタンを弾圧。
さらに農民にも過酷な年貢を要求した。

寛永14年(1637)、幕府によって、島原・南有馬村のキリシタンが殺害される。
これにより、ついに領民らの怒りは爆発。
有馬村の代官・林兵左衛門 を殺害する。
この事件が引き金となり、大規模な一揆へと発展していった。

その 島原一揆勢 は、深江村の藩兵と最初の衝突を起こし、
さらに勢力を拡大しながら島原城へと迫った。

一方、島原湾をはさんだ天草の地でも、
唐津藩主・寺沢堅高(てらさわかたたか) による苛政に苦しむ民衆により、一揆が起こる。
その 天草一揆勢 は、天草下島の北西にある 富岡城 へと進軍する。

しかし、城を攻撃するも落城にまでは到らず、
幕府軍の反撃に備え、原城に籠城する島原一揆勢と合流するため、島原湾を渡った。

石碑は、原城で3万7千にも膨れ上がった天草・島原一揆勢鎮圧のため、
総大将として最初に幕府から派遣された、板倉重昌(いたくらしげまさ) の碑だった。
三河国深溝(みかわのくにふこうず)藩主1万5000石。
16歳の頃から、徳川家康 に仕えたという譜代の重臣だった。

しかし着任した重昌は、天草・島原の一揆勢を甘く見ており、
さらに実戦経験に乏しい兵を率いていたため、
いざ戦闘になると統率が取れず、焦った末に無謀な総攻撃を命じた。
そして自らも一揆勢に突入し、戦死した。

この戦闘で、幕府軍の死傷者は約4000人、一揆軍は90余人。
一揆勢の大勝利となった。

【板倉重昌の碑】

原城の本丸跡までは、舗装された道路が延びている。
ヤシの木が二本突き出ている場所が、本丸になる。
道路左手は、二ノ丸 跡となる。



本丸駐車場に到着。
空撮写真による案内板があった。

①ホネカミ地蔵 ②本丸正門跡 ③本丸櫓台跡
④天草四郎像 ⑤天草四郎の墓碑 ⑥池尻口門跡 となる。

現地案内板より

まだ小雨のうちに、傘を差して 本丸跡 へと向かった。



本丸へ向かう道の右手、石垣内隅部 と案内板に書かれている。
石垣上部を取り壊し、その石や 裏込め石 を投げ込んで埋められていた。
埋められていた石の他に大量の瓦も出土し、
島原の乱当時、何らかの建物があったことを示す資料となった。

【石垣内隅部】

本丸へと続く道沿いには、所々壊れてはいるが、
当時の城の様子がよく分かる 本丸石垣 が残されている。

【本丸石垣①】

本丸北側にあたる、L字形の石垣。

【本丸石垣②】

本丸跡へ。

【本丸石垣③】

足元には上から流れてくる雨水で、小さな川ができていた。



本丸に近づくと、数匹の赤いカニが一斉に石垣の中に潜り込んだ。
海が近いので、こんなにカニがいるのかと思った。
まるで、城を守っている兵士のようだった。



本丸裏門にあたる、池尻口門跡
池尻口 』 と明記されている絵図などが残されている。
島原の乱後、幕府によって徹底的に破壊され、
石垣の 築石割栗石(わりぐりいし・岩石を割って小さな塊にした石材)などで埋められ、
さらに土を被せて隠されていたらしい。

発掘調査により、五段の階段を有する 虎口 であることが分かった。
また、階段の平場に門柱の 礎石 があったことから、
建築物である門があったことが分かった。

【池尻口門跡】

本丸跡 に到着。

島原の乱にて、3万7千人もの一揆勢が志を一つにし、幕府に大打撃を与え得たのは、
キリストの教えと、『天の使い』 とよばれた一人の青年のカリスマ性によるものが大きかった。
本丸には、一揆を率いた 天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ) の像が建っている。

【天草四郎像】

天草四郎は元和8年(1622)、
小西家浪人・益田甚兵衛好次(ますだじんべえよしつぐ)の長男として生まれた。
出生地は諸説あり、宇土郡江部村、天草諸島の大矢野島、または長崎県だという説もある。
幼い頃から 『 神童 』 とよばれ、

~文字を習わずとも、書物を読み、説法をした~
~盲目の少女に触れると視力が回復した~
~天草の岸辺から海上の島まで、海の上を歩いて渡った~
~差しのべた手に鳩が舞い降り、卵を産み、その中から経文が出てきた~

など、様々な奇跡を起こすと噂された。

さらに慶長19年(1614)に追放された宣教師・マルコス・フェラロ が残した書に、

~今から26年後に天使が現れ、諸人は頭上に十字架を掲げ、やがて天地が振動するであろう~

と、救世主の出現を予言したかのようなことが記されており、
その救世主が四郎であると、たちまち民衆の間に広まった。

また、四郎の馬印が、秀吉のものと同じ瓢箪であることから、
大坂・夏の陣で自害したとされる、豊臣秀頼 が実は生きており、
その落とし子の 秀綱 が、実は四郎なのではないか?
などの風説も流れたという。

これらは、小西氏の旧臣やキリシタンの間で神格化されたものだと考えられるが、
弾圧に耐え抜いてきたキリスト教信者、悪政に苦しむ民衆らにとって、
四郎の存在は、一筋の希望の光だった。

キリシタンらは、当時16歳(17歳とも)だった四郎を救世主として崇め、
一揆軍の 象徴的存在 として一致団結。
寛永14年(1637)、
一揆勢が有馬村の代官を殺害したことにより、島原の乱 が始まった。

【十字架の塔】

四郎は、島原城を攻める一揆勢を率いていたが、
天草での民衆の蜂起を知り、海を渡って天草一揆勢と合流。
天草上島にて、富岡城代・三宅重利 を討ち、唐津藩の軍勢を破った。
勢いにのる四郎と天草一揆勢だったが、
善戦するも富岡城を落すまでには到らなかった。

やがて、江戸に出ていた島原城主・松倉勝家 が帰国すると、
幕府の反撃に備え、島原一揆勢は原城に集結。
四郎も天草一揆勢とともに再び湾を渡り、原城に入城した。

原城は有明海に突き出た岬の断崖上に築かれており、
自然の地形を生かした、難攻不落の城だった。
しかし、島原城築城の際に塀や石垣を移築してしまっていたため、
本丸石垣以外は、元の形をとどめていなかった。
一揆勢は浜にあった舟などを解体し、その板を城の塀などに流用。
急ごしらえながら、城の防備を整えた。

板倉重昌率いる幕府軍は、原城を包囲。 攻撃を仕掛けるも、
四郎とともに原城に籠城する、3万7千人にまで膨らんだ一揆勢に敗退。
功を焦った重昌も討ち死にする。

幕府軍敗北に激怒した、将軍・徳川家光は、
老中・松平信綱 率いる幕府軍を派遣する。
さらに黒田氏、細川氏、鍋島氏といった九州諸大名にも出陣を命じた。

新たに着陣した信綱は、これ以上損害を出さないため、
兵糧攻め で、原城を無血開城に導くことを選択。
二ヶ月にも及ぶ籠城で、一揆勢3万7千もの人々の食糧はたちまち底をついた。
さらに信綱は、 『キリシタンでない者は、城を出れば命だけは助ける。』
と、城内の結束を乱そうとした。

そんな中、一揆勢は原城 大江口(田町門) 付近に本陣を置く、黒田軍に夜襲をかける。
食糧とともに不足する弾薬を奪った。
これを一揆勢の徹底抗戦の意志とみた信綱は、
寛永15年(1638)2月27日午後、ついに総攻撃を仕掛ける。

一揆勢の農民らを指揮するのは、元・有馬家旧臣の浪人達で、
その中でも天草四郎の父・益田甚兵衛 は、一揆軍を指揮した中心人物だとされる。
四郎は籠城してからは、本丸以外ではほとんど姿を見せなかったらしい。
キリシタンや農民らの集まりであった一揆軍だったが、
浪人らの指揮によって統率されており、幕府軍は苦戦をしいられた。

しかし、幕府軍・約12万もの兵の猛攻を受ける一揆軍は、次第に城の本丸に追い詰められ、
やがて皆殺しとなる。
28日正午頃、原城本丸は落城した。

天草四郎については、
細川家家臣の 陣佐左衛門(じんのすけざえもん) が、首を取ったとされる。
すでに息絶えていた、その人物が四郎であるとは知らず、
ただ服が綺麗だったので、首を持ち帰ったという。

本丸跡には、天草四郎の墓碑 がある。
この墓碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったもので、ここに移設された。

【天草四郎墓碑】

墓碑には、下のように記されている。
所々、欠けてはいるが、天草四郎の名が刻まれている。

現地案内板より

本丸跡には、四郎の墓碑の他にもいくつかの石碑を見ることができる。
池尻口門跡のすぐ側にある、佐分利九之丞の碑

佐分利九之丞成忠(さぶりきゅうのじょうしげただ)は、
因幡藩(鳥取県)池田家の家臣で、島原の乱が起こると慰問使として派遣された。
寛永15年(1638)2月27日の幕府軍の総攻撃にあたり、
細川軍の先陣として進撃するも、原城本丸にて討死。
絶命する直前に傍らにあった石に、刀で自らの姓名を刻んだといわれ、
その石がそのまま墓碑となっている。

中心にあるのがその墓碑で、
両脇にあるのは、のちに供養のため、子孫によって建てられたものらしい。

【佐分利九之丞の碑】

九之丞の碑の脇にも墓碑があり、これらも戦死者を弔ったものと思われる。



本丸の発掘調査では、キリシタン関連の遺物である、
十字架、メダイ(メダル)、ロザリオなどが出土した。
他にも火縄銃の鉛玉、輸入物の陶磁器、建築物があったことを示す瓦なども発掘された。

【本丸跡】

本丸を歩くと、所々に小さな墓碑がある。
発掘調査では多くの人骨も出土したらしく、それらを供養したものだろうか?



乱後、幕府によって徹底的に破壊され、埋め込まれた、本丸石垣が張り出した場所。
ここには築城当時、天守に匹敵する があったと推定されている。
乱時には、石垣をよじ登ってくる幕府軍に向かって、
ここから石などを落したと考えられる。

口之津、天草方面を見渡せる、絶好の場所となっており、
ここで海を眺めていたら、遠くの空と海の間に稲妻が見え、
とても幻想的な光景を見ることができた。

【本丸櫓台跡】

本丸櫓台の北側には、虎口跡 があり、
ここが、城の主要な出入口となる。
ここも徹底的に破壊され、埋め込まれており、
築石や瓦に混じって、大量の人骨が出土したそうだ。

【本丸虎口跡】

また、門柱の 礎石 や虎口の床面から 玉砂利 も検出され、
ここに瓦葺の 櫓門 があったと推定されている。
本丸正面の門であったため、特に立派な門であり、
同時に厳重な防御力を備えていたと考えられている。

【礎石】

本丸虎口跡から北側へ下りて見ると、本丸正門跡の 枡形 が見渡せる。
石垣によって仕切られ、屈曲する城道は、敵の突入の時間を稼ぎ、
防御もしやすい造りになっている。

【本丸付近からみた正門跡】

ここは整備中なのか? 発掘途中なのか?
本丸から正門にかけての虎口周辺には、石がゴロゴロ転がっている。
廃城となった際に破壊された、石垣の石だろう。



ここも虎口付近の破壊された石垣。
人の手によるものだろう、崩れた石が並べられている。
発掘後に並べられたものだと思う。



本丸西側にあたる、一段下がった場所では、本丸石垣 を見ることができる。

【本丸石垣①】

ここも上部が崩れ落ちている。

【本丸石垣②】

本丸櫓台
ちょっと駆け登ってみたくなったが、雨で滑りそうだったのでやめた。

【本丸櫓台①】

さらに少し下がった場所から見た櫓台。
古代の遺跡という感じ。

【本丸櫓台②】

本丸櫓台跡からの眺め。
海に向かって張り出している場所が、大江口(田町門)、天草丸 となる。

乱時、幕府の総攻撃で、大江口付近の一揆勢は退却したため、
天草丸の一揆勢・約1800人は、一時孤立してしまう。
そこに残された人々は、幕府軍の猛攻に耐えながら、
どんな思いで、あの場所から本丸を見上げていたのだろうか。

【本丸櫓台跡からみた天草丸方面】

しばらくここからの景色を見ていたかったが、
再び雨が降り始めたので、戻ることにした。
本丸虎口から正門に抜けてみたかったが、
もう一度、天草四郎の墓碑に別れを告げて帰りたかったので、
もと来た経路を引き返した。

本丸駐車場に戻り、本丸正門跡 周辺を見てまわった。

【本丸正門跡】

本丸正門跡に建つ、ホネカミ地蔵
島原の乱後、128年経った明和3年(1766)、有馬村・願心寺の 注誉上人 が、
戦乱で命を失った人々の骨を、敵・味方の区別なく拾い集め、
その霊を慰めたとされる地蔵尊塔。

ホネカミとは、『骨をかみしめる』 の意味で、
『自分自身のものにする』 さらに 『人々を救う』 と、理解すべきだと書かれている。

【ホネカミ地蔵】

舗装道路沿いに、城壁跡 となる石垣がある。

【城壁跡①】

廃城となった際、石垣の石はその多くが島原城へと運ばれたが、
この石垣は、取り残された築城当時のまま残っている。

【城壁跡②】

乱時、城の防御のために築かれた 空濠 の跡。
籠城時は竹や木で柱をたて、カヤでその上を覆い、
非戦闘員(老若男女)を収容していた。

【空濠跡】

本丸から離れ、三ノ丸 大手門 跡へ。
ここは、日江口 ともよばれ、原城の表玄関となる。

【大手門跡①】

布津村、堂崎村、有家村、有馬村の3500余名が、
三ノ丸とともに、ここを守備した。
最後の幕府軍の総攻撃では、細川軍がここを破った。

【大手門跡②】

大手門跡から少し入ったところ。
手前が三ノ丸、二ノ丸を経て、奥の小高い丘が本丸となる。

【三ノ丸より】

三ノ丸から見る原城址は、うっすらと霧に包まれていた。
空気が澄んでいて、何かが浄化されていくような感じで、とても神秘的だった。

島原の乱時、天草四朗の母・マルタ(洗礼名・本名不明)は、
姉・福(洗礼名レシイナ)らとともに、肥後・細川家に捕らえられていた。

幕府軍が原城を制圧した時、一揆軍は皆殺しにされ、城内は血の海と化していた。
一揆軍のキリシタンらは、天に召され、天国での後生を信じ、喜んで死んでいったという。

四郎の母と姉は 『神の子である四郎が、死ぬはずはない』 と信じていた。
幕府側も四郎の姿を見たことがなく、その死を確認できずにいたが、
母・マルタが、次々と運ばれてくる一揆軍の死者の首の一つに目を止め、
『さぞや苦しかったであろう』 と涙した様子から、
ようやく四郎の死を確認できたという。



ふと思ったが、原城に籠城し、戦いに敗れて皆殺しとなった一揆勢は約3万7千人。
何となくその数に聞き覚えがあると思ったら、
福岡ドームのホークスの試合で、球場が満員になった時の数である。
原城址に行った日から、野球放送を観ながらふとそんなことを想像し、
ぞっとしてしまう時がある。

島原の乱での一揆勢の目的は、領主の行き過ぎた苛政に対する抗議運動だった。
幕府はそれを武力で圧し、
さらに領民統治の不手際を理由に、島原藩主・松倉勝家を斬首とし、
天草領主・寺沢堅高には、所領没収(のちに自害)という処分を下した。

その後、将軍・家光は、さらにキリシタン弾圧を強化したというから、
都合の悪いものはすべて排除してしまおうというやり方であり、
また、増加する異教徒への恐怖心も感じ取れる。
こんなに多くの人々が犠牲になり、いったい何の教訓が残ったのだろうか?
悲しいというより、やりきれない思いが残った。

立派な天守閣を再現し、観光地となった城もいいが、
この原城のような、『歴史上重要な城址』 は、
いつまでも残しておいてほしいと思った。

黒崎城址(福岡県)

2011-08-14 | 城(城址)歩き
8月14日(日)、盆休みの二日目。
福岡県北九州市にある、黒崎城址 へと向かった。

黒崎は北九州市八幡西区の中心街で、黒崎駅周辺の地域を指す。
かつては北九州の副都心として栄えたが、
近年は商業施設の閉鎖などが相次ぎ、商業機能は大幅な縮小傾向にあるという。

国道3号線を走り、黒崎に着くと大きな駅ビルが見えた。
縮小傾向にあるとはいえ、まだまだ賑やかな繁華街のようには見える。
駅に着く手前、藤田三丁目の交差点を左折する。
高架をくぐって道なりに行くと、やがて小高い山が見え始めた。
周囲は工場などが多く、そこに城山グランドと書かれた看板があったので、
目指す城址は、この山に違いないと思った。

そこから山を上る道を探し、少し迷うも城山公園の駐車場にたどり着いた。

【城山公園駐車場】

この城山は、道伯山(どうはくさん) といい、
かつては 筑前六端城 の一つである、黒崎城 があった。
駐車場からすぐの場所に、石垣跡 を見ることができた。

【石垣跡①】

【石垣跡②】

【石垣跡③】

【石垣跡④】

駐車場側にまわり込むと、段々状になった石垣跡もあった。

【石垣跡⑤】

【石垣跡⑥】

慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦 の功により、
筑前52万石の大名となった 黒田長政 は、
翌年から本城である、福岡城 の築城にとりかかる。
同時に豊前との国境の守りを固めるため、筑前六端城 といわれる、
若松城、大隈城、鷹取城、小石原城、左右良城、そしてここ黒崎城を築いた。

城主には、禄高一万六千石となった黒田二十四騎の一人、
井上周防守之房(いのうえすおうのかみゆきふさ) が任ぜられた。
九州の関ヶ原といわれる 石垣原の合戦 では、
大友軍の参謀格である 吉弘統幸 を槍の一騎打ちで破った、
勇猛果敢な人物である。

筑前六端城とは、豊前中津城主・細川忠興(39万石) の勢力に睨みを効かすためのもので、
特に黒埼城は、重要な拠点の一つだった。
如水の時代から、黒田家に仕えてきた之房だが、
長政の時代になっても、変わらぬ信頼関係がうかがえる。

【黒崎城址の石碑】

城の本丸であっただろう場所は、芝のきれいな公園となっている。
人は誰もいない。 数羽のカラスの鳴き声が響くだけの静かな公園だった。





一段低くなった場所は、城の 二ノ丸 だろうか。



いたる所に石が転がっている。
かつては城の石垣だったものだろう。

元和元年(1615)、幕府の 一国一城令 により、
黒崎城は廃城となり、城郭は破壊された。
元文3年(1738)には、現在の黒崎駅付近の新田開作のため、
堤防の石にこの城の石垣が使用された。



山の斜面の階段を下りてみた。



階段を下りる途中にあった、これも石垣の残骸だろう。



住吉神社という、小さな神社に行き着いた。

【住吉神社の鳥居】

城の石垣に使われたような、割られた石で造った小さな菜園の痕跡があった。



さらに遊歩道になっている、山の斜面に沿って歩いた。



広いグランドに出た。
この辺りはきれいに整備された緑地公園となっている。
特に何もなさそうなので、来た道を戻ることにした。



戻る途中、舗装道路の下に石垣を見つけた。
本丸近辺以外で、城の遺構らしきものを見つけたのはこれくらいだった。



城が廃城となった後、城主・之房は、城の西麓の屋敷から陣原(じんのはる)の屋敷に移り、
寛永11年(1634)、八十歳という高齢で没した。
現在、その陣原にある 舎月庵 は、之房の屋敷跡だといわれている。

之房は晩年、自らを 道伯(道柏とも) と号した。
道伯山の名はここから付いたものだろう。
その城山の眺望から、
かつてこの城は、洞海湾の海上を監視する役目も担っていたであろうと想像できる。
腕組みをし、じっと城下を見据える、之房の姿が目に浮かぶようだった。

益富城址(福岡県)

2011-07-19 | 城(城址)歩き
秋月城址を15:30に出発。
福岡県嘉麻市大隈の 益富城址(ますとみじょうし) を目指した。

30分程で城址近くまで来ると、
道路脇に 『益富城址大手門』 という案内板があった。
予定外のコースだったが、せっかくなので行ってみようと思い、
案内板の指示する場所へ向かった。

すると、善照寺 というお寺に着いた。

【善照寺】

ここに、益富城の 大手門 が移設されているようだ。



お寺の山門は新たに造られたようで、
益富城の大手門は、善照寺の旧山門として残っていた。

【益富城・大手門】

門には立て札があり、
『寛文8年(1668)、益富城正門(大手門) を移築』 と書かれてある。

古文書記載によると、このお寺は室町時代後期にはその名が記されており、
九州討伐時、豊臣秀吉 が益富城に在陣した際には、
本願寺教如(きょうにょ)(本願寺顕如の長男) を同行させたとある。

また、善照寺となった後には、
慶長9年(1604)には 黒田長政
慶安元年(1648)には 黒田長興 もこのお寺を訪れたようだ。



すぐに善照寺をあとにした。

16:10 益富城の 搦手門 を山門とする、麟翁寺(りんのうじ) に到着。
ここでは、黒田武士・母里太兵衛 の墓を拝むことができた。

【益富城・搦手門】

まだ充分に空は明るかったが、先を急いだ。

16:35 益富城址 到着。

城址は、城山自然公園として整備されていた。
駐車場に車をとめる。 他に車はなく、人影もなかった。
駐車場トイレ脇に、城址案内板があった。



すぐに、別曲輪跡 があった。

益富城は、標高187mの山頂に築かれた山城で、本丸、二ノ丸、馬屋から成る。
東側に 出丸 を設け、
両脇を固めるように、5箇所の 別曲輪 が配置されている。
これらは東の豊前方面に対する、賢固な防御として築かれた。

【別曲輪跡①】

城の形は出丸を頂点にした三角形となっており、
規模は50,000㎡程と推定されている。



それほど高くはない山城なので、上り坂もほとんど苦にならなかった。



二箇所目の別曲輪跡

【別曲輪跡②】

益富城は永享年間(1430年頃)、
大内氏第11代当主・大内盛見(もりみ・もりはる とも) により築城される。
その後、永禄年間(1560年頃)には、毛利元就 の領有となり、
家臣の 杉七郎忠重(すぎしちろうただしげ) が城番となった。

天正年間(1580年頃)には、古処山城を本拠とする 秋月氏 の支城の一つとなる。
しかし、秋月氏は 豊臣秀吉 による九州討伐で敗れ、
その後は 早川長政(長敏) が城番を務めた。
その長政も関ヶ原合戦で西軍に着いたため、敗戦後、城も土地も没収された。

二ノ丸手前の 空堀 は秋月時代に造られたもの。
深い横溝を堀り、攻めてくる敵を遮断する目的で造られた。

【空堀(横堀)跡】

慶長5年(1600)、城は 黒田氏 の領有となり、
福岡藩 筑前六端城 の一つとなった。
そして、この時は黒田家に仕えていた 後藤又兵衛基次 が城主となった。

慶長11年(1606)、後藤又兵衛の出奔後、母里太兵衛 が城主となる。
元和元年(1615)、母里太兵衛が没すると、同年、一国一城令により、
黒田氏は本城である福岡城のみ残され、六端城はすべて破却される。
益富城も廃城となった。

城の東側の防御を固めた、
黒田時代(後藤又兵衛・母里太兵衛時代)に造られた 石垣跡
ほとんどの石は崩れ落ちていて、石垣の形は成していない。

【石垣跡】

石垣は、花崗岩(かこうがん) の巨礫(きょれき)を切り出したものが使われた。
石を割った跡がはっきりとわかる。

【崩れた石垣】

石垣跡のすぐ側にある、水ノ手曲輪跡
秋月時代、天然の水を貯めておく貯水池として整備された。
水は飲料水として使用された。

【水ノ手曲輪跡に転がる石】

斜面をトタン屋根のように畝状(うねじょう)に掘った 畝状竪堀跡
正面から攻めてくる敵の動きを封じる空堀跡に対し、
こちらは左右から攻めてくる敵の動きを封じた。
空堀と同じく、秋月時代に造られたもの。



城の頂上までは大して時間はかからなかった。



二ノ丸入口に到着。



二ノ丸から本丸にかけて見渡すと、なかなか広い。

まずは、黒田時代に建てられた櫓の跡。
二ノ丸での戦闘と防御のためのものだった。

【二ノ丸櫓跡】

搦手門(現・麟翁寺山門) 跡と推定されている 枡形の虎口
黒田時代の二ノ丸出入口となった場所。

【二ノ丸枡形の虎口①】

その枡形虎口の修復された石垣。
戦闘面を重視した造りとなっていた。

【二ノ丸枡形の虎口②】

石垣の石が転がるその奥、土を盛り、防御を固めた 土塁 の跡。
土塁を張り出させ、そこから敵に向かって矢を放つ、横矢跡 も見られる。

【横矢跡と崩れた石垣】

土塁と石を積んだ 石塁 で、防御を強化した。

【石塁①】

【石塁②】

二ノ丸には、枡形虎口付近の櫓の他、
横矢辺りにもう一つ、櫓状の建物があったとされている。



本丸での戦闘に備えた、本丸櫓 の跡。
他にも礎石のある本格的な瓦葺の建物、多聞櫓と呼ばれる長屋状の建物などの跡が残る。
すべて黒田時代のもの。

【本丸櫓跡】

こちらも戦闘面を重視した造りになっている、枡形の虎口
黒田時代に 追手門(おうてもん) があった場所と推定されている。

【本丸枡形の虎口】

本丸にあった展望台。
上ってみようかと思ったがやめた。

【展望台】

この城には、秀吉の一夜城 の話が伝わる。

天正15年(1587)、秀吉は30万の軍勢とともに 小倉城 に入った。
まずは秋月攻略のため、秋月二十四城の一つ、岩石城 を1日で陥落させる。
勢いもそのまま、ここ大隅にも攻め寄せた。

岩石城陥落の知らせを受けた 秋月種実 は、種長(種実の長男)の守る 古処山本城 へと逃れる。

秀吉は、秋月の本城を無血開城させるため、
まずは嘉麻・穂波の村々にかがり火を焚かせ、
次に大隅の民に町中の戸や障子を運ばせ、一夜にしてここに仮の城を築いた。
その光景を秋月の城から見た秋月父子は、村々のかがり火を放たれた火だと思い、
一夜にして城を築いた秀吉を恐れ、戦わずして降伏した。

秀吉は協力した大隅の民に、愛用の陣羽織と佩刀(はいとう)を与え、
永代貢税(長期間の貢税)を免除した。

【櫓?一夜城?(笑)】

秋月の本城・古処山が正面に見える。

二ノ丸には、白米流しの跡 という遺構も残っている。
窪みから麓に向かって白米を流し、滝のように見せかけ、
豊富な水とこれだけのことを短期間でやってしまう戦力をアピールし、秋月氏を驚かした。

現代に伝わる秀吉という人物らしい話だと思う。

【本丸跡から古処山を望む】

7月17日、かなり急いで回ったコースだったが、
最後の益富城は当時の遺構も多く、城址歩きが楽しめた。
秋月城址と違い、とうとう人と会うことがなかったので、
城址貸切気分で、本丸からの眺めをのんびりと楽しんだ。

17:30 益富城址をあとにした。

秋月城址(福岡県)

2011-07-18 | 城(城址)歩き
7月17日、光雲神社参拝後は、山城歩きに備えてシャツと靴を替え、
朝倉市にある 秋月城址 へと向かった。

すでに13:00をまわっていたため、やむなく高速道路を使った。
14:20 秋月城址に到着。



いきなり城址前に着いたはいいが、駐車する場所がなかったので、
杉の馬場という道を通り、有料の秋月駐車場に駐車した。

そこから歩いて再び城址へと向かった。



現在、城址は秋月中学校となっている。
日曜なので学校は休みだし、ひっそりとしているものと思っていたが、
城址周辺と城下町は観光地となっているため、意外に多くの人がいた。

野鳥橋を渡って、城址へと向かう。
野鳥川 の水音が、とても涼しく感じた。

【野鳥川】

城址までの小道、杉の馬場 は桜の名所となっていて、
春には大勢の観光客が訪れる。
道沿いには茶店や売店が並んでいた。

山の中の静かな城址を想像していたため、
こんなに観光地として整備された場所とは思っていなかった。
正直、ちょっと驚いた。

【杉の馬場】

小さな川のせせらぎが聞こえてくると、
秋月城址の石垣と水堀が見えてくる。

【小石原川へと流れる小川】

秋月城と城下町の歴史は鎌倉時代に始まる。
建仁3年(1203)、原田種雄(たねかつ) は、
筑紫郡原田郷(現・福岡県筑紫野市原田) からこの地に移り、秋月姓 を名乗った。

秋月氏は本城を、標高約860mの 古処山(こしょさん) 山頂に置き、
古処山城跡 として城跡も残っている)
平時は山麓に居館を構えていた。
秋月氏は、秋月の町を囲む山々にいくつもの山城を構えていたが、
その中の 荒平城杉本城 に居館があったといわれている。

荒平城は、現在の秋月城址の北側に城跡が残っている。
杉本城は、現在の秋月城址の辺りにあったといわれ、
この城が秋月城の前身であったといわれている。

城は尾根と尾根の間の緩やかな谷だった場所を造成して高く盛り上げ、
その前面に石垣と堀が築かれた。

秋月氏は、16代・種実(たねざね) の時代、
九州征伐に乗り出した豊臣秀吉に敗れ、日向国高鍋に移封される。
これにより、約400年続いた秋月氏のこの地での活躍は終焉を迎えた。
そして、秋月城の前身である杉本城も廃城となった。

【石垣】

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで徳川軍は勝利し、
筑前国には 黒田長政 が配置される。
長政は叔父にあたる 黒田直之 の知行地として、秋月一万石を与えた。
直之は廃城となっていた杉本城を改修し、居館とした。

元和9年(1623)、長政の遺言により、二代藩主・忠之は、
弟(長政の三男)の 長興(ながおき) に秋月周辺5万石を与え、
ここに支藩・秋月藩 が誕生した。

【水堀】

少し歩くと 瓦坂(かわらざか)がある。
水掘を渡る通路だが、地面に瓦が埋まっていることから、こう呼ばれている。

【瓦坂】

瓦は縦に並べられて埋まっている。
こうすることにより、土が流れてしまうのを防いでいるとのこと。



この瓦坂は、
表御殿(現・秋月中学校校庭) の 大手門 へと通じる通路だった。



秋月城は 陣屋形式 の小規模な城で、
そのため 秋月陣屋 とも呼ばれる。

城下の縄張りは、この水堀を 内堀 とし、
北を流れる野鳥川を 外堀 とした。

【瓦坂からみた水堀のようす】

さらに石垣が続く。



ここの通路は舗装され、中学校の校庭に到る。
水掘中の石垣は残されている。



長く続く石垣の飛び出した場所には、櫓でもあったのだろうか。



現在、秋月中学校の校庭となっている場所は、
表御殿 があった場所で、ここで藩の政治が行われていた。



校内にも、苔生した石垣が残る。



さらに堀に沿って歩くと、長屋門(ながやもん)がある。
正しくは 内馬場裏御門 という。
秋月城内で唯一、移設されずに現地にそのまま残る建物となる。

【長屋門①】

長屋門脇の石垣。
櫓台のような石垣なので、秋月氏の時代の門の跡だろうか?



この長屋門は、昭和62年より3年間の修復工事と発掘調査が行われ、
古い礎石が発見されたことから、原形に近い形で復元できたということだった。

【長屋門②】

この長屋門から城内に入った。

【長屋門裏側】

現在、梅園 と呼ばれる場所は、
黒田時代の 奥御殿跡 となる。

発掘調査の結果、礎石、水路、井戸、厠などが残っており、
明治維新時の絵図面とほぼ一致することが確認できたらしい。

【奥御殿跡】

一段高くなった場所に慰霊塔が建っていた。

【慰霊塔】

梅園から中学校校庭が見える。
奥御殿からみる表御殿はどんな風に見えたのだろうか。



梅園から 黒門(くろもん) がある場所まで歩いた。

【黒門①】

この門は、もとは秋月氏の本城である 古処山城搦手門(からめてもん) だったもので、
秋月藩成立後の元和9年(1623)、現・秋月中学校前の瓦坂の奥に移設され、大手門 となった。

さらに明治13年(1880)、垂裕神社(すいようじんじゃ) の門として現在の場所に移された。

【黒門②】

城址近くには、秋月郷土館がある。
敷地内には秋月藩・戸波家の旧家屋と庭園、郷土美術館、歴史資料館などがある。
(入場料500円を支払った際、秋月城の図が載っている資料をもらえる)

ここで本物を見れるとは思わなかった、島原の乱を描いた 島原陣図屏風
黒田長政が戦闘中に溺れそうになった時、その冑が目印となり、
無事に救出されたといわれる 兜鍪の冑(とっぱいのかぶと) など、
貴重な展示物を見ることができた。

【秋月郷土館】

同じく敷地内には、秋月藩士・戸波半九郎の屋敷跡がある。
戸波家は黒田長興と共に秋月入りした、六兵衛定次を祖とする秋月藩の上級武士だった。
秋月藩高禄の武家屋敷の特徴を備えた、貴重な資料となっている。

【戸波半九郎の屋敷跡】

明治2年(1869)の版籍奉還後、
秋月藩第12代当主・黒田長徳(ながのり) は秋月藩知事となるも、
明治4年(1871)の廃藩置県の際に免職となった。

ここに、約270年間続いた秋月支配は幕を閉じることになる。

今回、秋月城址を歩いて、
城址周辺にも多くの史跡があったが、時間の関係で行けなかった。
古処山城跡、荒平城跡、武家屋敷など見たい場所がたくさんあった。
また、とても自然の美しい場所だった。

『筑前の小京都』とよばれる秋月城下町、
今度はもう少しゆっくりと見物したいと思う。